ゴング

 梅雨が明けた。明るい太陽の季節だ。

 暑さに閉口する時もあるが、基本的に夏は好きだ。1年で一番自分を解放できる気がする。


 4人の共同生活が始まって1カ月が過ぎたが、穏やかな毎日が続いていた。

 最初に花絵が予想したように、優くんも賑やかな空気の中で明るい笑顔を見せている。

 花絵と二人で会う時は家の外と決めたが、それも特に共同生活に大きな支障は与えていない。

 優くんへの返事は——当然、できていない。

 彼も、俺がすぐに答えを出せないことはよくわかっている。


 広田さんと飲みに行ってから、ずっと考えていた。

 今のところ、ウチの中は表面的には平和で穏やかだ。

 でも、実はそれぞれが、いろんな思いを抱えている。今はそれをお互いにぶつけ合わないから、うまくいっているだけだ。いつバランスが崩れてもおかしくない。

 このまま「なんとなく」を続ければ、メンバーの心の中に敵対心やいがみ合いというような感情がだんだんと大きくなるだろう。花絵が共同生活を提案したのだって、4人の不仲を望んだわけじゃないはずだ。


 ならば、これから、どうする——?

 そして、次第にある思いが俺の中で固まってきていた。



「あのさー、みんな今ヒマ? ビール持ってリビング集合ー」

 ある日曜の夕方、俺はウチメンバーみんなに声をかけた。

「これから夕食の支度だけど? ピザとかケータリングにしちゃおうか?」

「夕食当番免れたいのが見え見えよ、花絵」

「なんか面白い話ですか?」

「んー、面白いかどうか……むしろ、ちょっとコワい話かな」


 リビングの窓から、夕方の涼しい風が入ってくる。

「あのさ、考えたんだけど……俺たち、これからどうするか」

 3人とも、ふっと真面目な顔になった。

「このまま、ずっと4人で共同生活続けると、どうなるかな……って。

このままだと、誰かが何かを我慢し続けなきゃならなくなる……そうだろ?」

「……」


 全員、黙って聞いている。心のどこかに同じ気持ちがあるのが感じられる。


「ちょっとリアルな話するけど……

例えば……花絵、ヒロさんとセックスした翌日、俺とセックスする……そんな生活、平気?」

「え、え……急にそういう?

 ……ん、でも……多分平気じゃないと思う……」

 花絵は、突然の単刀直入な質問にうろたえながらも、そう答えた。

「私はいいけど。花絵を愛して構わないなら」

 ヒロさんは冷静にそう解答する。

 優くんは、緊張した顔でそれを聞いている。


「突然こんな話してごめん。

 ……でも、そういう関わり合いがお互い平気でなければ、4人全員が満たされた生活を続けていくのは、多分無理なんだ」


 ちょっと呼吸を入れる間に、皆黙ってビールを呷る。


「だからさ……ウチのメンバーの目標、ひとつ決めたいんだ。——『4人で過ごす時間はいい時間にする』、っていう目標。

 この先、俺たちがどういう形に変わっていくのかは分からないけど……時間が経って、振り返った時に、この時間があってよかったって、みんなで言えること。それも、目標にしたいんだ。

 だって、バラバラじゃ得られないものを得るために、4人集まったんだもんな?


 ケンカや衝突をしないで暮らそうって意味じゃない。そういうぶつかり合いをしても、やっぱりお互いが好きだって……そこに戻れるようにしたいんだ。

 そう思っていれば、何があってもきっといい方向へ進める……だろ?」


「……うん。賛成」

 全員、しっかりうなずいてくれている。


「……ごめん、拓海……」

 花絵が、下を向いて呟く。

「ほんとは、こんなこと、私がちゃんと考えなきゃいけなかったのよね……言い出しっぺは私なんだから。

 でも、みんなといると、ほんとに楽しくて……先のことを考えるのが、どうしても怖くなって……」

 そう言いながら、ボロボロと涙をこぼした。

 まあ、ほんとはそうだけどな……花絵のこんな純真なところが、俺は好きなんだ。


「……じゃ、レフェリーのルール説明は以上でいいわね?」

 ヒロさんがそう言い放つ。

 ん……レフェリー??

