エディラカの興亡
金狐
A-1-1 荒野の天球
ルード星系 惑星エクレイデ
ルードと名付けられた恒星を巡る惑星の一つ、エクレイデに存在する人工物はたった一つしかない。
薄い大気に散乱される波長の短い光が空全体から降り注ぎ、大気を素通りした光が水分の抜け切った岩と砂だけの地表で乱反射されて地表を映し出す。その荒野に立つ一本の滑らかな曲線を描く塔の色を答えるには、特定の波長域に感度を持つ光学知覚越しに知覚された光を、恣意的に分類して名付ける必要がある。
<スピラ>の認知工学体系において、ある知覚器官が受け取る空間的情報の形式のことをスパティカルモデルと呼ぶ。これは三つの巨視的な空間次元を持つこの宇宙で伝わる光波・重力波・物質波・媒質波から、空間のどこに何が分布しているのかを表現するモデルだ。
さらにモデルが構成する知覚野の情報を切り分けて分類して、一つ一つに意味を与える形式をクオリアモデルと呼ぶ。地球人類にもわかる例えを用いるなら、スパティカルモデルは写真の像のことで、クオリアモデルはその写真の中にある物事を抜き出して名詞をつける機能に相当する。
今セプタがまとっている先祖型の有機身体が持つそれらのモデルによれば、人類の言葉に翻訳すれば『塔』は『白』に見えていると回答できる。
「セプタ」
塔から何百メートルか離れた地表にいたセプタの有機身体に埋め込まれた通信デバイスが呼びかけを受信する。その呼びかけの意味を時間的情報形式であるテンポラルモデルとして受け取り、セプタの認識システムが言語として認識する。
身体に付随する反射応答に従って、呼び掛けが飛んできた方向に振り返ると、セプタの二メートル(以下現代地球の単位に換算)ほどある身体よりも少し高い位置に、数センチの銀色のプローブが浮かんでいた。プローブは球体だけが浮かんでいるように見えるが、本体から生えた強靭なグラフェンの翅を高速で羽ばたかせることで、ごく薄いエクレイデの大気の中に座標を固定している。本来不透明度の高いグラフェンでできた翅も、今の知覚の時間分解能では羽ばたき一つ一つは認識できず、薄い
「メシエか。今はステーションか?」
プローブが放つ情報からすぐに誰であるかを識別して、発声器官を震わせて返事をした。大気の
「このドローンはエクレイデの衛星軌道ステーションから遠隔操作しているよ。流石に僕もアルキデから五千光秒の距離を挟んで会話を成立させる自信はない。君は直接その身体にロードしているようだ。エディラカへの準備かい?」
言われて、セプタは今の身体を見回す。白く硬い鱗に覆われた身体は腕と足をそれぞれ二本ずつ備え、感覚器官を集約した頭と、長い尾を持っている。背中に残るのは進化史の途上で退化した翼の跡だ。<スピラ>が肉体を持っていた頃の先祖型の形態。尤も、先祖が住んでいた惑星はこのエクレイデよりも暖かく高重力で大気圧も五百倍あった。完全な先祖であれば短時間で窒息死してしまうだろう環境に、この先祖型の身体は対応している。そのようにセプタが作ったからだ。
「この惑星の地表に合わせた身体を作成してみただけだ。それに、我々が先祖型の姿でエディラカ人と接触する計画は早々に却下されてしまったからな」
ドローンは肯定の情報を送ってくる。
「エディラカでの行動方針に関する評決の影響はこちらでも大きかったよ。アルキデには高度な神経組織を持つ動物がいるんだけど、彼らがやがて知性を持つに至った時、僕らの存在を伝えるためのマーカーを残しておこうというアイディアが提案されててね。その先祖型の姿を残しておくという案は却下されてしまったよ」
「マーカーか。アルキデの海面にでも浮かべておくのか?」
「まさか。大気圏で百万年持つようにマーカーに自己修復機能を与える案は一番最初に没になった。衛星軌道にも安定軌道はなかったから、惑星軌道に浮かべておくのさ」
メシエはプローブ越しに話しながら、金属小惑星の主要元素を精製して作る幅五キロの鉄-ニッケル-プラチナ製の直方体マーカーについての詳細情報を流してきた。
<スピラ>が滞在しているこの星系には、二つの生命を持つ惑星が存在した。数個手前の星系からマップ済みだった十五個の惑星のうち、恒星ルードに近い位置にある岩石惑星アルキデは惑星表面は厚さ五〇キロメートルの液体の水に覆われ、その表層は莫大な生命圏が広がっていた。
メシエらアルキデの調査チームによる探査では、アルキデの海には深さ五千メートルに炭素系単細胞生命のコロニーからなる有機組織でできた大陸が存在し、海洋を浮遊移動している。その擬似的な海底から伸びた巨大な海藻は海表まで続いて海中森を形成している。巨大な海藻は海上と擬似海底の間でエネルギーを有機物の形でやりとりし、その間には多様な海洋生物の生態系が広がっていた。その中には複雑な神経組織を持つ生物も発見され、チームはその生物が百万年以内に文明に至る可能性に言及している。ただし、流石に百万年の時を積んで進化したアルキデの生命とコンタクトするという案は承認されなかった。
