第9話

 現場には既に機動隊が到着していた。テレビなどのマスコミも多く詰めかけ、とてもじゃないが出ていける雰囲気ではない。

「守川!」

 物陰に隠れて様子を伺っていた仁優に、声をかけてきた者がある。声で相手を予測し、振り返ってみればそこには予想通り、瑛がいた。

「お前も来ていたのか……」

「あぁ。……今日はあの着物みてぇなの着てねぇんだな」

 仁優が何気無く言うと、瑛は「あぁ……」と歯切れ悪く答えながら辺りを見渡した。

「まだ人が多過ぎる。今下手に着飾ると、悪い意味で人目を引きかねないからな」

 現代に馴染まない服装であるという自覚はあったようだ。仁優は、出るタイミングが来るまでの時間潰しのつもりで問うた。

「その口ぶりだと、戦闘の時はいつもあれを着てるんだな。……けど、何でだ? 代々伝わる戦闘装束とか?」

「着飾っていた方が後々戦闘で役立つんだ。……が、あまりゴテゴテと自分を飾るのは趣味ではなくてな……妥協した末が、アレとコレだ」

 言いながら、瑛は左耳のイヤーカフをピンと弾いた。

「あれで着飾ってるうちに入るのかよ……と言うか、普通逆じゃねぇの? 動きにくくなったり引っ掛けたりしそうだし、戦闘服ってなるべく飾らないようにするもんだと思ってたんだけどな」

「あくまで、私の話だ。お前は真似をするなよ。恐らく、あっという間に何処かに何かを引っ掛けて、すっ転ぶ」

 馬鹿にするように言う瑛に、仁優はムッと顔をしかめた。だが、仁優が何かを言う前に瑛が再び口を開いた。

「……機動隊も、そろそろ潮時だ。出番だぞ」

 言いながらあの戦闘装束を羽織り、キュッと帯を締める。改めて見ると、帯の長さは普通よりも長い。踝まであるであろうそれは、風になびいてひらひらと揺れている。戦慣れしていない者であれば、致命的な弱点になりかねない長さだ。

「優先すべきは自分の命。次が、人々の命だ。死んだ者は黄泉に堕ち、そのまま黄泉族の……敵の仲間入りをしてしまう。相討ちを狙うな。一般人よりも神の転生者が敵に回る方が後々更なる犠牲者を生む事になる。人を守って死のうとするな。わかったな?」

 瑛の言葉に、仁優は緊張した面持ちで頷いた。実際には、本当に殺されそうな人を目の前にしたらどんな行動を取るのか、自分でもわからない。……が、その結果、自分が黄泉族となり人々を殺すようになるかもしれないというのは避けたい事だ。

 表通りから銃撃の音が聞こえた。今まで様子を見ていた機動隊が、遂に発砲を許可されたらしい。だが、銃撃がやむとすぐに激しい動揺の気配が伝わってくる。

「黄泉族のほとんどは元が人間だ。銃を使えば、倒す事は簡単にできる。雷獣や黄泉醜女も、防御力だけに限って言えば人間や他の動物と大差は無い。だが、奴らは痛みを感じない上に死を恐れない。倒し損ねれば再び立ち上がり襲い掛かってくるし、仲間が死んでも動じない。……人間にしてみれば、これほど戦い辛く恐怖を感じる相手はいないだろうな」

 確かに、一度は死んだ彼らは、死後の世界を恐れる事は無い。痛みを感じないのであれば、傷付く事も恐れないのだろう。それどころか、彼らの場合は死ねば再び葦原中国に生まれ変わり、人間として生きていく事ができるのだ。ならば、攻撃される事に何を恐れる事があるだろう。

 仁優は、背中にゾクリとした物を感じた。怖い。倒しても倒しても恐怖を感じない黄泉族も勿論怖いのだが、それよりも怖いのはこれからの事だ。死んだ黄泉族は葦原中国に転生し、死んだ人間は黄泉に堕ちるのであれば……それでは、この戦いは人間か黄泉族か、どちらかが滅ぶまで終わらないではないか。そして、滅ぶとしたらそれは人間の方だ。殺されるまで死ぬ事が無い黄泉族と違って、人間には寿命という物があるのだから。

 戦慄する仁優の眼前で、遂に機動隊が撤退を始めた。これ以上は隊員達の身が危険だという判断なのだろう。恐らく、この後は住民の避難指示を終えた自衛隊が出てきて、そしてこの場は戦場と化す。

