戊辰異聞「江戸門段鉄」

鷹見一幸

第1話

戊辰異聞「江戸門段鉄」 

              鷹見一幸









 上州宇都宮のとある寺の一角に、深く苔むした小さな募碑がある。

 ただ二文字「江戸」とだけ刻まれたその碑の由来を知る者はない。









■第一夜 若旦那と歩兵隊


 えー本日は一杯のお運びを戴きましてありがとうございます。

 さて今夜のお題、『戊辰異聞 江戸門段鉄』でございますが、戊辰と来れば幕末。幕末と来ればペリー来航。ペリーと来れば黒船。黒船と来れば蒸気船。蒸気船と来れば勿論、


 泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で 夜も寝られず


 ――と、来るわけですな。

 今更ご説明するまでもなく、船の蒸気船とお茶の上喜撰、そして船の数のハイと茶碗の杯をかけてまれた狂歌でございます。

 この手の狂歌は当時大層流行ったと見えて、当時江戸に住まわれていた吉田松陰先生も、


 アメリカガ のませきたる上喜撰 たった四杯で夜もネラレズ

 とか、


 安部川餅評判程ノ味モ無 上喜撰ニハ落タ御茶菓子


 などという狂句が江戸で流布しているさまを、故郷の萩に書き送っていらっしゃいます。

 この安部川餅というのは切れ者と評判が高く、史上最年少の二五歳で老中に就任した阿部正弘という方のことですが、ペリーに対して弱腰であったということで当時は評判が良くなかったんですな。他の歌でも、


 日本を茶にして来たる上喜撰 阿部川餅へみそをつけたり


 などと揶揄やゆされております。

 たしかに和蘭陀オランダから事前にペリー来航を予告されながら、半信半疑でいた為に後手後手に回りはしましたが、これは他の幕閣も同じこと。実は来航後は意識を切り替えて、開国日本の礎を築くために尽力した方です。鎖国以来の大船建造の禁を解き、軍艦を輸入し、品川や長崎に台場を作り、ジョン・万次郎や勝海舟らの人材を登用し――と、色々と頑張ったんですが、何時の世も同時代の人の口というのは容赦がありません。


 上喜撰は当時のはやり言葉だったんですな。今で言えば流行語大賞。

 にもかかわらず、今誰もが知っているのは、最初に挙げた一首だけ。


泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で 夜も寝られず


この歌だけが残りました。

 それは何故かとつらつら考えてみますに、やはり、冒頭の「泰平の眠りを覚ます」というところが肝ですな。

 黒船がやって来たぁ、えらいこっちゃあ――という世相を詠んでいるのは皆同じなんでございますが、この一首だけは「今がどうか」だけではなく、「これまでどうだったのか、そしてこれからどうなるのか」までが詠み込まれているわけでございます。小難しく言えば「歴史的視点」という奴でございますな。

 と申しますのも、ペリーが来たのは嘉永六年。西暦で申しますと一八五三年です。徳川幕府が開かれたのが慶長八年、西暦の一六〇三年ですから、丁度二百五十年目にあたります。けれど、それだけ長く続いて来た幕府がこのわずか十五年後に倒れ、武士の世が消えてしまう――つまり、今は幕府の時代の末期「幕末」である――などと考えていた人はその当時一人もおりません。

 それはそうでしょう。今の我々は、黒船来航の先に幕府の消滅=明治維新があったことを知っていますから、何の疑問もなく「幕末」という言葉を使いますが、当時の人にそんな事が分かる筈がない。事が至って初めて、ああ、そうだったのか、と初めて分かったわけでございます。世の中とはどうやらそういうもの、人というのはそういう生き物のようでございます。

 そして起こってしまった後なら、幾らでも賢いことが言えますな。これは何も幕末だけの話ではございませんよ。かつての太平洋戦争しかり、近年のバブル崩壊しかり。ああいう結果になるのは分かりきっていた――と、今なら誰でも言えます。下司の知恵は後から、という奴ですな。

 けれど、時代のまん真中にいる人間には、先は見えません。皆が皆、一寸先の闇を手探りで進むしかない――これはそんな時代、そんな男たちのはなしでございます。


 さて、時は慶応三年七月。西暦でいうと一八六七年の八月。暑さの盛りでございます。

 叩けばカンと音のしそうな真っ青な空が見下ろす江戸の町は油日照り。風はそよとも吹かず、じりじりという音が聞こえて来そうな大路小路にも人影はまばらでございます。

 そんな昼下がり、一人の若い者が日本橋は芳町、今の人形町あたりから北へ指して駆け始めてございます。淡茶色の単衣ひとえの裾を尻からげ、すねはむき出し。

 この暑い中血相を変えて走っておりますから、小伝馬町を過ぎて玉池稲荷の先のどん突きを左に折れる頃にはもう、顔から背中から汗でびっしょり。着物のまま行水でもしたような有様でございますな。

 木陰に寝ていた野良犬が驚いて吼えつくのもかまわず岩本町を過ぎ、和泉橋の踏み板を鳴らして神田川を渡った先が神田佐久間町。今のJR秋葉原駅があるあたりでございますが、勿論この頃はまだ影も形もございません。

 その長屋のとっつきの一軒にたどりついた若い者。疲れた足に力を入れ、丸にかの字の油障子を叩こうとした途端、膝が笑ってすっ転んだ。

 浴びせ倒しで油障子を破った若い者に降るのは、行司の勝ち名乗りならぬどすの効いた啖呵。

「野郎! 『か』組と知っての殴り込みたぁいい度胸だ。三途の川の渡し賃は負けてやる。束になってかかって来やがれ!   ……お、なんでぇ、八じゃねぇか。どうしたい?」

 構えていた鳶口とびぐちを肩に戻して見下ろすのは、年の頃なら四十五六。六尺豊かな体躯に赤筋入りの印半纏しるしばんてんを羽織った滅法いい男。町火消し八番組『か』組を仕切るかしら、和泉橋の平八でございます。

