スキトキメキトキス

「ねえ、お兄ちゃん」

 ぼくの部屋の扉を開き、顔だけだしたイズミが話しかける。

「なにかね」

「お勉強をしましょう」

 中略して、そんなこんなでぼくの部屋にてテーブルをはさんで向かい合う図に。

「お兄ちゃん」

 イズミはぼくに応える。

「それは?」

「――すき」

「そうですか。じゃあそれは」

「――あい」

「……では、最初からもう一度」

「お兄ちゃん、すき」「じゃあそれは?」

「愛」

「…………」

 漢字の勉強。

 なんかイズミの表情を見る限り、最後のやつは違う言葉に変換されてる気がするのだけれど。

「満足した」

 そういうとイズミはテーブルに広げた自作の漢字帳を片付けた。

「『鋤』と『藍』なんて読めるだろう」

「まだだめな気がするからもう一度お願い」

「これからは自助努力でお願いいたします」

 いざまともに勉強をはじめると、シャープペンシルの筆記音と本の頁をめくる音、それから時計の針の音だけが部屋のなかにしばらく響く。

「ねえ、お兄ちゃん。辞書」

「自分で取りな」

「めんどくさい」

「お兄ちゃんを好きならもっと敬うべきだと思う」

 恥ずかしいことを言った。

「お兄ちゃんさん。辞書が欲しいです」

 恥ずかしいことを確認してしまった。

「……ほれ」

 顔が見えないよう辞書で隠しながら渡す。

「ねえ、知ってる?」

 イズミが問う。

「じいとあいは、えっちのとなりにあるの」

「そうでしたか」

 特別知りたくもない情報を教わる。明日も使えないトリビアだ。

「じー」

「教科書を凝視しなさい」

 まずイズミは今この部屋にいる理由を確認するべきだと思うのだけど。

「えー、ちっ」

「舌打ちするな」

「あーい」

「お兄ちゃんさん様はノリが悪いです」

「重複敬語は、そもそも敬意が上乗せになるといった質のものではない」

 ようやく国語の勉強らしいことを言う。

「さすがお兄ちゃん」

「はいはい」

 それからしばらくは教科書との対面時間。体感ほど勉強の進むペースは速くない。

 ぼくは壁にかかる時計に目をやった。

「大隙」

 ぼくのこめかみの少し下あたりから変な水音がした。

「……あ」

 迂闊。

「隙。逆から読んだらキス。お兄ちゃんはたいへんうかつ」

 つい一瞬前にその事実は確認済みだ。

「そんなんじゃ、勉強にならないだろう?」

 イズミに問いかけてみる。

「ん。お兄ちゃんのことすごく勉強できた」

「そんなことを問うているわけではないのだよ」

 勉強は遅々として進まなかった。

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