 テレビ局や新聞記者達も撤退し始めた。空中にはまだマスコミ所属の物と思われるヘリコプターが旋回しているが、こちらにもやがて退避命令が出るのだろう。

「自衛隊が出てきて本格的な戦闘が始まれば、場の混乱は必至だ。時間は少ないが、それまでに片付けるぞ」

 言いながら、瑛は向いのビルの陰に目を遣った。そこには神谷と夜末、オロシが待機している。目が合ったのだろう。瑛は黙って頷くと、ぽつりと言った。

「行くぞ」

 その言葉を仁優が認識する前に、瑛は前に向かって飛び出した。走りがけに左手の親指を噛み、血を滴らせる。滴り落ちた血は地面に辿り着く前に、人の形に姿を変えた。

 血が転じた者達は皆等しく小さい。恐らく、手乗りサイズだろう。赤い髪を振乱し、赤い着物を纏っている。仁優は、孫悟空の分身の術を思い出した。

「新神! 目の前の敵を殲滅しろ!」

 瑛の鋭い号令に、赤い者――新神達は一斉に動き出した。そう言えば、新神というのが何なのか、まだ教えて貰っていないなと考えながら、仁優は前に出る。

 赤い新神達は敵の眼前で急に姿を消した。……いや、姿を消したのではない。赤い霧に身を変えたのだ。敵は赤い霧を切り裂こうとするが、霧を切れる筈が無い。

 赤い霧はやがて、敵の口や耳鼻の中に吸い込まれるように入っていった。そして数秒後、赤い霧を取り込んだ敵はいきなり爆発したように内部から飛び散った。電子レンジで茹で卵を加熱した時のように。破裂した敵の亡骸からは、人の姿に戻った新神が元気良く飛び出してくる。敵を、内部から切り裂いたのだろう。

 新神達が活躍している間、瑛もボーッと見ているだけではない。瑛は左耳のイヤーカフをもぎ取ると、それに息を吹きかけた。すると、イヤーカフはみるみるうちに姿を変えて、やがて一振りの剣となる。緑の宝石を柄にはめ込んだ、銀色の剣だ。

「ハッ!」

 一気に敵の眼前に駆け寄り、掛け声と共に剣を振る。眼前の雷獣や黄泉醜女が、一瞬のうちに肉塊と化した。

 数体を片付けてから、瑛が仁優に視線を投げてくる。視線の意味は即ち、「お前もやってみろ」だ。その視線に、仁優は緊張した面持ちで頷いた。

「う、うぉぉぉぉぉっ!」

 気合いだけは充分な叫び声をあげ、拳を振り上げて突き進む。両の腕には、銅で作られた籠手。これなら多少なりとも攻撃力を上げられる上に、咄嗟に腕で防御した時もダメージが少なくて済む。

 しかし、気合いの入った一撃は空しく空を切った。悲しいかな、拳が相手まで届いていない。

「……何で剣を持って来ないんだ。それなら多少はリーチを稼げただろうに……。まさか、その足でリーチを補えるとでも思ったのか?」

 瑛の冷ややかな視線は、明らかに仁優の足の長さを見ている。恥ずかしさで赤面し、仁優は縮こまった。そこを狙って、雷獣が飛び掛かってくる。

「仁優様、危ないです!」

 悲鳴のような叫び声と共に、オロシが仁優と雷獣の間に割り込んできた。そして、割り込むと同時に雷獣に強烈な蹴りをお見舞いする。

「オロシ!」

「その気配は……あの時の八岐大蛇か。夜末の奴、どうやら今回は調教に成功したらしいな」

「今回は、というのは余計だよ。藤堂」

 ビルの陰から夜末が姿を現した。そして、膝をガクガクさせて震えているオロシに向かって言う。

「オロシ、遠慮は要らない。思う存分暴れて、日頃の鬱憤を晴らしてこい」

 その鬱憤の九割は夜末が原因だろう、というツッコミを呑みこんで、仁優は改めて周囲を見渡した。瑛は銀の剣を振るい、オロシは戦場を泣き顔になりながらも駆け巡り、夜末は攻撃の当たらないギリギリの範囲からオロシに指示を出している。

 それだけではない。先に瑛が作り出した赤い新神達の他、いつの間にか見た事も無い立派な武者が数人現れ、雷獣や黄泉醜女を相手に奮戦している。ビルの陰には、携帯電話でしきりに誰かと話している神谷の姿が見えた。

 神谷が一旦話し終わり、通話を切る動作をする度に武者の姿が増えていく。ひょっとしたらあれは、武者の霊と通話で出撃交渉をしているのかもしれない。ある意味、召喚術のようなものか。

