無害な気体

肉球工房(=`ω´=)

無害な気体

 ある日、目が覚めるとそこは清潔なベッドの上。

 見渡せば白を基調とした無機的な内装が目にはいる。特徴ある薬品臭がすることから判断するなら、どうも病院の一室であるらしい。

 一瞬、彼は「なぜ自分がここにいるのか」と不審に思った。

 半袖のワイシャツにネクタイ姿で、どこにも怪我をした様子はない。それに、自覚できる身体の不調も、これといってない。

「お目覚めですか」

 意外な近さで声がした。

「あ、あの……」

 彼が尋ねるよりも早く、中年の看護婦はにこやかに、ただし有無をいわさぬ事務的な口調でまくしたてる。

「まだ、記憶の混乱があるかもしれませんね。気分は悪くないですか? 頭痛やなにかは? そう。記憶剥離処置は、無事終了しました――

 これが、あなたの希望であなたから切り離した、ご自分の記憶です」

 と、なんの特徴もない直径十センチ、高さ十五センチほどの広口瓶を手渡される。中は、なにやら白く煙っている。

「かつてはあなたの正常な精神を脅かすほどに危険な記憶でしたが、今では無害な気体です」


 受け付けで領収書と数種類の錠剤を受け取り、日が暮れかかった町中にでると、日中の熱気はいまだ冷める様子もない。焼けたようなアスファルトが靴底を容赦なく暖める。大気はたぶんに湿気を含み、彼の全身の毛穴という毛穴から汗が吹き出すののに、数分も必要としなかった。

 ――そうか。この道を通るのも、これが最後なんだな。

 ハンカチで汗を拭いつつ、通いなれた道を歩いていくと、奇妙な感慨にとらわれた。

 記憶剥離処置は歴史は浅いものの技術的には確立した医療で、たいていは入院の必要さえなく数回の通院で終了する。また、後遺症もないとされている。今日の通院で「処置」も全て終了したという話しだから、もはやこの道を通ることもないはずだ。

 ――なんのために通院していたのか覚えていないというのも、考えてみるとおかしな話しだ。

 記憶剥離処置の実施には、本人の同意はもちろんのことだが、精神科医の診断と厚生省の認可、場合によっては裁判所の許可が必要となるケースもある。

 彼が「処置」を必要とした、ということは、言い換えれば、「処置」をしなければまともな社会生活がおくれない、と、何者かが判断したことを意味する。しかし、「処置」が無事終了した今となっては、なぜ、なにを忘れる必要があったのか、彼自身には思いだせない……。

 湿気が多い残暑の夕暮れのなかを、逆説的な思索にふけりながら、彼は機械的に両足を動かして家路を急いだ。


 郵便受けから夕刊とダイレクト・メールの束を取ると、公団住宅の狭い階段を、汗を拭いつつ五階まで昇る。階段から左に折れて三軒めのドアが、彼の自宅の玄関だった。

 慣れた手つきで鍵を開け、ダイニング・テーブルの上に夕刊とダイレクト・メールの束、それに病院で貰った広口瓶と内服薬の袋を置き、乱暴にネクタイを緩める。手早くワイシャツとスラックスを脱ぎ、スラックスはハンガーに架ける。ワイシャツを洗濯機に放り込むと、替えの下着をだし、下着姿のままバスルームに飛び込んだ。

 病院からの帰り道を歩いてきただけなのに、身体中が汗にまみれ、気持ち悪かったのだ。

 ざっとシャワーを浴びてバスルームをで、冷蔵庫から取り出した缶ビールのプルトップを開き、喉をならし息の続く限りむさぼる。

 満足げに息を吐き、ふと目線を下げると、西日に照らされた六畳間にひとりの女性がうつむき加減で正座しているのに気づいた。

 顔の部分は影になっていて、表情が伺えない。

「……ど、どちらさんで?」

 混乱し、戸惑いつつも、とりあえず声をかける。さっき帰ってきたときにはいなかったから、シャワーを浴びている間に入ってきたに違いない。

「あなた」

 その女性の声は震えていた。

「記憶を消したのね。わたしのことなんて、もうこれっぽっちもおぼえていないんでしょう!」

 みると、ダイニング・テーブルの上に置いたはずの広口瓶と内服薬の袋が、女性の手に握られている。内服薬の袋には薬のほかに、「処置」のために彼が病院に支払った金額が明記された領収証も入っていた。「処置」は保健適用外なので、全額で彼の月収二ヶ月分ほどの金額になる。