 またの名を赤仁王の平八。その赤銅色の肌と盛り上がった肩の肉を見て由来を疑う者はまずいませんな。

 八と呼ばれた若い者。平八を見上げて蚊の鳴くような声で、

「か、かしら、てぇへん、てぇへんだ」

「たしかにてぇへんだが、この有様じゃ話もできねぇ。まずは障子を直しな。おう、お静。けたたましいと思ったら八の野郎だ。水を一杯いっぺえ出してやれ」

 と、振り向いた時にはもう、薄水色に大輪の朝顔をあしらった浴衣姿のおかみさんが、柄杓ひしゃくから垂れる水を左手で受けつつ控えております。

 おたおたしながら油障子を敷居に戻した八が、差し出された柄杓を一旦は持ち上げて礼をして見せたのは、日頃の躾という奴ですな。

「か、かっちけねぇ。すんませんがもう一杯お願げぇしやす」

 音を立てて飲み干した八にやさしく笑いかけたおかみさんが、裏手に引っ込むのを待って、かしらは八に向き直ります。

「とりあえず、そのべたべたしたもんを脱いじまいな。話の間にお静が洗うだろう」

「そ、そんな。おかみさんにご迷惑をかけるわけには参りやせん」

「何を抜かす。汗の匂いをぷんぷんさせたままの方が余程迷惑だ。いいから脱ぐがいい」

 言う間もなく八の単衣をくるりとひん剥いたかしらは、丁度漱すすたらいを置いたおかみさんに、ぽんと放り投げます。

 嫌な顔一つせず受け取ったおかみさんが裏に引っ込み、八は身をすくめながら湿した手拭で体をぬぐいます。汗と埃で真っ黒になった足まで洗い終わるのを見計らって、かしらが声をかけますな。

「洗濯が済むまで下帯一つというわけにも行くめぇ、それを着ているがいい」

 部屋に上がれば、待っていたのは綺麗に畳まれた一枚の藍染め浴衣。

「俺のだからちと大きいかもしれねぇが、我慢しとけ」

「とんでもございやせん。あっしのようなものに勿体ないこって」

 長すぎる袖と裾をなんとか収めて、ほっと一息ついた八の前に、おかみさんがすっと茶碗を置きます。かすかに湯気が立っているところを見ると水ではなくて白湯ですな。

 更に恐縮した八は湯飲みを押し戴き、ゆっくりと傾けます。乾いた体に水気がゆっくりと染み透り、思わずほっとため息をついた時、かしらがおもむろに口を開いて……。

「で、一大事ってぇのは何だ?」

 途端に八が飛び跳ねた。

「そ、それでやす。てぇへん、てぇへんなんでやす」

「てぇへんなのは分かってるわな。何がどうてぇへんなのか、それを言って聞かせろと言ってるんだ」

「へ、へい。でも一体何をどこから話せばいいやら」

「いいか、人に話をする時は一度に話そうとしちゃあいけねぇ。最初から始めて順を追って話し、終わりになったら止めればいい。大抵の話ってぇのはそれで通じるもんだ」

「へ、へぇ。さすがにかしらは言うことが違いやすね。最初……最初でやすね。そういうことなら、ええと昔々、イザナギノミコトとイザナミノミコトが……」

「馬鹿野郎。天地開闢てんちかいびゃくから始めたら本題に入る前に秋になっちまうだろうが。ちょっとは端折はしょれ」

「そ、そうでやすか、かしらが最初からって言うから……なら、ご神君家康公が関ヶ原の合戦の折に……」

「まだまだ」

「で、では、時は元禄十五年十二月十四日…」

「忠臣蔵か? 百何十年も昔の話してる場合じゃねぇだろう」

「な、なら、白河の水の清きに住みかねて元の濁りの田沼恋しき、てぇ……」

「田沼様ってぇと寛政の改革か? ちったあ近くなったが七十年前だ。御隠居だってまだ生まれちゃいねぇ」

「へ、へえ。なら、泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で 夜も寝られず、てぇあたりで如何いかがでがしょう?」

「髪結いで顔あたってるんじゃねぇぞ。如何でがしょうって法があるかい」

「で、でもこのあたりから始めねぇと。話ができねぇんで」

「分かった分かった。じゃそこから話してみるがいいや」

 というわけで、十四年前の黒船来航から始まる八の話に耳を傾けた頭ですが、聞く内に顔色が変わってきた。

「何? 若旦那が人宿ひとやどに?」

 人宿というのは奉公人を世話する商売で、口入屋とも言いますな。扱う奉公人の種類に合わせて専門別に分かれ、当時の江戸には三百軒以上あったといいます。それだけ江戸には仕事が多く、出稼ぎにくる人間が多かったということですな。

「そうなんでやす。へい」

「分かった。良く知らせてくれた。御隠居には直ぐ伝えるとしても……俺だけの胸の内に収めるにゃちと過ぎた話だ…………おい、鉄は今どこだ?」

「へ、へい。鉄の兄貴なら、今日はまだ下谷の一乗院にいる筈で」

「夜明かしか。懲りねぇ野郎だ」

「なにせこの暑さでやす。長屋より風の通る寺の方がちったぁましだとかで」

「分かった。手間ぁかけて悪ぃが、も一度頼む。御隠居の所まで連れて来い。何の用かは話すんじゃねぇぞ。てめぇが話した日にゃあ、鉄の野郎が来る前に日が暮れる」

「へい。合点でやす」

 と、飛び出した八を見送って、ゆっくりと腰を上げた頭が上がりかまちから足を下ろし、草履に足を通したところで、

「行ってくるぜ」

 と背中に声をかけると、チョンと打ち金が鳴って小さな火花が飛びます。

 このあたりが呼吸という奴ですな。実に以って羨ましい限りですが、その辺は暫し置きまして、その妬ましい……じゃない、羨ましいかしらが向かったのは。同じ町内でも表通りに面した一角、二階家の集まるあたりでございます。

「ごめんなせぇ、御隠居いますかえ?」

 はーい、と奥で声がして、トントントンという足音と共に現れたのは、この家で御隠居こと和泉屋与平の身の回りの世話をしているお春という娘です。

 年の頃は十六七、着ている結城紬ゆうきつむぎは古手と見えて少し年季が入っていますが、中身は番茶どころか煎茶の出花。上喜撰とまでは参りませんが中々のものでございます。