一方エクレイデは、大気が薄く気温も二二〇ケルビンしかない。温度圧力の条件が液体の水の存在を許さない砂と岩の惑星だ。セプタの有機身体はこの惑星上で暮らすことができるが、それは知性が作り出す分子工学を経由して作られたものだからであり、この星の元来の生命にとっては、いや一般的な炭素系生命にとっては不適切な環境といえる。エクレイデの生命が住んでいる領域はこの地表の下一キロメートル、惑星の内部熱によって十分に加熱された部分に限られており、生息しているのも単細胞生命だけだ。この惑星を標準的な惑星進化論で分析すると、五〇億年前にはより多くの大気と水を湛え、その温室効果はこの惑星をより高温にしていたと考えられている。大気中の同位体比は銀河系のこのあたりの標準に比べて重い同位体に偏っており、質量の軽い同位体――すなわち海が揮発した痕跡として残っている。かつてはこの地殻深くに残る生命圏も地表まで広がっていたのかもしれないが、それが<スピラ>にとって交流をもたらすレベルまで進化していたのかは調べようがなかった。そしてこの星に残った単細胞生命も、長期的には死滅する過程にあった。もはやこの環境では複雑な生物への進化は不可能だからだ。アルキデにやってくるのが百万年早すぎたとするなら、エクレイデにやってくるのは数十億年遅かったと言える。
<スピラ>にとってこのルード星系は幾つもの生命圏を宿す星系であったが、今この星系の生命探査に参加している住人は少数派だった。<スピラ>全体の関心はここから五十五光年離れたエディラカ星系に向けられており、事実ルード星系はエディラカ星系への前哨拠点となっていた。
「君もアルキデのチームに加わればよかったのに」
メシエが自身で直接したアルキデでの経験と、この岩と砂しかない惑星を比べ、残念そうに言葉を作った。
「後でチームの知覚ライブラリを参照させてもらう。俺までアルキデに回ってしまえば、エクレイデを調査する住人が足りなくなってしまう。それに」
「生命圏に優劣はない?」
メシエが言葉を先取りすると、セプタは「そうだな」と言って、塔に視覚を向けた。
塔の地表からの高さは五〇メートルほどに過ぎないが、地下方向には何キロも下まで細い管が伸び続け、枝分かれして地殻の広い範囲に届いている。管の中には無数の情報とデバイスの流れがあり、この星の生態系に影響を与えないように注意深く設計されたナノメートルからマイクロメートル大の機械が活動しており、エクレイデの生命圏を調査している。
たった一つの生化学系だけを知る一つの惑星上の文明と異なり、<スピラ>は生命システムが極めて多様で複雑な様式を持っていることを知っている。炭素系生命に限っても遺伝情報のコード形式には多くの可能性があり、各々の形式の中でもローカルな進化があり、遺伝情報の受け渡し方にはよりたくさんの可能性がある。それらを仮にシミュレーションで網羅し尽くそうとすれば、それは全てのハビタブルな天体で起きる進化を分子スケールでシミュレーションすることと同じで、惑星を加工できるレベルの文明の基準から見ても非現実的に巨大な計算能力を必要とする。既に高度な技術段階に到達した<スピラ>の研究者たちがこの種の調査を続けているのは、いわば惑星上の物理空間という天然のシミュレーターを使う以外、生命のバリエーションを網羅する方法を知らないからだった。
複雑な多細胞生物を持つ惑星の生態系は素晴らしいものかもしれないが、その根本を成す生化学系を調べる目的であれば単細胞生物しか持たない惑星でも同等以上の価値を持つだろう。そしてどんな高等な生物も生化学系を欠けば機能を持たない粘土細工に過ぎない。生物をデザインするエンジニアにとって優劣はないのだ。
「では僕はこれで失礼するよ」
しばらくアルキデの生物探査について話した後、プローブはエクレイデの地上ステーションに向かって飛び去っていった。メシエの話し方は終始セプタに参加を求めようとするものだったが、メシエがそういう性格であることを知るセプタには不快ではなかった。
セプタはプローブを見届け終えると、冷たい荒野に仰向けになって宇宙を眺めた。
今の視覚では、宇宙は暗い青色の散乱光の向こう側にある星空として見える。宇宙背景放射、恒星、球状星団、銀河系、そして銀河中心から吹き出す活動銀河核ジェットの果てしなく長い尾。数十兆の星々が放つ光のうち、この身体で知覚できる波長域は非常に狭い領域に限られるが、セプタがこの不自由な身体に入ったのはその