「……俺、マジで役立たずじゃねぇか……」

 先ほど勇んで攻撃したのにリーチが足らず空振りした事を思い出し、仁優は俯いた。そうして地面を見た時に、ふと気付く。

 地面が、赤黒く染まっている。まるで血の池地獄が出現したかのような色だ。色は向こうまで続いていき、ある地点を境に地面から空中へと上っていっている。空間に、赤黒いヒビが入っているように仁優には見えた。

「お、おい……アレ!」

 思わず指を指し、叫ぶ。その声に、その場にいる全員が振り向いた。そして、全員が目を見開く。

「あれは……」

「まさか!」

 瑛が息を呑み、夜末が一歩後ずさる。そして、オロシが半狂乱で叫んだ。

「よっ、よっ、よ……黄泉族の門じゃないですかぁっ!?」

 その叫び声が消えないうちから、赤黒いヒビは次第に太くなっていき。やがてヒヨコが卵の殻を打ち破るように拡がっていく。ヒビが穴となり、穴が大きくなっていく毎に黒く邪悪な気配が漏れ出してくるように仁優は感じた。

 夕方でもないのに、辺りが段々暗くなっていく。そして、空気がどんどん冷えていく。寒気を感じた仁優は、思わず両腕で自らを抱え込んだ。見れば、夜末や神谷も寒気を感じているのか、顔が青ざめている。ヒビに気付く前の姿勢を保っているのは、瑛だけだ。

 穴は遂に大人が出入りできるほどの大きさとなった。穴の奥に、人の影が見える。

「ヒッ……で、で、で……出てきますよ! どうしましょう、朝来様!?」

「落ち着け! 焦ったところで、どうにもならない……」

 オロシを宥める夜末の声に、いつもの強さは無い。

 穴から、白い腕がヌッと姿を現した。次いで、スラリとした体躯の青年が顔を出す。

「あ……」

 その顔に見覚えのある仁優は、思わず呟いた。顔も体躯も気配も、本屋でアルバイトをしている時に見た、あの青年で間違いは無い。ただし、あの時はスラックスにシャツであったが今は衣褌きぬはかま姿に美豆良みずらであるという違いはあるが。

「ほう……猿を仲間に引き込んだのか、瑛?」

 地に降り立ちながら、興味深そうに青年は瑛に問う。その問いに、神谷と夜末が訝しげに瑛を見る。どうやら、この二人は彼の事を知らないらしい。

「え……知り合い、か?」

 仁優の瑛に向かっての問いは、しかし瑛ではなく青年から答が返ってきた。

「知り合いという言葉では済まされないほどの仲だ。……なぁ、瑛?」

「……」

 瑛は、黙ったまま答えない。

「答えぬか……それも良いだろう。ところで、猿」

「おっ……俺!?」

 突如呼ばれ、仁優は思わず背筋を伸ばした。猿と呼ばれる事には、すっかり慣れてしまっている。

「お前は何故、ここにいる? お前は天孫降臨時の水先案内人であり、腕に覚えがあるというわけではないだろう? 生半可な覚悟で戦いに臨めば、死ぬぞ? それとも、我らの仲間入りを希望するのか?」

「それは、絶対に無い」

 きっぱりと、仁優は言った。だが、その後の言葉が続かない。

「……」

「どうした?」

 問われても、答える事ができない。何しろ、瑛と天に言われるがまま、成り行きで葦原師団に入ったのだ。戦う覚悟など、あるわけが無い。

「こちらも答えぬか……。葦原中国の民は古より物をはっきりと言わない悪癖があったが……神ですら生まれ変わると物を言えなくなるらしい。おまけに、折角八岐大蛇の危険を予告してやったと言うのに、まんまと巻き込まれる始末だ。……呆れて物も言えないな」

「……予告? じゃあ、お前はオロシ……八岐大蛇が街を襲うと知ってて、俺にあんな事を……?」

「そうか……一度は封じ、調教中だったオロシの首を、全て解き放ったのはお前だな……?」

 夜末が、絞り出すような声で呟くように問うた。その顔には、怒りと恐怖が混ざり合って貼り付いているように見える。

「そうだ。……安心しろ、若き妖禍使い。お前が新たにかけた封印は完璧だ。ちょっとやそっとじゃ解けはしない。……つまり、その八岐大蛇は、もうお前の制御を振り払って暴走する事は無い」

