君を救ういくつかの方法
アリス・アザレア
0.実在していた運命について
1.
見上げた空が、とてもきれいだった。
夏の雲は夕焼け色の中でもしっかりとした形を保っていて、橙色の中に影を残す。それが夕焼けの光をさらに強く見せる。もう少し雲が多かったら、天の梯のように地上に光の柱が射しているように見えたのかもしれない。
加えて、その橙の光を受けてきらめく、海面もまたきれいだった。手を伸ばしたらすくい上げられるような気がする、そんな光の粒がさらさらと揺れている。
今日は珍しく海に人がいない。夕暮れ時の日曜日で、遊びに来ていた人たちはもう帰路に着き始めたのだろうか。
そういう僕も、そろそろこの散歩を終えて狭いアパートの一室に帰ろうかと思っているところだ。
そう、明日は月曜日。休日はもうおしまいだ。僕にとっても、世間にとっても。
明日からまた憂鬱な日常が始まる…。そう思うとこのきれいな海に飛び込んでそのまま沈んでいたくなった。そうして二度と浮き上がることがない場所まで沈めればいいのにな、とわりと本気で思う。
(はぁ)
心の中で溜息を吐いて、少し陽が傾いて輝きが失せてきた空を見上げ続ける。
せめてこのきれいな空を見て心を少しでも浄化させようか。そうして何かが変わると思えるほど僕は脳天気ではないけどさ。きれいなものを見るのは嫌いじゃない。
ぼうっと海を眺め続けて、太陽が雲の向こうに隠れた辺りでそろそろ帰るかと重い腰を上げた。防波堤のコンクリートの上にあぐらをかいていたからお尻が痛い。
ジーパンについた砂埃を払いつつ海岸に背を向けたところで、僕は立ち止まった。
僕とそう変わらない、恐らく成人しているだろう女の子が一人、ぼんやりとした顔で波が打ち寄せる浜辺に立っていた。膝丈の白いスリップドレスに黒いカーディガンを羽織っただけの薄手の格好だ。
彼女は腕時計型のインターフェイスを無造作な手つきで外した。
心ここにあらず。そんな顔のままインターフェイスを握った拳を海へと振りかぶる。
ポチャン、という音が聞こえたあと、なぜか僕の方が焦ってしまった。自分のインターフェイスを指で撫でて確認する。大丈夫、オンボロだけど僕のはちゃんとある。
生まれたと同時に国に支給されるこの腕時計型のインターフェイスは、普段は腕時計としてただ腕にくっついている携帯型情報端末で、一昔前のスマートフォンみたいな役割をこなしている、日常生活に欠かせないものだ。それを彼女は捨てた。海に。拾おうともしない。光の粒の消えた、黒く染まり始めた海をただ見ている。
僕は動くに動けなくなってしまった。
インターフェイスを捨てるなんて、常識としてありえないことだ。
生きていくのに必要なことの大半がこの小さなものにぎゅっと詰まっている。
車のナビもできるし、仕事の予定だって確認できる。音声で入力しただけで勝手にスケジュールを組んでくれて、インターフェイスに従っていれば遅刻もないし、社内のイベントを忘れることもない。レストランの予約も、欲しいゲームの取り寄せも、ネットショッピングも、全部これ一つでできる。
そんな便利で必要不可欠なものを、あの子は捨てた。
そして今、履いていたサンダルも捨てた。カーディガンも放り投げた。すべてが暗闇となり始めた海の中へと取り込まれ、見えなくなっていく。
僕の中の焦りが加速していく。
死ぬ気だ、と思った。命より大事…とは言わないけど、インターフェイスを捨てるってことは、そういうことだ。
「ねぇきみ!」
だから僕は彼女に声をかけた。
このまま何も見なかったことにして海岸に背を向けるような勇気は、僕にはなかった。
もしそんなことができたとして、次の日新聞に『若い女性の水死体が見つかる』なんて記事を見かけようものなら、間違いなく後悔するし、彼女が思い留まっていたとしても、『あのあとどうしたんだろう』なんて気にするに決まってるんだ。だったら今ここで声をかけて、彼女がしようとしていることを阻止したい。それが僕のためであり彼女のためでもあると、そう信じたい。
僕の声に、彼女は俯きがちだった顔を上げた。
防波堤から砂浜に飛び降りた僕の目に映ったのは、静かに涙を流す横顔。
ちょうど海辺の脇を走る道を車が通りすぎて僕らを一瞬だけ照らした瞬間の、その消えそうな印象は、僕の心に一つの感覚を抱かせた。
それは、ただの思い込みだと言われればそのとおりのことで、
ただの思い上がりだと言われれば、言い返す言葉もない、ただの直感。
それでも、僕は彼女を守りたいと思った。そう感じたことに嘘偽りはなかったんだ。
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