「あ、かしら。少しお待ちを」

 トントントンと足音が去って戻ります。

「お待たせしました。こちらへどうぞ」

 と、通された表座敷には、御隠居が長火鉢を傍らに待っております。

 この暑いのに火鉢? と思われるかもしれませんが、マッチのない時代ですから火種を絶やすことはできません。夏でも冬でも火鉢には火が入っているのが常道です。

 その火鉢の鉄瓶の湯で茶を入れたお春が一礼して立つのに軽く頭を下げて、かしらは口を開きます。

「時に、若旦那はおいでですかい?」

 問われた御隠居、少し眉をひそめます。

「若旦那なら昼過ぎには戻ると言って出掛けたようですが、また何か悪い虫が……?」

 この和泉屋与平さん。今は鳶の組、つまりは町火消しの後見を務めていますが、元は江戸でも大きな質屋の主人あるじだった人でございます。

 因業と二つ名を付けて呼ばれることもある稼業ですが、実はきちんと質物を取って金を貸す質屋はこの上なく固い商売で、世間での評価も高かったんですな。少なくとも証文一枚で骨までしゃぶろうという金貸し連中とは格が違います。

 しかもこの与平さん。質入れする人の窮状を良く知っているからか面倒見が良く、隠居した今でも色々と相談事を持ち込まれることの多いお方です。今話に出た若旦那もその一人というか一件ですな。

 名のある帯屋の跡取り息子で名は信之助。御多分に漏れず放蕩三昧を繰り返した挙句、心中の勘当のという騒ぎに成りかけた所に割って入り、この家の二階に居候として引き取ったという次第。

 心配げな御隠居の表情を見て取って、かしらは軽く手を振ります。

「いえいえ、そっちの方ではござんせん、ござんせんが……八の野郎が日本橋で妙な話を聞き込んでめぇりやしてね。あんまり妙なんで逆に心配になって来てみたんですが……」

「妙な話?」

「へい、何でも人宿にお上から……」

 と、何やら相談が始まった様子ですが、仔細は役者が揃ってからということに致しましょう。そういえばそろそろ、例のあわてん坊が下谷に着く頃でございます。


「兄い、鉄兄い、てぇへんだ」

 下谷は一乗院の裏門から、八がけたたましい声を上げて駆け込みます。夜通し賽を転がしていたと見えて、本堂の縁先にはむさくるしい男たちが魚河岸のまぐろのごとくごろごろごろ。

 と、その中の一人が身を起こして、

「おう、八か。もそっと静かにしねぇか、皆さんお休みだ」

 年の頃は三十がらみ。かしらほどではありませんが、それでも体格は並の男より頭抜けております。徹夜開けと見えて目が少し赤いようですが、その左の眉が半分焦げて無くなっているのはかつてまとい持ちだった頃の勲章と見えます。

 まといというのはここで火を止める、という目印ですから引いたら組の名折れ。いくら火が迫っても一寸たりとも引きません。ただ、組一番の男前が務めるのもまとい持ち。顔に傷があっては勤まらないというわけで、今は後進に道を譲り、組の若い者をまとめる小頭を務めております。ちなみに若い者とは若者一般のことではなく、組の序列の一つでございます。

 この男が通称江戸門の段鉄。本編の主人公でございます。何故二つ名が江戸門なのかはいずれ明らかするといたしまして……

 睨まれて思わず口を抑えた八は、足音を忍ばせて近付くと、段鉄の耳に口を寄せてささやいた。

「鉄兄い、てぇへんだ」

「馬鹿野郎。今更声を小さくしたところでしょうがあるめぇ。おかげで寝そびれちまったじゃねぇか。一体何がどうした」

「それなんでやす。かしらが言うには、兄ぃに御隠居の所に来るように、と」

「御隠居の? 一体何の話だ?」

「それは行った先で聞いておくんなさい」

「ここでは話せねぇことか?」

「へぇ、あっしは言っちゃあならねぇと、かしらのお達しで」

「言っちゃあならねぇ? 穏やかじゃねぇな。となれば、ちょと算段しなくちゃなるめぇ」

「算段とは何でやす?」

「馬鹿野郎。かしらだけならともかく、御隠居まで一緒になっての呼び出しだ。生半可なことじゃあるめぇ。痛くない腹を探られねぇよう算段するのよ」

「なるほど。痛くない腹ならともかく、痛い腹を探られたら、そりゃあ痛いでやしょう」

「おい、妙なことを言うんじゃねぇ。俺に痛い腹なんてありゃしねぇぞ」

「そんなことを言って、あのことはどうなんでやす?」

「あ、あのこと? あのことはおめぇ、もう済んだことだ。今更蒸し返されちゃたまらねぇ……って、お前何のことを言ってるんだ?」

「いえ、とりあえず聞いてみただけでやす。どういうわけか、あのことって言えばお小遣いを下さる方が多いんで、ちょと運試しを」

「馬鹿野郎。変なところで鎌かけるんじゃねぇや。冷や汗かいちまったじゃねぇか」

「やっぱり何かあるんでやすね」

「何もねぇと言ってるだろうが。手前はもう口をきくんじゃねぇ。御隠居の家に行きゃあいいんだな?

 ・

 おい、何で黙ってる?」

「口をきくなと言ったのは兄ぃでやすぜ」

「口の減らない野郎だな。分かった分かった、神輿を上げるとするか」

ぺこりと一礼して先に立った八に続きながら段鉄考えた。

 ――仔細は見えねぇが、なればこそ下手な申し開きは命取り。ここはもう、のっけから頭を下げるより他はあるめぇ。

 と、覚悟を決めた段鉄は御隠居の家へ……。


「ぴらめんねぇ、きょいるけぇ」

 どこの言葉かと思われるでしょうが、これはれっきとした日本語。それも江戸弁でございます。まっぴらごめんなさい、御隠居はいらっしゃいますか――という挨拶を、巻き舌の早口でするとこうなるんですな。

