はじまりの魔法使い

ケー/恵陽

01: 神が愛する人は早死にする

 ディーアの遺言で、彼の遺骨は大地にばら撒かれた。ガルセラの街に文字通り骨を埋めていく。ヴィオラッサは寂しいとは思わなかった。安心したと言ったらおかしいだろうが、彼はディーアの死を知った時にホッと安堵の息を零していた。どうしてそう思ったのか、彼自身不思議に思った。

「ヴィオラッサ……」

 低い声が彼を呼んだ。その声は普段より心なしか沈んでいるような気がして、ヴィオラッサは苦笑した。

「さすがのジータも、明るくはなれないよね」

「あまりにも呆気なく逝ったものだから、実感が湧かない。そこらの茂みから顔を出してきそうな気がしてならない」

 ディーアの護衛として、ずっと傍に付き従っていたハジータムナク。彼とディーアはけして仲が良いとはいえなかった。それでも互いに認めていたと思う。

「キルキトが泣いている。一人でも泣いている者がいれば、あの男は自分の価値を知るだろう」

「そういうジータは泣いてやらないのかい」

「私は泣けない。だからキルキトがいる。ヴィオラッサこそ、泣けばいい」

 ハジータムナクの提案にヴィオラッサは眉尻を下げる。手につまんだ遺骨をもてあそび、彼はどう答えるべきか迷った。泣きたくないわけではない。ただ涙が出なかったのだ。哀しいと思わなかったのだ。

「あの男、最期の最期で私の名前を呼んだ」

 手に取っていた遺骨が篭の中に落ちた。ハジータムナクの顔を窺うと、彼は不愉快極まりないという表情を浮かべていた。ディーアの欠点は幾つもあったが、その一つに人の名前を覚えないというものがあった。いつもヴィオラッサのことはヴィーと呼び、ハジータムナクのことはジータと呼んだ。キルキトの名前ですら、キトと呼んでいた。彼が永遠の眠りにつく前に、ヴィオラッサは初めてフルネームで名を呼ばれた。それはハジータムナクも然りである。

「僕もだよ。いつの間に覚えたんだろうね」

 初めに何度も名前を言ったのに、彼は最期になるまで略称で呼び続けた。ハジータムナクに至っては事あるごとに訂正していたというのに、最期まで取って置かれた。

「腹立たしい」

「そうだね」

「一言文句も言ってやりたかった。卑怯な男だ」

「うん、そうだね。もっと色々教えてやりたかった」

 初めて会った時の彼は何もわからない、常識の欠如した子どもだった。生活能力はもちろん、文字の読み書きすら出来ない貧しい子ども。自己暗示と己の力のみで立ち上がるしかなかった、可哀相な子ども。人との付き合い方も知らない。感情のぶつけ方も知らない。手の繋ぎ方も知らない。持つのは力だけだった。

「ジータは、名前を呼ばなかったね。呼んであげればよかったのに」

 並び立つ顔を見上げればハジータムナクの眉根に皺が刻まれるところであった。

「呼んでやったさ。見えないところでなら」

 その不機嫌な表情にヴィオラッサは思う。厳しい評価を下していた彼の精一杯の歩み寄りはディーアに届いていたのだろうか、と。もうそれを訊くことは出来ない。

「ハジータムナク」

 ヴィオラッサが呼ぶ。ハジータムナクは何も言わず、上司である彼の前に片膝を着く。

「はい」

 訊き損ねたこともあった。してやりたいこともあった。だが神々に愛された寵児は、もういない。大地が、空が、海が、すべてが彼を哀しんでいる。生きることは楽しいのだと教えた。他人は恐ろしくないのだと教えた。前を向いていくことを学ばせた。

「ディーアはいない」

「はい……」

「荒れるよ。これから荒れる。領主は変わるし、抑えていた力はもうないし、僕では抑えきれない。きっとディクテもまた来る。荒れるよ」

 領主はずっとディーアだった。たとえすべての業務をヴィオラッサに丸投げしていたとしても、彼は一度として領主と名乗ったことはなかった。

「暫くは混乱するだろう。だから、護る為に僕は手を尽くそうと思う。鍛冶師に戻せなくて悪い。もう少しだけ、手を貸してくれ」

 平和というものがある。それを為したのは、ディーアだ。唆したのはヴィオラッサでも、それは紛れもなくディーアと呼ばれる男一人の所業。彼が手に入れた平穏をみすみす手放す訳にはいかない。

「ヴィオラッサ、私は言いました」

 眉間に皺を刻んだハジータムナクに、ヴィオラッサはそうだったと思い出す。

「私は貴方の頼みなら聞きましょう」

 真剣な眼差しは何十年も前とまったく変わらない。堅物で不器用で、しかし信頼できるこの男。ヴィオラッサはしっかりと頷く。

「では、補佐を頼む」

「はい」

 深い夜の双眸が、ヴィオラッサに突き刺さる。その双眸が誰かと被ってみえた。

「……ああ。そうか」

 何かと問うハジータムナクの双眸は、ディーアのそれとよく似ていた。ヴィオラッサに全幅の信頼を置いている瞳だ。哀しいと思わなかった。涙は出ようはずもなかった。ディーアは彼をこの先で待っているのだ。全てにおいての信頼をヴィオラッサに預けた状態で、待っている。

 神々に愛された不運な寵児。その若い死は、悼む理由にはならない。彼は自らの出来ることをやり尽くしたのだから、悼むべきではない。彼の死がとても幸福な出来事に思えたのは、笑っていた彼を見たからだ。作り物ではない本物の笑顔を持っていた。

「ヴィオラッサ?」

「……ジータ。僕は長く生きるよ」

 生きていたことを誇りと思えるように生きたい。空を仰ぐ、雲が流れていく。

「ディーアが作った世界をまだ僕は生きていたい」

「では」

 砂を踏んで立ち上がる音がした。並び立つ横顔はかすかに微笑んでいるように思えた。

「私もお付き合いします」

 応えたハジータムナクはヴィオラッサに確かに微笑んでみせた。

 はじまりの魔法使い、ガルセラ領主ディーア。彼の齎した平穏と魔法は世界の礎となった。


――ガイア暦九三五年 ディーア、享年四十六歳

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