「私も思ってたの。こういう話をいつ誰がするかなって。やっぱり永瀬君はいざという時男前ね。だって、こうでなくちゃ何一つ先に進まないもの。

 さあ、じゃ、ゴングよ! 全員、正々堂々ガッツリぶつかり合うこと!!」


 リングに上がったつもりも、レフェリーになったつもりもなかったのだが……なんだか、最後には勝手にゴングが鳴り響いていたのだった……。


 そして、これがあくまで第1ラウンドであり、ボクシングのように単純に結論の出るものではないのだということにも、俺たちはまだ気づいていなかった。





 翌朝、ちょっと寝過ごした俺は、急いで着替えて出勤の準備に取りかかった。

ネクタイを締めつつ部屋のドアを開けると……

 出かけるヒロさんと、ピンクのパジャマ姿の花絵が玄関でキスをしている。


 ……わぁ……見るんじゃなかった。

 まあ、あのパーティで一度見てることは見てるが……身体のどこかに、何かがぐさっと刺さる音がした。


 ヒロさんを見送って振り返った花絵は、俺を見て微妙に慌てている。

「今起きたらヒロが出かけるとこだったから、見送りしただけよ?」

「おはようございます。永瀬さん、これから出勤ですか?」

 そんなところへ、優くんが部屋から出てきた。

「あ、うん、今朝ちょっと寝過ごしてさ」

「なら、一緒に出ませんか? 僕も今日は朝から講義だから」

「そっか、じゃ一緒に……」

 ……などとやりとりする俺たちを、今度は花絵がじーっと見ている。

「あ、花絵さん、おはようございます! 僕たちも行ってきます!」

 優くんが無邪気な笑顔を向けて挨拶する。

「……良かったわね、ちょうど時間が合って。私は今日休みだから、掃除でもしようかしら? いってらっしゃい」

 花絵はいつもの笑顔で手を振る。

 ……しかし、何かが明らかにわざとらしい。

 この空気、優くんは何も感じないのだろうか。それとも、承知の上で敢えて花絵に戦いを挑んでるのか……?


 ——ビビるなよ、俺!!

 そう。俺がもうひとつ心に誓ったこと……それは、「ビビらない」ことであった。



 俺の会社と優くんの大学は、近所である。ラッシュの電車を降り、広くて緩い坂道を登る。

 7月の明るい陽射しが輝いている。風もさわやかだ。


「いい天気ですね。昼間は暑くなりそうかなー」

 白のシャツとジーンズの涼しげな服装で、優くんは空を仰ぐ。カーキ色のショルダーバッグも大学生らしい。


「……あのさ……」

 俺は、この爽やかさにも関わらずもごもごと口ごもった。

 何を言いたいのか、優くんも気づいたようだ。少し恥ずかしそうになって言う。

「あまり気にしないでください。……返事を聞かせてくれるって、約束してくれれば」

「うん、する。それは必ずする」

 慌てて答えた俺と、彼の眼が強く絡み合った。


「……あ、じゃ僕行きますね」

 優くんは一瞬どぎまぎした表情を笑顔に戻し、大学へ向かって走っていった。

 俺は、眩しい陽射しに遠ざかる彼の後ろ姿を見送った。



 会社へ着き、エレベーターを待っていると、後ろから広田さんがやってきた。

「あ、広田さん、おはようございます」

「おはよー。

 ……永瀬、オマエ今朝、なんかすごいキレイな男の子連れてたな?」

 広田さんは、高い身長から俺を見下ろすとにっと笑う。

 そして、ひそひそ声になって囁いた。

「——もしかして、この前言ってた二股のお相手か?」


 あまりにもスゴいコメントに、俺はぎょっとして広田さんを見た。

「……なあーんてな? ジョーダンだよ真に受けんなよー!」

 そういって広田さんはわははと笑うと、俺の背中をばんっとたたく。


 心臓がいくつあっても足りない……苦笑いをしながら、俺はそう呟いていた。


 それでも、4人がお互いに正々堂々と気持ちをぶつけ合う。

 そうできれば、こんなふうにいろいろあっても、少なくとも「四角関係」という入り乱れた異常事態は免れるはずだ……

 そんな明るい展望を抱いていた俺は、結局予想がはるかに甘かったことを後から思い知らされる。



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