アリが死んでいる

 風呂場に入り込んでいたアリが死のうとしているところを眺めていた。さっきまで元気に何も見つからない風呂場のタイルの上を目的があるのかないのかわからない足取りで行ったり来たりしていた五、六匹のアリが、腹を宙空に向けて足を忙しなく動かしている。

 初めは何だかわからなかった。生き生きしていたところをついさっき見たばかりのアリ達が、どうして突然死の行進にひた走っているのだろう。ここはもう風呂じゃない。風呂場は墓場になった。ここはアリが死ぬ場所で、人間が裸で身を清められる場所なわけがない。

 アリは母親に殺された。出掛ける前に殺虫剤を吹きかけられたのだ。多分、ゴキブリを殺す時に使う殺虫剤だ。あれをかけるとゴキブリもアリと同じように腹を見せて足をバラバラ動かす。

 虫は体が平らで寝転がるとその場で足を動かすだけだから見た目もまだましな方だ。これが人間ならそこら中を転げ回って、見ている人が吐き気を催すだろう。

 アリが息絶えるまで看取った。アリにとって、死を看取られるのはどんな気なのか知らないが、恥ずかしいような気がした。だから遠慮がちに見ていたつもりだったけど、アリの体より何倍も大きい二つの目玉で見つめられていたら、こちらの配慮など何の意味もなかったと思う。アリの目が人間と同じように心を映すことができるなら、一生忘れられない目で見つめ返されてもおかしくないような状況だった。それでも、物陰から見るなんてものじゃなくて、風呂場の前の洗面所で座り込んで見ていた。

 死なない限り生きてる。としか言いようのない生。死にたいけど死ねないから仕方なく生きているようでもあるし、生きたいけど思うように楽しくは生きてはいけないから負け惜しみ程度に生きているだけでもある。そんな生を自分が送って、死ぬことに無頓着なアリが生きられない道理があるのか。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る