「あ、あの」

 彼の脳裏を、瞬間にいくつかの推測が駆けめぐった。

 ――この女性は、過去に自分となんらかの関係を持っていたらしい。それは、言動のほかに、この部屋に容易に入ることが出来たことからみても、まず、間違いはない。彼女は合鍵を持っているに違いない。

 ――この口調から察するに、彼とこの女性との関係は、けっして浅いものではなかったらしい。それどころか、彼が「処置」を受けねばならなかったのは、この女性との関係がこじれたから、という可能性も十分に考えられる。

「落ち着いて、落ち着いて。

 過去のぼくが貴女になにをしたのか。あるいは、貴女がぼくになにをしたか。

 そういったことについて、ぼくは何も知りません。おぼえていません……」

 彼はいった。

「あるいは、一方的にぼくが悪かったのかも知れません。だけれども、今のぼくは貴女のことをなにもおぼえていないのです」

「よくもまあ抜けぬけと!」

 その女性は立ち上がり、喚いた。

「あれだけヒトのことをバカにして、コケにして、メチャクチャにしておいて、

『自分はもう忘れましたから、なかったことにしてください』

 ですって。

 それで済ませられるとでも思っているの!」

 大声で彼を罵倒しつつ、上気した顔で彼の目をまともに射すくめる。

「卑怯よ! 自分の都合で勝手に忘れたくせに!」

 気圧されて、彼は絶句する。

 その女性との経緯を一切記憶していない彼にしてみれば無責任きわまる見解だが、その女性の言い分はもっとものように思えた。

 かりに、過去に彼らの関係が破綻した、というのが事実であったとしよう。だとすれば、それはあくまで彼らふたりで解決すべき問題ではなかったのか?

 すくなくとも、自分の記憶の都合の悪い部分のみを剥離する、という一方的、かつ、逃避的な解決策は、選択すべきではなかったのではないか?

「あ、あの……」

 彼が、とりあえず謝罪の言葉をかけようと口を開いたそのとき、インターホンが鳴った。

「すいません。宅急便です」

「ちょっと待ってください!」

 その女性との口論が一時的にせよ中断されることに安堵しながら、彼は玄関先に足を運ぶ。そのまま、なんの疑問も抱かずにドアを開ける。

「はーい……ぅわっ」

 ドアが開くや否や、彼を押しのけ、数人の背広姿の男たちがどかどかと上がり込む。

 誰何する暇もなく、「裏切り者、卑怯者」と金切り声で罵声をあげるくだんの女性を男たちは押さえこみ、背中に回した手首に手錠をかける。

「病院を抜け出したという通報がありましてね。立ち寄りそうな場所を張り込んでおったわけです。

 ついでに、不法侵入の現行犯ですな」

 男のうち一人が、ドラマの中でしか見たことのない警察手帳をしめし、彼にそういった。

「いわゆる、ストーカーというヤツですなあ。パラノイアとかの一種だそうで、先日、裁判所が司法的な記憶剥離処置を命じたばかりなんです。

 ――彼女、なにかいってましたか?」

 探るような目つきで彼に問う。反射的に、彼はぶんぶんと首を横にふった。

「なら、けっこう。かりになにか聞いていても、忘れてください。

 ――ご協力、感謝します」

 敬礼をして、男たちは上がり込んだときと同じような迅速さで去っていく。


 取り残された彼は、自分がいまだフロあがりの下着姿で、すっかりぬるくなった缶ビールを片手にもっていることに気づいた。


 ふと、「公団住宅って、独身では入れなかったんだよなあ」と、ひとりごちる。

 彼には、自分の妻に関する記憶がいっさいなかった。そういえば、部屋の中も不自然に隙間が多く、まるで、それまであった家具が最近運び出されたかのような印象も受ける。

 離婚した、ということは充分ありえることだし、その記憶を自分の意思で剥離した、と解釈するのが自然なのだろう。が、……。

 もしも、自分の「処置」が、自分の意思によるものでないとしたら。

 もしくは、あの女性と過去の自分との間に交際があり、犯罪などを共謀していたいたとしたら。

 または、当初そう思っていたように、単純に男女の関係がこじれ、もつれただけなのか。

 あるいは、男たちが主張するように、あの女性は精神を病んでいて、自分の「処置」とは無関係なのか。

 解釈の選択肢は無数にある。が、そのうちどれかひとつを選択するだけの決定的な決め手も、欠いている。どの説もそれなりに信憑性があり、同時に、少しずつ不自然に感じる箇所があるように思えた。

 彼はベランダにでて、病院でもらった広口瓶をあける。


 白いガス状の彼のかつての記憶、「無害な気体」とやらは、エアコンの放射熱によって熱せられた夜の大気に紛れ、ゆらめいて、消えた。

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