 座敷で何やら話し込んでいた御隠居とかしらがその声に顔を上げた所へ。トントントンと出迎える足音が行って戻り、障子の向こうからお春の声が致します。

「段鉄さんと八さんがお見えになりました」

「おや、八さんも一緒かね。こちらに来るよう言っておくれ」

 待つこと暫し。廊下の障子の向こうに気配があって、

「段鉄、めぇりやした」

「おお、待ちかねていたところです。ささ、中へ」

「ではごめんなすって」

 声と共に障子がからりと開いたところで、座敷の二人は驚いた。段鉄さん、廊下にぴたり、と平伏しております。

「この度はこの段鉄。面目次第もございやせん。かくなる上は如何なるお申し付けでも身体を張ってお受け致します」

 これを聞いた御隠居、ぱっと喜色を浮かべて曰く。

「おお、さすがは鉄さん。とうに承知の上でしたか。ならば思案するまでもない。あなたが出てくれるなら百人力だ。かしら、後は任せました。よしなに願います」

 と言うなり立ち上がった御隠居は、驚く頭を他所に奥に消えてしまいます。

「あ、あの……これは一体どういうことで?」

 あっけに取られて呆然とする段鉄。それをじっと見ていた頭。一つ頭を振ると。

「どうもこうもあるかい。てめぇは今、とんでもねぇ厄介事を引き受けちまったってことだ。これからとくと話して聞かせるから、その口を閉じてこっちへ入ぇれ」

「へぃ。かしこまりやした。八、おめぇも入ぇれ」

 八を連れておずおずと部屋に入った段鉄、かしらの前でかしこまっております。

 かしらはくわえていた煙管きせる雁首がんくびを下に向け、長火鉢の縁でコンと叩いた後、ぷっと一吹きして袖の中へ。それを見た段鉄の背筋がすうっと寒くなったのには理由わけがあります。

 実はこのかしら、無類の煙草好きなのに、大事なこと話す時は煙管を仕舞う癖があるんですな。段鉄もこれまでにそれを見たのは二度しかございません。三度目がないことを密かに願っていたのですが、最早かなわぬ願いとなりました。

 さて、そのかしらの話というのは……。

「鉄、黒船は知っているな?」

「へ?」

「何間抜けた声出しやがる。黒船だ黒船。品川沖や横浜の港にもやってる奴だ」

 いきなり何の話かと思うところではありますが相手はかしら。段鉄もとりあえずは話を合わせます。上下関係の基本という奴ですな。

「へ、へぇ、蒸気で走る異国の船でやすか?」

「そうだ、まぁ今ではこの国にも蒸気船はいっぺぇあるがな。ことは最初の黒船だ」

「最初の黒船? ペルリでやすかい?」

「そうだ。お前ぇも、あの米利堅メリケンの大将が来た時のことは覚えてるだろう?」

「勿論でさぁ。あれは丁度俺がまとい持ちになったばかりの頃だから……もう十五年もめぇの話だ。黒船が何しに来たのか分からねぇが、いきなり大砲おおづつでも撃たれた日にゃあ御府内が火の海になっちまう。そうなってから火消しが飛び出しても手に負えるもんじゃねぇから、江戸中の町火消があらかじめ集められて、何時でも出られる体で毎日毎晩待ってやしたぜ。……あの時黒船とは縁のねぇ火事が出たらどうなっていたか、今でも肝が冷えますぜ」

「まぁそれは杞憂きゆうって奴で終わった訳だが、その後が大変てぇへんだ。あっちでドンパチこっちでドンパチ、大騒ぎだ。挙句の果てに。去年の長州征伐の最中に家茂様までお亡くなりになる始末だ」

「まだ二十一でやしたね。お気の毒なこってす」

「たしかにの。で、お鉢が回って来た十五代様はお考えなさった。今は長州だけだが、これから先どうなるか分からねぇ。早く兵備を整え、不心得者が出ないようにしなきゃならねぇ、とな」

 十五代様とはもちろん徳川第十五代将軍徳川慶喜公のことですが、まだご在位中ですから下々の者がお名前を直に呼ぶようなことはまずありません。

「兵備ったって、お上にゃあ侍は一杯いるじゃねぇですか。旗本八万騎って言うのはありゃぁ法螺ほらですかい?」

 問われて頭は顔をしかめます。

「まぁ、今となっちゃあ法螺ほらみてぇなもんだ。だいたい旗本御家人てぇのはいざって時の為に扶持米てぇのを戴いてる。御公儀からお呼びがかかったら、戴いてる扶持に見合った人数を揃え、それを引き連れて戦に出なきゃならねぇ。それが道理だ」

「そりゃそうでがしょう。火消しだって同じだ。町衆の皆さんが普段から足止め代ってお手当てを下さるのは、火事になったらわっしらが命を張って働くからでやすからね」

「良く言った。正にその通りだ。武士千人を養うは一時の用の為なり、と言ってな。火消しも侍も、その一時の用の為に毎日養ってもらってるわけだ。わけなんだが……最近はどうもその道理が通じねぇらしいんだな」

「へ? どういう事でやす? どこかに足止め代をただ貰いしてる火消しがいるってんですかい?」

「いや、火消しにそんな不心得者はいやしねぇ。問題はお旗本連中だ。おめぇ、二丁目間の河辺様のご当主を知ってるか?」

「いえ、お目にかかったことはありやせんや。たしか二千石取りの大旗本様でがしょう? あっしらのようなもんがお目に掛かれるわけがねぇ」

「まぁ、俺だって会ったことはねぇがな。なんでも御歳おんとし五歳だそうだ」

「五歳? 二千石取りのお旗本がでやすか? 何か親御さんに急な不幸でもあったんでやすかい?」

「不幸といえば不幸だろうな。前のご当主は三十にもならないのに、急な病でお役目返上。隠居して一人息子に家督を譲っちまったんだ」

「そりゃ大変だ。いくらお旗本の子だって、五歳で当主が務まるもんじゃねぇ」

「それはそうなんだが、これは珍しい話じゃねぇぞ。あっちでもこっちでもご当主が急病になって、子供の旗本がごろごろ出来てる」

「はて、たしかにこの暑さは酷いけれど、流行病はやりやまいが出たとは聞いてませんぜ?」

「それが出たんだな。『臆病風邪おくびょうかぜ』って奴がお旗本に大流行おおはやりだ」

「『臆病風邪おくびょうかぜ』? なんですそりゃ? 火事が怖けりゃ火消しにゃなれねぇ。戦が怖けりゃ侍にやなれねぇでやしょう」

 首を捻る段鉄ですが、頭はにべもありません。

「なれねぇから隠居しちまったんだろうさ。

 ペルリが来た時にも似たような事があったそうだが、あれからもう十五年だ。長州征伐が蒸し返されそうな雲行きで、またぞろ流行り始めたらしい。親の行いに子が逆らうのは不忠の極み、ってわけだ。さすが旗本様、孝行息子ばかりと見える。

