うさぎ
とよこ
うさぎ
ああ、なんだって。
わたしは一人、飼育小屋の前で苦悩する。
何だってこう、こいつらはこんなつぶらな瞳で、わたしを見上げてくるのだろうか。
グラウンドの片隅。十数匹の動物が押し込められた、狭い金属製の建物。それがうちの学校の飼育小屋だ。ニワトリにあひる、カメにうさぎ。それが格子戸の中の住人たち。彼らはそれぞれ別々の小部屋に入れられていて、グラウンド側の部屋に詰め込まれているのは、ほてほてとおっくうそうに歩く、かわいらしい生き物。格子越しに中を覗くと、丸まるに太った体を近くまで運んできて、何かを期待するようにわたしを見つめてくるのだ。
じーっと。
どうしよう。
わたしは一人、その視線に苦悩する。
ああもう、どうしてこうこいつらは。
こんなにおいしそうなのだろうか?
「掃除、終わった?」
突然後ろから声を掛けられて、わたしとうさぎとの見つめ合いは終了する。わたしは驚いて振り返って、そこにはもちろん、もう一人の飼育係のトヤマがいた。
「まだなの? 手伝おうか?」
人の良さそうな笑顔で訊いてくる。
トヤマは自分の分担のところが終わったら、いつもこう訊いてくれていた。わたしが心配することではないけれど、こんなにいつでも他人に親切にしていたら、いつか大損するんじゃかろうか。
わたしはトヤマの申し出を断って、自分で掃除をすることにした。うさぎの部屋はわたしの担当だ。例え、うさぎから目を離せなかったわたしを見て誤解したトヤマが、善意で譲ってくれただけだとしても、引き受けてしまった以上は、うさぎ部屋の掃除はわたしの仕事なのだ。
掃除が終わるまでの間、ただひたすら耐えるしかない、かなりの苦行なんだけれど。
飼育係になったのはたまたまだった。
わたしは本当は体育係になりたかったのだけど、運悪くじゃんけんに負けて落選、その後も嫌になるほど負け続けて、それで残ったのが飼育係。
結構な貧乏くじ。飼育係は、面倒だからと一番人気のない係だった。
……そんなのに進んで立候補するようなのもいるけど。
結局わたしを手伝ってくれるトヤマを見下ろして、動物を好きなのかと訊いてみた。床を綺麗にしていたトヤマは、不思議そうな顔でわたしを見上げる。飼育係になって一週間、わたしから話しかけたのは初めてだった。
それだけわたしは、色々耐えるので精一杯だったのだ。
「うん、好きだよ」
いわく、トヤマの家は一軒家だけれども、妹が喘息だとかで、動物が飼えないのだという。トヤマは小さい頃から動物を飼いたくて、だから六年生は飼育係ができるのを知ったとき、一も二もなく立候補したそうだ。
わたしはちょっとトヤマがうらやましくなった。トヤマは純粋に、飼育係の仕事が楽しくて仕方ないのだ。掃除の手伝いをすることさえ、トヤマにとっては楽しいことなのだ。
わたしは違う。
六年生のクラスは、全部で五組ある。だから、月曜から金曜日まで、それぞれのクラスの飼育係が交替で当番を務めることになっていた。朝と放課後、一回の当番で二度ずつ。
わたしは一組で、ちょうど週の初めの月曜日。朝早くやってきて、わたしは飼育小屋の中を眺める。
端の部屋に居座るうさぎたちは、ぴょこぴょこなんて跳ねない。不健康そうにのそのそ歩いて、無防備にわたしの方へ近づいてくる。ふわふわやわらかそうな毛並み、丸まるに太った体。愛くるしいその姿を見て、それでもわたしは思わずにはいられない。
なんて、おいしそうなんだろう。
わたしは少しおかしいのかもしれない。こんなことを思うなんて。
本当はきっと、見ない方がいいのだ。見たら思わずにはいられない、抑えが効かなくなったら、止める人間がいないのに。わたしは毎週早めに来て、そうして早めに来てしまった自分に後悔する。早く来いと、何も悪くないトヤマを心の中で責める。
他の曜日は、係じゃないんだからと、来る理由がないんだからと、まだ我慢できる。でも、月曜日は。なんだかんだ理由をつけて、自分に言い訳して。少しでも早くやって来て、うさぎを見つめずにはいられない。
見つめて、考えずにはいられない。
どうしてこんなに、おいしそうなんだろう。
我慢するのはつらくて、苦しくて、ちっとも楽しくないのに。だけど、うさぎを見ながら考える瞬間、わたしはたぶん、とても幸せなのだ。
食べてみたい。
口にしたら、どんな味がするんだろう。
噛んでみたら、どんな歯触りがするんだろう。
血があふれるかもしれない。それは、なま暖かいのかもしれない。それまで生きていた、証であるかのように。
それは一体、どんな味がするんだろう。
そのとき一体、どんな気分がするんだろう。
わたしはそのときも、嬉しいと思うんだろうか。
幸せ、なんだろうか。