「そんな事を言っているんじゃない!」

 夜末の叫びに、青年はククク……と笑いながら更に一歩踏み出した。その気配に、夜末が一歩後ずさる。

「お前は……一体何なんだ!?」

 寒気と緊張感に耐え切れず、仁優は青年に問うた。すると青年は、躊躇う事無くまたも一歩前に踏み出した。そして、言う。

「私の名は、闇産能天滅能尊ヤミウミノアメホロボシノミコト……近しい者からは、ウミ、と呼ばれている」

 言うや否や、青年――ウミは一瞬で仁優との間合いを詰めた。

「っ!?」

 仁優は咄嗟に身を引いたが、間に合わない。首を掴まれ、宙吊りにされた。

「あ……がっ……!?」

 首が締まり、息ができない。酸素を求めて口を開閉する仁優に、ウミは淡々と言った。

「苦しいか、猿? 人の身は、脆いぞ。神よりも簡単に殺す事ができる。お前も、瑛も、そこにいる妖禍使いも霊話者も……どれだけ足掻いたところで、神の身たる我らには敵わない。それでも、我らに抗うか? 物陰に隠れて滅びの時を待たず、我らに挑むのか? どうせ死ぬのであれば、早めに死んだ方が苦しみが少なくて済むと思うが……どうか?」

「……ぐ……だ、れが……っ!」

 精一杯の声を絞り出し、仁優はウミの手首を目掛けて足を振り上げた。攻撃は見事に当たり、不意を突かれたウミは仁優の首から手を離す。

「げほっ……ごほごほっ! ……がっ!」

 咳き込む仁優を興味深そうに眺めながら、ウミは楽しげに言う。

「それで良いのか、猿? 命を永らえれば永らえるほど、多くの苦しみを味わう事になるぞ?」

「生憎と……大人しく殺されるのは趣味じゃねぇんでね。それに……誰が好き好んで人を襲って……滅ぼそうとしてる奴らの仲間になんかなるかよ! 覚悟なんかこれっぽっちもしてねぇし……どうしてもお前らと戦わなきゃいけねぇような理由も持ってねぇ。……けど、何かできる事があるかもしれねぇのに隠れるなんて事だけはしたくねぇ!」

 肩で息をしながらも、仁優はきっぱりと言ってのけた。

「そうか……それがお前の意思か」

 何故か頼もしい物を見る目で、ウミは仁優を見据えた。少なくとも、仁優にはそう見えた。

「お前なら……」

 ウミは、更に何かを言いかけた。だが、その言葉は紡がれる事無く瑛の攻撃によって阻まれる。瑛の持つ銀の剣と、ウミが腰に帯びていた金の剣が一瞬のうちにぶつかり合う。

「不意打ちとは感心しないな、瑛」

「不意打ちで守川の首を絞めたお前にだけは言われたくないな」

 喋りながらも、瑛はウミに向かって激しく攻撃を繰り出し続ける。だが、ウミはそれを子どもをあやすかのように容易く受け流している。

「オロシ、お前も行け」

「はっ……はい!」

 夜末の言葉に、オロシも飛び出した。見れば、遠くで神谷が誰かに電話をしている。その直後に、先程まで黄泉醜女達を薙ぎ払っていた武将の霊達が援軍に駆け付けた。

 今やウミは、一人で複数の敵を相手取っている状態だ。しかも、全員ただの人間ではない。神の生まれ変わりや妖禍、歴史に裏打ちされた強さを誇る武将の霊達だ。このまま戦い続ければ、きっとこちらが勝つ。そう、仁優が楽観視をし始めた時だ。

『油断するな! 次が来るぞ!』

 突如、頭の中に神谷の声が響き仁優はハッとした。見れば、神谷はこちらを見ながら携帯を使用している。どうやら、こちらが携帯電話を持っていなくても、一方的に話しかけてくる事ができるようだ。

『ボーッとするな! 後へ跳べ!』

 ワケがわからないまま、言われるがままに後へ跳ぶ。その直後、仁優のいた場所で大きな破砕音が響き、アスファルトが砕け散った。

「な……!?」

 目を見開き、何が起こったのかと凝視する。そこには、アスファルトにめり込む巨大な剣と、その剣を片手で握る青年の姿があった。

 身長は、ウミよりも更に五センチは高そうだ。筋骨隆々としており、精悍な体つきをしている。

「お、お前は……?」

 仁優が問うと、その人物は居住まいを正し、丁重な仕草で頭を下げた。

「お初にお目にかかり申す、猿田彦殿。私の名は建御雷之男神タケミカヅチノオノカミ。ウミ様には、ライ、と呼ばれており申す」

「建御雷之男神って……あの、国譲りの……?」

 天――天照大神が葦原中国を治める権利を譲るよう、大国主命に遣わした剣と雷の神……そのように、仁優は記憶している。少なくとも、猿田彦よりはずっと武名ある神であったはずだ。そもそも、記憶があり神の名をそのまま名乗っているという事は間違い無く天神族であるという事で。仁優が不利な立場である事はまず間違い無い。