視界に広がる星空の光の中には、星系内に存在する無数の人工光源も含まれている。感覚では区別できなくても各々の天体の位置から計算すればそれらは容易に判別できた。
そう、エディラカ星系には文明がある。アルキデのように早すぎたり、エクレイデのように遅すぎたりせず、きっかり知的生命体の発生に間に合ったのだ。
セプタがそのファースト・コンタクトから想起する感情は半分の探究心と半分の恐怖だ。セプタは実務的にはエディラカ人との交流の際、<スピラ>側が使う有機身体のエンジニアリングを担当することになっている。しかしそれはセプタ自身が他文明との交流に対して強い欲求を持っているわけではなく、単なる自身の生物工学者としての立ち位置からそうするだけだ。率直に言えば、セプタは騒々しい生命圏や文明よりも、静かな天体に居心地の良さを感じている。それは<スピラ>が今の行動目標を得る前、まだ純粋な探究活動に従事していた頃から参加しているからかもしれない。
メシエは違う、彼は第一星系が滅ぶ直前に<スピラ>に加わった者の一人だ。そしてそれを決心させたのは他ならぬセプタだった。メシエは恩返しのつもりなのかもしれない、第一星系の惑星大深度地下に閉じ込められるしかなかった内向的な主流派から彼を連れ出し、数百光年を旅をさせた相手に、同じことを説くために。
セプタはこの荒野を体験するために作った身体で地上ステーションまで戻り台に横たわると、有機身体の神経系に符号化されている自分自身の情報を、軌道上のステーションにある自身のシェルにアップロードした。
***
メシエは第一星系の惑星における一年おきに<客室>を訪れることを義務だと感じていた。尤もその行為自体は肉体の足を使って移動するわけでも乗り物を使うわけでもなく、<スピラ>のハードウェアマトリクスのアドレスを参照して情報を要求するだけだ。
<客室>を構成するソフトウェアは参照を受けると、メシエを格納しているシェルに一連の知覚情報を返し、メシエの知覚野には滑らかな地平線の彼方まで立ち並ぶ箱の列という
先祖が住んでいた第一星系が攻撃を受けた時、星系内にいた者達は幾つかの運命を選ぶことになった。肉体を捨てきれなかった勢力は即座に滅んだ。肉体を放棄して情報としての生を選んだ残りには、星系内の岩石惑星の大深度地下に隠れるか、星系外で活動する同族の<スピラ>に合流するかの選択肢が残った。生き残りのうち生まれた星系を捨てられない者は惑星の地下に逃げ込んだ。惑星の地殻の下に建設されたハードウェアマトリクスは非常に小さく、発見することは困難であり、侵略者が惑星を粉砕したり地殻を蒸発させない限りは安全だった。実際それを選んだ者が最も多く主流派と呼ばれた。メシエは選択を突き付けられた当事者として、主流派の選択が間違いだとは思わなかった。肉体を捨て去っても、生まれた世界全てに背を向けることは容易ではないのだ。それ以外は、わずかに健在だった恒星間通信機を使い星系外の<スピラ>と合流した。
<客室>は合流した者達が更に選ぶこととなった選択肢の一つだ。<スピラ>は第一星系からいち早く旅立った
<客室>という名前の通り、乗客として<スピラ>に身を委ねて問題解決に参加しない選択は、覚醒を選んだ避難民からはよく思われていなかった。シェルを凍結させて望む世界まで体験をスキップさせることは、覚醒して望む世界を得るために活動する努力を怠ることだからだと考えられたからだ。メシエ自身はそのような努力論に賛同する気はない。乗客になる選択に対して否定的道徳観念を与えることは、言い換えればそれを生存本能に替わる生きる根拠を無理やり作り出すようなものだと思ったからだ。
メシエは違うことを考えていた。肉体を捨てて肉体生命のような生存本能から解放されたというのに、それと同等な道徳を作って従属するのでは意味がない。だから<客室>を選ぶことを否定するつもりはないが、別の理由で凍結した彼らを惜しんでいた。それは<客室>に眠る避難民の理想の世界なるものは環境であって彼ら自身の生き方ではないということだ。<スピラ>に加わらないということは<スピラ>の生き方を選択しないということであり、ではそれ以外のいかなる生き方を選ぶべきなのだろうか?彼らがそれを考えていたならば、<客室>で凍結することを選択せず、自身に生き方を課していたことだろう。漫然と永遠に生きることは生き方ではない、メシエはそれを見い出すつもりだった。それに<客室>で眠っているうちに宇宙の歴史が過ぎ去ってしまい、慌てて目覚めたところで既に生きる時間すらなくなっていることだってありうるのだ。
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