 これで次のいくさなんてことになってみろ、鎧兜着るのは年端も行かねぇ子供ばかりてぇことになる。馬揃えだか七五三の宮参りだか分かりゃしねぇ」

「たしかに様子を考えると笑えやすが……笑ってる場合じゃありやせんぜ」

「だな。まぁ二本差しでございますと威張ったところで、今の中身はそんなものだってことさ。物の役になぞ立ちゃしねぇ」

「ひでぇ話だとは思いやすが、それが一体あっしとどういう関係が……」

「いいから黙って聞け、これでも大分端折ってるんだ。何ならイザナギイザナミから話すか?」

 問われて段鉄手を振った。

「滅相もねぇ。このまんま続けておくんなさい」

 そこで頭は咳払いを一つ。

「じゃ、続けるぞ、ここからが本番だ。とにかくだ、これじゃどうしようもねぇってんで御公儀は知恵を絞った。旗本御家人は使えねぇ、人数も出せねぇ。なら仕方ねぇ。人を出せねぇなら出さくても構わねぇ。代わりに金を出せ、とな」

「なるほど。金があれば鉄砲やら軍艦やらを買い込める。五月蝿うるさい連中にも目に物見せてやれるってわけでやすね?」

「それもあるが、肝心なのは人だぁな。さっきも言ったように御公儀には兵が足りねぇ。よしんばいたところで今の世の中、宝蔵院流の槍やら新影流の刀じゃどうにもならねぇ。この前の長州征伐でも役に立ったのは鉄砲持った歩兵隊だけてぇ話だ」

 聞いて段鉄驚いた。

「へぇ、あのダンブクロがでやすかい?」

 と、ここで段鉄が驚いたのにはわけがあります。この『ダンブクロ』という言葉、辞書を引きますと、

『段袋』だにぶくろ(駄荷袋)の転。

一、布製の大きな荷物袋。

二、江戸末期から明治に用いられた、幕府兵士調練用の下部を筒形にした袴。

――とあります。要するにズボンですな。

 文久二年(一八六二年)に出された兵賦令によって集められた幕府歩兵は、翌年に御府内四ヶ所に屯所が設けられてから急に目に付くようになり、誰言うとなく歩兵=ダンブクロという呼び名が定着してしまいました。それまで着物に袴姿しか見たことの無かった日本人にとって、西洋の軍服を真似た幕府歩兵隊の服装は余程異様に見えたんでございましょう。

 ただ、初めの頃こそ本当にダブダブで裾がすぼまった、文字通りのダンブクロだったんですが、次第に改良され、やがて西洋のズボンとほとんど同じシルエットになります。とはいえ、最初の印象は強く、ダンブクロという呼び名は最後までダンブクロのままでした。

 ところがこの歩兵、御府内ではすこぶる評判が悪かったんですな。その中身は兵賦令によって旗本御家人が各自の禄高に応じて領地から差し出した領民。つまりはただの百姓町人だったのでございますが、ダンブクロを着て御公儀が後ろ盾に付いた途端に悪い本性が出た。

 町奉行所が手を出せないのをいいことに、徒党を組んで喧嘩けんかを吹っかけるは、食い逃げはするは、挙句の果てに気に入らない店を打ち壊すわで、散々悪さをしでかしたんでございますな。

 段鉄の驚き顔を皮肉げに見て、頭曰く。

「格好はともかく、連中はなかなかしぶてぇ。おめぇも知ってるだろう?」

 聞かれた段鉄苦笑い。

「まぁ、やりあったのは二度や三度じゃききやせんからね。一人二人なら屁でもねぇが、すぐ徒党を組むくせに逃げ足がはええ、厄介な連中ですぜ」

 左様、火消しの仕事は火事だけではないんですな。どちらかと言えばよろず厄介事揉事引き受け業の一つとして火事火消しがあると言ってもいいくらいで、喧嘩の仲裁や後始末を頼まれることも多かった。元より段鉄は小頭。血の気の多い火消しの若い者を束ねる役目です。歩兵の喧嘩けんか騒ぎに割って入った事は両手の指では足りません。

「こっちからすりゃあ、逃げ足の早いのは業腹ごうはらだが、戦場いくさばならそれも長所だろう。長州帰りの連中が随分吹いてたことが、全部が全部法螺ほらというわけでもねぇらしい」

「なるほどね。敵に回すと厄介ってぇことは、味方にすれば頼もしいのかもしれやせんが、本当に連中が戦場で役に立ったんでやすかい? 出は百姓でがしょう?」

「百姓町人が撃とうが侍が撃とうが、鉄砲の弾丸たまは鉄砲の弾丸たまだ。当たりゃあ死ぬぜ」

「違ぇねえ。たしかに道理だ」

「つまりだ。六千石の旗本様でも、そこら辺の破落戸ごろつきでも、持てる鉄砲は一挺よりねぇ。だったら軍役の人数分の禄を先に召し上げて、それで人を雇った方がいいってわけだ。そこで御公儀は人宿に……。おい八、人宿の決めは何だった?」

 目上の席では聞かれない限り口を開かないのが作法。それをいいことに半分居眠りをしていた八、頭の声に飛び起きた。

「ふ、ふぇ、何でやす?」

 頭がちょっと口調を改めます。

「八よ、口を出さずにいたのは感心だが、寝てちゃあ何もならねぇ。自分の預からねぇ話でも聞くだけは聞いておく、それがこういう席の定法だ。それが出来ねぇと何年たってもそのままだぞ。分かったか?」

「へ、へい。申しわけありやせん」

 ぺこりと頭を下げた八を見やって、頭は質問を繰り返します。

「人宿に回ったというお触れだ。何と書いてあった?」

 問われて八公、ちょと宙を見つめて。

「あれはたしか……年季は五年。お給金は年十両。身の丈が五尺二寸(一五八センチ弱)あれば生国や手職の有無はおかまいなし、無宿無頼の徒でも苦しからず。身分は小揚こあげの下で、格別の働きあればお取立てもあるそうでやす」