「ふむ……やはり猿田彦殿は、生まれ変わってもあまり武を嗜まれぬか。ならば、私がお相手するまでもない。……メノ」

 建御雷之男神――ライが呼ぶと、宙の赤黒いヒビからまたも何者かが姿を現す。今度は、十六、七歳の少女だ。決して美人ではないが、どことなく愛嬌があり可愛らしい顔立ちをしている。風が薄桃色の衣裳を翻らせ、手首や胸を飾り立てる数々の玉飾りはしゃらりと軽やかな音を奏でた。

 着飾ってるっていうのは、本来こういう格好の事だよな、と、仁優はふと思った。そんな事を考えている場合ではないと言うのに、突如としてそんな思考になってしまったのが不思議だ。

 だが、その場違いな思考は再びしゃらりと玉の鳴る音が聞こえてきた事で停止する。見れば、メノと呼ばれたその少女が、一歩、また一歩と自分に近付いてきていた。

「……っ!」

 ゆっくりと近付いてくる少女に、仁優は身構えた。だが、メノは仁優を攻撃する事は無く、緩やかに頭を下げるとよく通る声で言った。

「お久しぶりです、猿田彦様」

「……お久しぶりって……え? お前、前世の俺と、会った事があるのか?」

 思わず、仁優は問うた。思えば、ウミにしろ瑛にしろ天にしろ、仁優が猿田彦だという事はわかっても、直接会った事はないような口ぶりだった。だが、今目の前にいる少女は……どうやら前世の自分と会った事があるらしい。

「……本当に、覚えていらっしゃらないのですね……」

 どことなく哀しそうな顔で、メノは呟いた。憂い顔が、またどことなく可愛い、と思ってしまった事に、仁優はブンブンと首を横に振った。

 そんな仁優の思考を知る由も無く、メノは優雅に手を上げた。手首の玉が、しゃらりと鳴る。その音に合わせるかのように、メノはタン、と軽く足踏みをした。胸の玉飾りが、しゃらりと鳴る。その音に合わせて、上半身を捻る。また玉が鳴る。腕を振り、玉が鳴り、足踏みをして、玉が鳴る。

 しゃらり、しゃらり、しゃららら、しゃらり。

 軽やかで澄んだ音が連続し、こんなに血生臭い場所だと言うのに、心地良い空気が辺りに満ちていく気がする。仁優はいつしか、自分が眠気を覚えている事に気付いた。

「……あれ?」

 いつの間にか体が弛緩している。足の力が抜けて、顔が地面に近付いていく。

「どう、なってんだ……これ……?」

 抜けていく力を何とか腕に集め、仁優は上体を支えた。そして、重い頭を持ち上げて前を見る。玉の鳴る音に合わせて体を動かすメノの姿は、踊っているように見える。

「……そうか……お前は……」

 聞こえるか聞こえないかと言うほどに弱々しくなった仁優の声が、聞こえているのか、いないのか……メノは寂しそうに微笑んだ。メノの動きは、次第に激しくなっていく。

「せめて、安らかにお眠りなさいませ、猿田彦様。眠っていれば、苦しまずに済みます。眠っているうちに全てが終わるんです……」

 それは、深く眠っているうちに殺されるという事か。今ここで心地良い眠りに身を委ねると、目が覚めた時には黄泉族の仲間入りをしているという事か。

「んな事言われたら……寝てなんか、いられるかよ!」

 言うや否や、仁優は地面に向かって自らの額を思い切り打ちつけた。地面と言っても、土ではない。アスファルトだ。鈍い音がする。額が割れ、赤い血が派手に流れた。

「さっ……猿田彦様! 何を!?」

 悲鳴を上げて、踊るのを止めたメノが駆け寄ってくる。その腕を、仁優は右腕で力強く握り捕まえた。

「!」

「……苦しまないようにって配慮自体は、ありがてぇんだけどな……」

 左腕の袖で、額の血を拭う。だが、拭ったそばから血はどんどん溢れ出してくる。目を覚ますためとは言え、少々強く打ちつけ過ぎたか。

「さっきも言ったけど、大人しく殺されるのは趣味じゃねぇし、人を襲って殺すような……しかも、お前みたいな女の子に人殺しをさせるような奴らの仲間になんか、誰がなるかよ!」

「私は黄泉族の者です。黄泉族としての務めを果たすのに、男も女も関係は……」

「……お前は、本当にそれで良いのか? 人を眠らせて殺すために踊って、本当に満足なのか? 天宇受売命アメノウズメノミコトの踊りは、神様や人々を楽しませるためのものじゃないのかよ!?」