無邪気に見上げてくるうさぎに、わたしは格子越しに手を伸ばす。いけないと、わたしの中のまともな部分が、それは駄目だと、止めている。だけど、わたしは手を伸ばさずには――
「おはよっ」
心臓が止まるかと思った。
体中の血管が、どくどく音を立ててる。朝だから涼しいはずなのに、わたしは汗だくだった。わたしの顔を見て、トヤマはすまなそうにする。
「驚かせた? ごめんね」
一瞬何を言われたのかわからなくて、一拍おいてから、別に、と答えた。心臓に悪い。だけど、わたしは密かにトヤマに感謝する。わたしは今、何をするかわからなかった。トヤマに声を掛けられなければ、何をするかわからなかった。
トヤマはわたしが見ていた方を、ひょいとのぞき込んだ。
「うさぎ、本当に好きなんだね」
「え?」
「じっと見てて、全然僕の方に気づいてなかったよ」
にこにこと笑うけれど、それはわたしにとっては、笑い事ことじゃなかった。
そう、わたしはうさぎが好きだ。すごく、好きだ。
でもそれは、そんな笑いながら言うような好きじゃないのだ。
一度決まった係は、半年の間変わらない。一度当番が回ってくるたびに、わたしはカウントする。後何回、と。取り返しのつかないことをしてしまう前に、カウントはゼロになってくれるだろうか。
月曜日の放課後、いつものように飼育小屋に行ったら、下級生らしい小さい子たちが、小屋の側に座り込んでいた。どうしたのかと思って近づいて、わたしは嫌な気分になった。そこらに落ちていたのだろう木の枝で、飼育小屋の鶏たちにちょっかいをかけていたのだ。
乱暴な足取りで側まで行って、夢中になっているところにげんこつをお見舞いする。涙目になっていたけど、容赦するほど優しくない。最後には怒鳴りつけて追い散らして、ふんと鼻を鳴らしてやった。
後からやって来たトヤマに、わたしは苛立ち紛れに言う。
あんなことして、何が面白いんだか。
言ってから、わたしは複雑になった。なら、わたしがいつも考えていることは、何だというのだろう。あいつらよりましだと、思ってでもいるのだろうか。
トヤマはわたしの話を聞いて、表情を曇らせた。たぶん、動物好きのトヤマにとっては、つらい話なのだろう。最近多いんだって、と暗い口調で言う。何が、とわたしは訊ねた。
「学校の飼育小屋で飼われてる動物に、悪戯する人――」
飼育小屋は大抵目立つところにはないし、昼間だって周りに児童がいないことが多い。それが夜中になれば、宿直の用務員さんにさえ注意していれば、他には誰もいない。だから、狙われやすいのだそうだ。
何が楽しいんだろう、トヤマは悲しそうに言った。怒るんじゃなくて、悲しそうに。ぎゅっと握られた拳は、男子にしてはきめ細かい肌をしている。どうなんだろうね、とわたしは応えた。
何が楽しいんだろう――トヤマの言葉に、わたしは心の中で思っていた。もしかしたら、その人にとってはそれが、とても幸せなのかもしれない――
日曜日の夜は、家族全員がそろう。大学を卒業して外に住んでいるお姉ちゃんも、他の日は部活で忙しいお兄ちゃんも、みんな家にいるのだ。だから、たまの外食はいつも日曜日だった。
お父さんの車でちょっと遠出して、フランス料理屋さん。始めて来るお店で、そういう日は、ちょっと高いものでも頼ませてくれるのだ。
「わたしはこれがいいな、ねえ、いいよね」
お姉ちゃんはメニューを見て、さっさと決めてしまった。自分のお金じゃないからって、と値段を見てお母さんがため息をつく。お姉ちゃんはメニューをわたしの前に突きだして、
「あんたもこれにしなよ」
と一番高い料理を指さした。
うさぎ料理だった。
わたしはうろたえた。うさぎ料理――うさぎって、食べるものなの? お母さんがわたしの様子を見て、やめなさい、とお姉ちゃんに注意する。
「うさぎ料理なんて、食べさせないの」
子供が好きそうなかわいい動物を食べるということが、わたしに衝撃を与えているんだと思ったんだろう。ううん、とわたしは言った。
「わたし、これ食べたい」
何だ、と思っていた。
何だ、うさぎって食べるものなんだ。食べてもいいものなんだ。わたし、おかしいわけじゃなかったんだ。
拍子抜けしたような気分だった。出てきた本物のうさぎ料理を食べて、それはもっと強くなった。
笑い出したいような、そんな気分。
うさぎ料理はおいしかった。
でも、ふつうの食べ物の味だった。思い詰めるような、そんなあらがいがたい魅力なんて無かった。ただの料理だ。
また食べたいなあ、とわたしは言った。高いのよ、とお母さんは渋い顔をして、いいじゃないか、とお父さんが笑う。
うさぎってこんなものなんだ。
もううさぎを見ても悩むことはないだろうと、わたしは思った。うさぎ料理はおいしいけれど、でも、もう本当の味を知ったから。あのうさぎたちを見て食べたいと思うことなんて、ないだろう。