 長年年期を入れた職人の収入が年十両程度の時代です。米に直すと約三十俵。町方(町奉行所)同心の扶持とほぼ同じです――ただ、町方同心には様々な余録がありましたから、収入がこれだけというわけではありませんが。

「十両とは剛毅だが、身分は小揚の下? サンピンの下ってぇことは中間ちゅうげんか。定火消のやっこ連中と同じかよ」

 段鉄が聞いて渋い顔をしたのはわけがあります。サンピンというのはサンピン、つまり三両一人扶持という、一番下っ端の御家人のことです。

 しかしその下というのはもう武士ではなくて、中間――つまり個々の武家に奉公する雇人やといにんです。分かりやすい例を言えば、主人の登城行列の供をしていたやっこですな。あのやりを持ったり、挟箱はさみばこを担いでいた者たちがそれに当たります。

 そして、幕府直轄の消防隊である定火消じょうびけしに所属していた臥煙(火消人足)も、身分としてはこの中間だったんですな。色々あって町火消の鳶連中とは犬猿の仲だったんですが、それは別の話としまして、つまり、歩兵になれば始めは中間でも、お取り上げによって一身分上がれば侍になれるという話でございます。

 そこで頭が言葉を継ぎます。

「臥煙を何年続けようが士分にゃなれねぇが、同じ中間身分でも歩兵隊は違うってことだ。これまでに苗字帯刀を許されたダンブクロは存外多いって話だぜ」

 頭の言葉に、段鉄いささか仰天した様子。

「ほんとですかい?大店おおだなの旦那でも家が傾く位冥加金みょうがきん(税金)を納めねぇと、苗字帯刀は許されねぇって言うじゃありませんか。それが鉄砲かついでえっちらおっちら歩くだけで貰えて、しかも年に十両となりゃあ、口入屋に駆け込む奴が増えそうだ」

 と、ここで頭が一言。

「おめぇの言うとおりだ。知ってる中にも一人いるぜ」

 聞いた段鉄ぽかんとしますが、やっと合点がいった様子です。

「……なぁるほど、一体何の話やらとずぅっと思ってたが、ここに繋がるわけですかい。よりによって歩兵隊なんぞに入ろうてぇ物好きが知り合いから出るとはねぇ……。こりゃあ確かに大事おおごとだ」

 頭は頷いて尋ねます。

「だろう。で、そいつは誰だと思う?

 聞かれて段鉄また思案。

 ――五尺二寸もあって、こういう話に飛び付きそうなおっちょこちょいというと…………八、てめぇか!」

「ふぇっ、な、なんでやす?」

 聞かれてまたまた八公飛び跳ねた。たしかにこの八、昔は出初でぞめの梯子乗りに憧れて稽古していたものの、急に背丈たっぱが伸びて諦めただけあって、今は五尺三寸ほどと、この時代では大男の部類に入ります。

 けれど頭は首を振ります。

「いや、八じゃあねぇ」

「当たり前でやすよ。あっしがなんでまた」

 慌ててわたわたと手を振る八。それををちょっと睨んで、段鉄。

「ふん、まぁたしかにおめぇにそんな山っ気があったら、ちったぁ目も出てるわな。……となれば熊公だ。あいつはこの前、散々入れ揚げた水茶屋女にこっぴどく振られやがった。こうなりゃ侍にでもなって見返してやるしかない、ってんで口入屋に……え? 違う? おかしいな」

 腕を組んだ段鉄の思案が続きます。

「……甚助ん所には足の悪いお袋さんがいるから、五年も出っ放しになるわけにゃぁいかねえだろうし、嘉介の野郎は生意気に女房貰ったばかりだ。忠六は花火の音で腰抜かすくれぇだから、鉄砲なんぞ撃てる筈がねぇ。他に五尺二寸あるような奴はいねぇし……」

 と、鉄公やにわに顔色を変えて。

「まさか……。頭、それはいけねぇ、いけねぇよ。お静さん放り出して、鉄砲担ぎに行くなんて了見違いもいいところだ…………でもまぁ、どうしてもと仰るなら、お静さんの面倒はこのあっしが……」

 言われてかしらは目を剥いた。

「馬鹿野郎! 言うにこと欠いて何を言いやがる。組頭の俺が組をほっぽいて行けるわけがねぇだろう」

「あ、そうか、そうでやすよね。……チョッ違うのか」

「何か言ったか?」

「い、いえこちらの話で」

 それを聞こえなかったふりで、かしらは言葉を継ぎますな。

「おい、鉄よ。俺はお前の知り合いだと言ったんだ。組だけとは限らねぇぜ」

「へ? 組の連中とは違うんでやすかい? となると他に知り合いは…………うぉっと、これはまずい、まずいじゃねぇですか。なんでさっき出て行く時に止めなかったんです? ひょっとしたら命に関わりますぜ」

「何の話だ?」

「だから、俺の知り合いで、五尺二寸あって名字帯刀に目が眩みそうなお人と言えば一人しかおりやせん。御隠居ですよ御隠居。まったくもう、自分の歳を考えやがれってんだ。棺桶に片足突っ込んでる癖に……」

 ここまで来ると頭もあきれますな。

「馬鹿、御隠居のわけがねぇだろう」

「そ、そりゃぁまぁそうでやすが……」

 考え込んでしまった段鉄に、表情を改めた頭が尋ねます。

「時に鉄よ、さっき言ったことに間違いはねぇだろうな」

「さっき言ったこと?」

「そこに額を擦り付けて。かくなる上は如何なるお申し付けでも身体を張ってお受け致します、と言ったことだよ」

 聞かれて段鉄胸を張る。

「頭。あっしゃあ江戸っ子でやすぜ。江戸っ子と言えば男の中の男。男に二言があろうはずはございやせん。それをお疑いになるんですかい?」

「江戸っ子って……鉄、おめぇは相州の出だろう?」

「憚りながらこの段鉄。二十年前に多摩川を渡ってから、一度たりとも相州に足を踏み入れたことはありやせん。今のあっしの身体に詰まっているのは頭の天辺から足の爪先まで、正真正銘のお江戸の水道の水だ。相州の水なんぞはとうの昔にしょんべんになって出ちまいましたぜ」