「!」

 仁優の言に、メノは目を見開き、そしてヘタリと座り込んだ。

「猿田彦様……まさか、記憶が……?」

「記憶は無ぇよ。けど、前世の俺と会った事があって、踊りが得意な天神っつったら、天宇受売命しかいねぇだろ……」

 天宇受売命は、神楽舞の元祖とも言われている神だ。天孫降臨の際に瓊瓊杵尊ニニギノミコトに付き従って葦原中国に降り、道案内の為に現れた猿田彦命と夫婦になった事は古事記を読んだ事がある者なら誰でも知っている。

 つまり、今仁優の目の前にいる少女は、前世で仁優の妻だった……という事になる。

「記憶が戻ったのでなくとも……嬉しいです。猿田彦様が、私の事に気付いてくださって……」

 はらはらと涙を流しながら、メノは仁優の額の傷に布をあてた。白い布が血を吸って、みるみるうちに赤く染まっていく。

「ですが、私が天宇受売だと気付いて下さったのなら尚の事……私は貴方様が苦しむ姿を見たくありません。……猿田彦様、後生です。黄泉族の仲間に加わるか、それが駄目なら……今すぐどこか遠くへ落ち延び、姿をお隠し下さい!」

「俺はどこぞの太陽神じゃねぇんでね。嫌な事があるからって、引き籠る気にはなれねぇな」

 仁優の言葉に、メノは「そうですか……」と哀しげに呟いた。そして、衣裳の一部を裂き、仁優の傷口にしっかりと巻き付ける。それが終わると静かに立ち上がり、仁優に背を向けた。

「お、おい……?」

「先ほども申し上げました通り……私は、貴方様が苦しむ姿を見たくはございません。ですが、貴方様は私が眠らせようとしても、このように術を解いてしまう……。ならば私は……もう、戦場にいたくはありません。黄泉国でウミ様達を支えつつ、貴方様が黄泉にいらっしゃる日を待とうと思います。……せめてその時までは……ご自愛くださいませ、猿田彦様……」

 言うなり、メノは赤黒いヒビ――黄泉族の門に向かって駆け出した。振り返る事無く、真っ直ぐに。

「おい、待てよ! 待てったら……メノ!」

 ふらつく頭を押さえながら立ち上がり、名を呼ぶ。だが、メノの姿は黄泉族の門へと消えてしまった。立ち上がり、後を追おうと門へと走りかける。

「止せ!」

「……!?」

 走りだそうとした体が、瑛の叫び声によってビクリと止まる。見れば、瑛は未だにウミと交戦中だ。オロシと武将の霊達は場所を変え、ライと刃や拳を交えている。神谷と夜末は、時折流れ弾のように飛んでくる瓦礫や衝撃波を間一髪で避けつつ指示を出したり何やら印を結んだりと忙しい。

 ウミを相手にする味方が減った分、瑛の消耗は激しそうだ。それでも、瑛は銀の剣を振るいつつ、諭すように叫ぶ。

「安易に黄泉へと踏み入るな! 黄泉の空気は、黄泉族以外の何者をも壊す! 姿形も、人間関係も、信念も、ともすれば心まで……取り返しがつかないほどに壊される!」

「随分と実感が籠っているな、瑛」

 余裕と言った表情で瑛と刃を交えながら言う、ウミの言葉はどことなく皮肉気だ。瑛が、黙れ、と一喝した。瑛は更に何かを言おうとしたが、その言葉は突如として響いた巨大な音に遮られた。空気を劈く、雷の音だ。

 ハッとして、仁優はオロシ達の方を見る。この場には、雷を扱える者がいた筈だ。そう、剣と雷の神、建御雷之男神……今現在、オロシ達が相手をしている青年が。

 視線を巡らせた瞬間、仁優の視界に消えゆく武将の霊達の姿が入ってきた。そして、地面に倒れ伏すオロシの姿も。

「オロシ!」

「おい、どうした! 返事をしろ!」

 夜末と神谷の、焦りを含んだ叫び声が耳朶に触れる。次いで、視界の外からドサリという音が聞こえてきた。恐る恐る首を巡らせれば、地面に転がされた瑛の姿が目に映る。瑛はすぐさま上半身を起こしたが、眼前に金の剣を突き付けられ、動きが止まった。