月曜日、わたしは明るい気分で登校した。職員室で鍵をもらってから教室に鞄を置き、飼育小屋へ走る。いつもはとぼとぼ歩いていたけれど、今日も耐えないといけないのかって暗い気分だったけど、今日はそうじゃなかった。グラウンドを横切って、走って飼育小屋にたどり着く。
運動場に一番近い側の小部屋にいるのが、うさぎたち。もうつぶらな瞳で見られたって、わたしは平気なのだ。かわいいって、思うだけだ。
わたしは嬉しくなって、格子戸の鍵を手にとって、何気なく中を見て――あれ、と思った。
なんで、赤いんだろう。
わらが敷き詰めてあるはずの地面が、赤く染まっている。白と赤のまだらに見えるのは、何だろう。床に散らばっているのは、何だろう。
いつの間にか、へたり込んでいた。
うさぎを刺したらしいナイフが、飼育小屋の中に光っていた。鍵を回していないのに、格子戸がキィと音を立てて開く。誰かに壊されたんだろうと、わたしは妙に冷静に考えていた。
解体されたうさぎが、うさぎだったものが、狭い部屋の中に展示されていた。そう、展示されている。
わたしは思った。
たぶんこれをやった人は、誰かに見せるためにやったのだ。そうじゃなかったら、自分が見るためにやったのだ。地面の上のそれらは、綺麗に並べられていた。
なんでこんなことをするんだろう。
考えて、わたしはぞっとした。
何が楽しいんだろう。トヤマの声が耳に甦ってくる。――何が楽しいんだろう。
わからない、わからない、わからない。
こんなことをやった人の気持ちがわからない。こんなことをしてしまう人が怖い。こんなことをできる人が怖い。こんなものを――
不意に、元気そうな声がかけられた。
「おはよう、どうしたの?」
わたしはゆっくりそちらを向いた。血の気が引いているだろうわたしを見て、トヤマははっと息をのんだ。
「落ち込むことないよ」
トヤマは慰めてくれる。
「飼育係の誰かのせいじゃないもの」
ジャングルジムのてっぺんに腰掛けて、わたしたちは同じ方向を見ている。視線の先では、警察の人たちが飼育小屋を囲んでいた。現場検証だった。ドラマでしか見たことがないような。近頃このあたりの小学校で起きている事件と、同一の犯人だと判断されたのだという。
「あんなことをした人が悪いんだよ」
トヤマは慰めてくれるけど、言うことがずれていた。トヤマはわたしが、うさぎが殺された責任を感じていると思っているのだ。第一発見者だから。責任を感じて落ち込んでいると、そう思っているのだ。
わたしは責任なんて感じていなかった。わたしはただ怖かった。頭がおかしくなりそうなほどに、怖かったのだ。
でも。
「……うん」
わたしは頷く。わかってるよという風に、頷いてみせる。本当の理由を言うわけにはいかない。
わたしはあのとき思ったのだ。うさぎの死体を見て思ったのだ。
もったいない、って。
地面に捨てるなんて、なんでそんなもったいないことをするんだろうって、心底不思議に思ったのだ。
どうしてこんなことをするんだろう。
どうして、食べないんだろう?
自分自身のこの思考が、一番の恐怖の対象だった。
「うん」
わたしは頷く。
「うん、わかってる」
犯人が捕まったらいいねと、トヤマに向かって言う。そうだねとトヤマは答えた。わたしが返事をしたので、安心したみたいだった。
「君たち」
警察の人たちと話していた先生が、ジャングルジムの上にいるわたしたちを呼んだ。警察の人がわたしたちの話を、もう一度聞きたがってるみたいだった。
わたしはトヤマよりも先に立ち上がって、てっぺんから一気に飛び降りた。綺麗に着地して、まだ上にいるトヤマを見上げる。もう大丈夫だよと言うように、少しだけ笑って見せた。まだわたしの顔は少しだけ青ざめていたかもしれないけれど、トヤマはほっとしたみたいに微笑んだ。わたしと同じように、てっぺんから飛び降りる。
すっころんだ。
「大丈夫?」
今度はわたしが訊く番だった。失敗するくらいならやめておけばいいのに、トヤマは馬鹿なのかもしれない。
差し出したわたしの手を取って、トヤマは困ったように笑いながら立ち上がった。
「あは……痛いや」
「そりゃ痛いよ」
あーあ、とトヤマは膝を払う。
「血が出ちゃった」
膝小僧を見てぼやいた。トヤマは運が悪いらしい。膝はずいぶん酷い擦りむけ方をしたみたいで、出ちゃった、なんてものではない。
どくどく流れ出した血が、トヤマの足を伝う。男の子にしてはきめ細かい、トヤマの肌を伝う。
おいしそうだな、と思った。
うさぎ とよこ @toyoko27
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