「しょんべんして江戸っ子になれるたぁ初耳だが、心意気は感心だ。ならば教えるが、その一人ってぇのはこの家の住人だ」

「この家に? ここに居るのは御隠居と、お春ちゃんと、二階の若旦那だけでしょうに。新しい下宿人でも入れなすったんですか?」

「そんなものはいねぇよ」

「いねぇって、ということは……あれ? お春ちゃんは男だったんでやすか?」

 その途端、パコーーーーーンといういい音と共に鉄の目から火が飛びましたな。後ろ頭を抑えた目の前に、湯飲みが一つ、とんと置かれます。

「男の入れたお茶で申しわけありませんね」

 言い捨てて、お盆を抱えた足音がトントントンと去って行きます。

 涙目の段鉄にかしらが一言。

「鉄よ、今のはおめぇが悪いぞ」

「へぇ。ごもっともで」

「ここまで言やぁおめぇにも分かるだろう」

「へ? てことは若旦那が?」

「そうだ」

「歩兵隊に?」

「うむ」

「あの末成うらなりの青瓢箪あおびょうたんが?」

「五尺二寸は十分あるわな」

「箸より重い物は持ったこともねぇのに?」

「生国手職は問わねぇらしいからな」

「なんでまたそんな酔狂を?」

「どうやら苗字帯刀が狙いらしいな」

 言われて段鉄、も一度腕を組んだ。

「うーん、思い切ったもんでやすねぇ。たしかに跡取り息子が二本差しになりゃあ、勘当した親御さんも頭を下げて迎えに来る道理だ。道理でやすが……そんなに上手く行きますかね?」

「行かねぇだろうな」

 聞かれたかしらはあっさりと答えますが、それには段鉄も異議はありません。何せ家業の帯屋に身を入れず、茶屋遊びに明け暮れて勘当された若旦那です。鉄砲どころかダンブクロ着せても息が切れそうな優男。これほど歩兵隊に似つかわしくない男も珍しいでしょう。

「でやすよねぇ……あ、そうだ、肝心な話を忘れてやした。御隠居はお許しになったんですかい?」

「許すも許さないも、若旦那はもう証文を入れちまったらしい」

「証文? 若旦那の請人うけにんは御隠居でがしょう? 請人うけにんなしで証文は作れねぇはずじゃ……」

「それなんだがな、今度の話は中間の雇入れと同じで人宿が請人うけにん代わりだから、取り分けて請人うけにんを立てなくてもいいらしい」

「そりゃぁ……どうしようもねぇ。お上も罪な事をしやがる」

 段鉄が絶句したのは無理もございません。

 奉公人が奉公する時は必ず請人うけにんを立てて身元の保証をしてもらうのが決めですが、中間や陸尺ろくしゃく(かごかき)などだと少し違ったんですね。毎日行列を組むわけではありませんから、常雇にすると費用がかかる。そこで間に人宿が入って請人うけにんになり、武家の求めに応じて人を出していたわけです。今で言えば派遣社員でしょうか。

「普通の証文なら本人と請人うけにんが改めて侘び証文を入れて何がしかの金子を差し出せば、なかった話に出来ねぇこともなかろうが、こうなると若旦那にその気がないんじゃどうしようもねぇ」