「……っ!」

「一対一で刃を交えれば、私に分がある事はわかっていただろう、瑛?」

 言いながら、ウミは剣を振り上げ、そしてピタリと構えた。剣先は、どうやら瑛の首を狙っている。

「……諦めろ。お前の仲間は、全て倒れた。もう、お前達に勝ち目は無い」

「いや……まだ全ては倒れていない」

「何……?」

 ウミが訝しげな顔をしたのと、仁優が思わず地を蹴ったのは、ほぼ同時だった。

「そうだろう? 守川」

 瑛が言うのと同時に、更に強く地を蹴る。体がグンと勢いを増して宙を飛び、全身でウミへと飛び込んだ。

「……!」

 ウミは咄嗟に身を引き、仁優の身体は空しく地面へとダイブする。剣の狙いから外れた瑛は素早く立ち上がった。

「……っつー……っ!」

「だから、剣にしておけば良かったんだ。明らかにリーチが足りていない」

「まだ言うか……」

 助けられたにも関わらず、立ち上がって早々嫌味を言う瑛に、仁優は鼻をさすりながら涙目で呟いた。不幸中の幸い、鼻血は出ていない。

「それよりも、どうする? 俺はほぼ戦力外として、お前がウミと戦わなきゃいけねぇ状況はほぼ変わってねぇ。おまけに、オロシと、神谷の呼んだ援軍はライにやられちまってる。つまり、これからは……」

「私一人であの二人を相手にしなければいけないという事か。……正直に言って、かなり厳しいな……」

 言いながら、瑛は着物の帯を解いた。長い帯が宙を舞い、はだけた着物が風に煽られる。瑛は近くに転がっていた瓦礫を素早く拾うと、これまた手早く帯の先に結び付けた。そして、帯にふっと息を吹きかけると、錘の付いた帯を勢い良くウミとライ、そして仁優達の間――三角形の中心点となる場所に投げ付ける。地に落ちた帯は、すぐさま茨へと姿を変え、黄泉族とそれ以外を隔てるバリケードを作り上げた。

「なるほど……瑛が戦う時に着飾るのは、このためか」

「そうだ。私は体の一部を新神に、身に付けていた装身具を金属なら武器に、それ以外の物なら植物に変ずる事ができる。髪や血を抜き続けるわけにはいかないし、いざという時に変ずる物が無ければ不都合があるだろう?」

 言いながら、瑛は夜末達の方に視線を遣った。これからどうするか、と問いた気な目だ。

 答は決まっている、と、夜末の目が言った。神谷の呼んだ霊達は倒され、オロシもライに敵わなかった。瑛も、一対一ではウミに敵わない。茨のバリケードとて、一時凌ぎで到底長くはもたない。ならば、このまま戦い続ける事は得策ではない。