「で、でもそれじゃあ若旦那は歩兵隊に入ぇっちまいますぜ。あの若旦那が戦に出るような羽目になったら、戻って来れるはずがねぇ」

「だろうの。そんなことになったら御隠居はご両親に顔向けできねぇし、何より若旦那がお気の毒だ」

「でやすよねぇ。しかし本当にもうどうしようもねぇんでやすか?」

「お上が相手の話だからな。まぁ若旦那が足の一本でも折っぽしょれば、無かった話にできねぇこともなかろうが……」

 と、段鉄の目がきらりと光って。

「まかせておくんなさい、そういうことなら一本とは言わず二本でも三本でもこのあっしが……」

「おいおい、早まるんじゃねぇ。だいたい三本も足のある人間がいるはずはねぇだろう」

「いや、あの若旦那は三本目も折っちまった方がいいと思いまずぜ」

 言われて頭は苦笑い。

「それはそうかもしれねぇが、いくらなんでもそんなわけには行くめぇ」

「そうですかい。でもそうしたら若旦那は歩兵隊に行っちめぇやすぜ」

「そこなんだがな……」

 頭はそこで言葉を切って、じっと段鉄を見つめます。え? という表情の段鉄からふ、と目を逸らし、頭の言葉が続きます。

「実はさっきまで御隠居と思案してたんだが、誰かを付けてやるのはどうか。って話になってな」

「付ける? 歩兵隊にでやすかい?」

「ああ、誰かしっかりした奴が一緒にいりゃあ、色々手助けもできようし、かばってもやれようというわけだ」

 言われて段鉄手を打った。

「なるほど、それはいい手だ。……となれば誰がいいかな……」

「いや、それはもう御隠居と相談して決めておいた」

「おや、もうそういう算段ができてるんでやすか。なら安心だ。何をしているお人です?」

「鳶だ」

「お、同業ですかい。ならどこかの火事場で会ってるかも知れねぇ。がたいはどんなもんでやす?」

「身の丈は五尺八寸。目方は十六貫と聞いたな」

「でけぇな。あっしと同じくらいだ。江戸者ですかい?」

「出は近在だが、江戸っ子以上に江戸っ子らしいと評判だ」

「ほう。何かあっしと気の合いそうな奴ですな。何か目立つ印はありませんかい?」

「左の眉が半分焦げてないらしい」

「おや? そんな奴が他にも居るとは知りやせんでした。どこの組でやす?」

「『か』組だ」

「『か』組『か』組……いろはにほ百とちりぬるをわかだから、ええと……あれ? 『か』組は確かウチの組ですぜ?でやすよね、かしら?」

「当たり前ぇだ。ウチの組は吉宗様の代に町火消しが出来たときから、ずーっと『か』組だ」

 このあたりで段鉄のこめかみに冷や汗がたらり。

「え? えぇ? …………ということは、若旦那のお供は……」

「今言ったじゃねぇか。『か』組の鳶で、身の丈五尺八寸。目方は十六貫。相州の出だが江戸っ子以上に江戸っ子らしくて、左の眉が半分焦げてない奴だよ」

  ・

  ・

  ・

「あっし? あっしでやすか?」

「そうだ、鉄。てめぇだ」

 言われた段鉄、驚いたなんてもんじゃあない。

「い、いつの間にそんな話が出来上がって……」

「さっき確かめただろう? それでいいのか、と」

「か。かしら。確かにあの時は……」

「ほう、『か』組にその人ありと言われた江戸門の段鉄は、そんな奴だったのか?」

「そんな、とは?」

「如何なるお申し付けでも身体を張ってお受け致しますと言いながら、後になってそんなつもりじゃなかった、と言うような奴だよ」

「うーーん」

 これには段鉄、一言もありません。頭を抱えて黙ってしまいます。

 頃合を見計らってかしらが言葉を継ぎますな。

「鉄よ、おめぇをめたような形になっちまったのは謝る。けどな、誰でも務まる役目ならともかく、これが頼めるのはお前ぇだけだ。言いてぇことはあるだろうが、ここはけてやっちゃあくれねぇか」

 言われて段鉄一思案、いや二思案。三四がなくて五思案目あたりで行きついたのは……。

 ――たしかに一度口にしたことを反故ほごにしたら男じゃねぇし、鳶の風上にも置けねぇ。言ったことは言ったことだし、誰が行くって話になりゃあ自分にお鉢が回って来るのも道理だ……道理には違いねぇが……。

「……かしら、なんでそうならそうとはなから言って下さらなかったんです?」

 聞かれてかしらは苦笑い。

「言う前におめぇがそこで這いつくばったんじゃねぇか」

「あ、そうでやした。御隠居とかしら揃っての呼び出しだってんで、てっきりあのことが露見したのかと……」

「あのこと?」

「い、いえいえ、こっちのことでやす。ご存知ないんだったらそれでいいんで、どうかお気になさらずに」

「てめぇで言っておいて、お気になさらずにてぇ言い草があるかい。それが糸屋の一件なら俺が始末をつけたから大丈夫だ、もう何も言って来ねぇよ」

「あちゃぁ、既にお見通しでやしたか。かしらのお耳に入れるまでもねぇと思ってたんですが、お手間をかけて申しわけありやせん」

「まぁいいってことよ。今度の一件に釣り合う程のことじゃねぇ。気にするな」

「へい、ありがとうごぜえやす。けど、釣り合わねぇというなら他にもう一つ二つ……」

「おい、まだあるのかよ」

「いえいえ、冗談です。後のことはてめぇで始末しますんで」

「そうか、ならいいが……じゃあ念を押すようで悪ぃが、本当にいいんだな?」

「いいも悪いもありませんぜ。もう決まったことなんでがしょう? 若旦那に何かあったら御隠居もただじゃ済まねぇし。後見に何かあったら組も困ったことになる。あんな因業爺でも組には過ぎたお人だ」

 と、そこに背後から声が来ますな。

「はいはい、私はどうせ私は因業爺ですよ。因業だから今日のことは謝りません。ええ、謝るもんですか。口を滑らせたのはそっちの勝手。こちらはその言葉を素直に受け取っただけですからね」

 振り返った段鉄の前に涼しい顔で座っているのは御隠居です。段鉄の驚くまいことか。

「ご、御隠居。何時の間に」

「五つの間にも六つの間にもありません、この家は四間しかないんですから。棺桶に片足突っ込んだあたりからですかね」

 言われて段鉄、頭をかきます。

「あちゃぁ、聞かれてましたか。どうかこのことはご内聞に」

「本人に向かってご内聞も何もないでしょうに。まぁそれはかまいません、かまいませんが、話はまだ終わっていませんよ。謝らないとは言ったが、礼をしないとは言ってません」

 と、言うなり御隠居。すっと座布団を外すと、ぴたっとその場に平伏致します。

かしら。小頭。この度はご無理をお聞き届け戴き、誠にありがとう御座います。

 この和泉屋与平。これより先命ある限り、『か』組後見としてできる限りの務めをさせて戴くことで、僅かなりとも今日のご恩を返させて戴ければと思っております。誠に、誠にありがとうございました」

 かしらの驚くまいことか。

「ご、御隠居。お手をお上げ下せぇ。そんなもってぇねえことをされてはこちらが困ります。こら、鉄、お前も何か言わねぇか」

 と、段鉄が口を開く前に。御隠居は身体を起こして一言。

「お礼はこれでお仕舞。因業爺に戻りますよ。覚悟なさい」

 聞いた段鉄頭をかきます。役者が違いますな。

「へい。覚悟させて戴きやす。後はわっしとこの八に任せておくんなせぇ」

「へ?」

「む?」

「おや?」

 段鉄以外の三人が、思わず見合す顔と顔と顔。

「おい、鉄。今、何と言った?」

「え? 行くのはわっしと八でがしょう?」

 聞いて八公驚いた。

「あ、兄ぃ、な、なんであっしまで……」

「呼ばれたのは俺とおめぇだぞ。片方だけに用って法はねぇだろう」

「え? え? えええっ? あっしはただ兄ぃを案内して……」

「下谷から御隠居の家まで来るのに、なんで案内がいるんだ?」

「そ、それはそうでやすが……か、かしら。何とか言っておくんなさい」

 振られたかしら、ちょと思案して。

「存外、いい手かも知れねぇな」

「ええっ?」

 八はもう真っ青でございます。

「いや、はなからそのつもりでいたわけじゃねぇんだがな。二人ならただの知り合いだが、三人寄れば徒党だ。何をするにもだいぶ違う。御隠居、どうでやす?」

「そうですね。大勢の中に入るんです。仲間は多いほうがいいでしょうね」

「な、八。そういうこった」

「そういうこったって……なんでいきなりこんな話になっちまうんでやす?」

「なぁに、八にお鉢が回ったのよ」


 お後が宜しいようで。


■第二夜 狼藉者と卵焼き

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戊辰異聞「江戸門段鉄」 鷹見一幸 @enokino

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