『皆さん、逃げて下さい!』

 刹那、悲鳴のような要の叫び声が耳に響いた。葦原師団から支給されている、小型のイヤホンマイクからだ。

 それと同時に、空気を裂く雷の音が鳴り響いた。ライの力だ。雷は仁優達の眼前に落ち、茨のバリケードを難無く焼き尽くす。剣を構えたウミとライが、再び姿を現した。

「……!」

「中々頑強な茨ではあったが……所詮は人の身だ。ライの雷に勝る壁を作れるほどの力は無かったようだな、瑛」

 幾度目かもわからぬ名を呼ばれ、瑛はギリ……と歯噛みした。瑛や天に心を読まれっ放しの仁優だが、今なら瑛の考えている事がわかる気がする。

「格が……違い過ぎる……」

 呟き、そして口に出さなければ良かったと後悔した。言葉にした事で、その現実が重くのしかかってくるような気がする。

『全員、一旦退くんだ! 相手が悪過ぎる!』

 イヤホンから天の怒鳴るような声が聞こえてくる。声が大き過ぎる為か、キーンという雑音が混じり耳が痛い。

「……守川。伊勢崎の言う通りだ。分が悪過ぎる。退くぞ」

「けど、どうやって!?」

 ウミが一瞬で間を詰めれる事は、経験済みだ。恐らく、ライも同様だろう。逃げようと背を見せた瞬間に、袈裟斬りにされかねない。

「……大丈夫だ。私達が食い止めるよ」

 ぽつりと、硬い声で夜末が言った。

「……夜末? でも、オロシは……」

 オロシは、先程のライとの戦いで傷付いている。夜末とオロシの二人だけで、ウミとライを止める事ができるとは思えない。

「問題は無いさ。……オロシの封印を解けばな」

「え……」

 オロシの封印を解く。それは、残る七つの首を解き放ち、あの凶暴な八岐大蛇を呼び覚ますという事か。

「一時的に解除するだけだ。時間が経てば元に戻るよ。……それまで、暴走が過ぎないように私がついている必要はあるがな」

 言いながら、夜末はスーツの内ポケットを探った。そして、小さな銀色のピルケースを取り出すと、中から一錠のカプセルをつまみ出す。そして、それをオロシの口に含ませた。

「オロシ、今すぐにそれを噛み砕き、呑みこむんだ。それが、藤堂達の活路を開く事になる」

 言われるがままに、オロシはカプセルを噛み砕き、呑み込んだ。その時だ。

「……いつまでコソコソと喋っているつもりだ? 死ぬ覚悟ができるまで待っていられるほど、私達の気は長くないぞ」

 いつの間にか、眼前にウミが迫っていた。

「……っ!」

 咄嗟に瑛が銀の剣を振り上げ、ウミに対して構える。その様子に、ウミは苦笑しながら金の剣を構えた。恐らく、この後何かが切っ掛けで、二人は再び剣を交える事になる……筈だった。

 突如仁優の身体が、大きく揺れた。仁優だけではない。瑛も、ウミもライも、身体のバランスを崩している。これは、仁優達の身体がおかしくなったわけではない。地面が、震えている。

 次いで、地が啼いたかと思わせるような唸り声が響く。

「この、音は……」

 二週間前の記憶が頭を過ぎり、振り向く前に仁優達の姿を大きな影が覆った。影だけではない。とてつもなく大きく凶悪な力の存在を、背後に感じる。

 ……間違い無い。そう思いながらも、仁優はゆるゆると振り向いた。振り向いた先には、想像通りの姿が見える。目は鬼灯のように赤く、背には苔や木が生え、そして腹は血でただれていた。蛇のような尾と、八本の頭を持っている。

「八岐大蛇……オロシは、本当に……」

 八岐大蛇だった。そう呟ききる前に、本来の凶悪性を取り戻したオロシは尾と八つの首を存分に振り回し、所狭しと暴れ始める。そんな中、一つの首だけが申し訳無さそうに暴れているのがちらりとだけ見える。

 暴れ出した八岐大蛇には、最早敵も味方も関係無い。ライにもウミにも、仁優にも瑛にも平等に襲い掛かってくる。勿論、使役者である筈の夜末にもだ。夜末は、大蛇の攻撃を紙一重でかわしながら叫ぶ。

八塩折之酒やしおりのさけを飲ませた! 今は理性が飛んでいるが、アルコールが抜ければ再び七つの首は封印される。後の事は気にせず、早く逃げろ!」

 言われる間にも、大蛇の尾や首は容赦無く仁優達に攻撃を仕掛けてくる。それらを必死でかわしながら、仁優は瑛の姿を探した。まさか、この状況下でウミと一戦交えているという事は無いと思うが……。

 その姿は、案外早く見付かった。その場にいる者全てが逃げ惑い、攻撃を避けている中で、その二人だけがその場に静かに佇み、見詰めあっていた。

「瑛、何やってんだ!? 早く逃げねぇと……」

 この大混乱の中聞こえているのかはわからないが、とにかく叫びながら駆け寄ろうとする。……が、その時、ウミがすい、と動いた。

 思わず足を止めた仁優の姿に気付いているのかいないのか、ウミは緊張した面持ちの瑛の耳元に口を近付けると、何かを囁いた。その瞬間、瑛の目が驚愕で見開かれる。

 瑛が、何事かを叫び振り向いた。だが、ウミはその叫びに応える事は無く、そのまま黄泉族の門へと姿を消してしまう。

 そのまま、瑛は呆然とした顔でその場に立ち竦んでいた。その目はぼんやりと、黄泉族の門が先ほどまであった場所へと向いている。

「おい、瑛! ウミ達は撤収したぞ! 何ボーッとしてんだよ、らしくねぇ!」

 仁優の声に、瑛はハッとした顔で振り向いた。そして、もう暫く何事かを考えるように門の跡を見ていたかと思うと、銀の剣にフッと息を吹きかけた。剣は再びイヤーカフへと姿を変える。それを素早く左耳に飾り付けながら、瑛は夜末の元へと足を向けた。

「……夜末を手伝う。お前は先に戻っていろ」

 言うや否や、瑛は駆け出してしまう。追って自分も手伝うべきかと仁優が逡巡していると、イヤホンから要の声が聞こえてきた。

『仁優さん、瑛さんの言葉に従って、一旦戻ってきて下さい。……力仕事を手伝って頂く事になるかもしれませんから』

「? ……わかった」

 腑に落ちないまま、仁優は後ろ髪を引かれる思いで戦いの場を後にした。オロシだった八岐大蛇の、地が啼いたような唸り声が再び耳に届いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る