【読み切り】最後の人魚姫

天川 七

最後の人魚姫

 海の中でどれだけ泣いても、誰にも気づかれない。涙は海に溶けて消えてしまうから。恋に破れたあの子のように。

 姉妹の中であの子と一番年が近かったのは私で、一番仲が良かったのも私だった。だから、あの子に海の上の素晴らしさを教えてしまったのも、きっと私だったのだろう。


 私達姉妹はとてもよく似ていた。お揃いの銀色の髪と金色の瞳は、姉様達には双子のようだと言われた。金色の瞳をキラキラさせるあの子が愛しくて、せがまれるままに何度だって海の上のことを話して聞かせた。そうすればあの子が喜んでくれた。それがただ嬉しくて、何度話しても苦にはならなかった。


 あの子が泡になってもうすぐ二年が過ぎる。人間に恋した妹を愚かだと涙した姉様達は、皆無事にお嫁に行った。もちろん相手は人魚だ。そして私は最後の人魚姫となり、今や妹のことは誰も口にしない。

 妹が命をかけて愛した人間の王子は、結婚した娘との間に子供を授かり、幸せに暮らしていると親しいイルカが教えてくれた。悲劇の末姫はこうして過去のものにされていくのだろう。けれど、私の心は妹を失ったあの日から、身動き出来ないでいる。


 波の静かな夜は、海に飛び込んだ妹が見せた、悲しい微笑みを思い出す。

ふと海の上に出たくなって私は部屋の窓から抜け出した。尾びれを動かし、上へ上へとのびっていく。あの子が最後に見た光景はどんなものだったのだろう。どんな思いを抱いて泡となったのだろう。気付けばいつも、そんなことばかりを考えている。


 空には満月が浮かび、月明かりが顔を出した私を照らす。岩場の上に身を乗り上げて、私は夜空を眺めた。海の底には届かない星の瞬きは、穏やかな波音とよく似て、悲しみに浸された私の心を少しばかり慰めてくれる。

 歌うことが好きなのに、誰かの前では恥ずかしくて歌えなかった私。そんな私に一緒に歌おうとあの子は言ってくれた。姉妹の中の誰よりも美しい声を持っていたあの子と、一緒に歌うことが私の喜びだった。

 今はたった一匹で、鎮魂の祈りを歌う。


 愛しい妹よ 貴方はどこで眠ってる

 星の導きの中 流れる雲の中

 愚かな妹よ 貴方はなにを思ってる

 穏やかな波の中 魚漂う海の中

 悲しき妹よ 貴方はいつを巡ってる

 嵐の夜の中 荒れ狂う風の中

  

 急にさざ波が尾びれを濡らした。振り返ると、海を悠然と進む大きな船が遠くに見えた。その船首前に人間が立っている。

あんなに遠いのだから、きっとこの姿は見えないはずだ。それなのに、見られている気がして、私は身を翻して海に飛び込んだ。


 ──人間なんて、大嫌い。





 人魚の王である父上は塞ぎ込む私の身を案じたのか、よき伴侶を探そうとしているらしい。そんな噂話を聞いたのは、城の中を泳いでいた時だった。戯れるように寄ってきたおしゃまな稚魚は、私が姫であることを知らずに話してくれたのだ。末姫を失った心労ですっかり気を弱くしている母上を、安心させようという意図もあるのだろう。


 結婚をすることに不満はなかった。どんな相手だろうと、父上が私の為に決めたのなら、それに従うつもりだった。ただ恋も知らない私が、相手を上手に愛することが出来るのだろうか。それだけが不安だった。


 気を紛らわせたくて、久しぶりにお城をこっそり抜け出すと、私は海の上を目指した。最後に行ったのはひと月くらい前だろうか。誰にも言わないでこっそり出掛けることは、駄目だとわかっていても楽しいものだった。


 ──それも今日を最後にしよう。


 両親を心配させるのは本意ではない。私は心に決めて、浮上していく。その時だった。身体に何かが絡まりつき、身動きが取れなくなる。それは人間が漁で使う網だった。慌てて身体を捩らせるものの、網はますます絡みついて行く。そして無理やり引き上げられる。

 硬い地面に引き上げれた私はせき込みながら、網の間から周りを見回した。


「手荒な真似をしちまったな。ようこそ、海のお譲さん」


 赤い髪に青い瞳を持つ男が、燃えるような眼差しで見おろしていた。


「人間!?」


 周りを見回せば屈強な男ばかりだ。物珍しそうに私を見ているが、目の前にいる男が頭なのか、その指示を待つように従順な様子だった。少しでも身を離そうと動く私に、男は片膝をついて網を取り外していく。そして、私の身体を軽々と抱き上げた。


「何をするの! は、放してっ」


「おっと、そんなに暴れんなよ。この一カ月ずっとあんたを探してたんだぜ? ようやく見つけたのに離すかよ」


 男は私を腕に抱えたままどこかに歩き出す。


「お頭、それどうするつもりなんですか?」


「そりゃあ、お貴族様に高く売りつけるんすよね!」


「いや、それなら見世物にしたら方がもうかる。金はいくらあっても困ることはないからな」


 不穏な言葉の数々はとても恐ろしいものだった。もう私は海に帰れないのだろうか。不安で悲しくて、涙が溢れた。震えながら泣いていると、男は慣れない仕草で涙を拭ってくる。


「泣くなよ。あんたを売ったりしない。誰がそんな勿体ないことをするか。あんたはもうこのオレ、ルグバーンのものだ。──海賊は手に入れた宝は二度と離さない」


 ぐっと顎を掴まれて、強制的に上を向かされる。男は精悍な顔立ちに笑みを乗せて、青い瞳を細めた。その双眼には焔のような情欲が宿っている。その熱に焼きつくされてしまいそうだった。





 男は私を丁重に扱った。船の自室に真っ白な浴槽を持ち込み、私をそこに入れて、いつも外から飽きもせずに眺めている。その目には変わらず強い情欲が浮かんでいたが、男がそういう意味で触れきたことはない。だからと言って、安心は出来なかった。いつその手が伸びるのだろうか。船に囚われた私には、浴槽の隅で出来るだけ身体を小さくさせて過ごすことだけが許されていた。


 今日もドアが開く。一瞬見えた空の暗さに、今が夜であることを知り、私は北斗七星を探そうとした。けれど私の視線に気づいたルグバーンが、すぐに扉を閉ざす。


「さぁ、食事の時間だぞ」


 食事の度に男は濡れるのも構わずに、手ずから食べさせてくる。口元に触れた海藻を、私は素直に口に含む。始めは拒否していたものの、口うつしに食べさせられそうになり、仕方なく受け入れた。


「もっと食べろ。ほら、お前のために今日は甘い果実を手に入れてきたぞ」


 男はまるで親鳥がヒナに餌をやるように甲斐甲斐しく私の世話をする。口元を汚せば指で拭いとり、海に帰してと泣けば、その唇で涙を吸い取り、まるで愛する者に対するように、男は人魚である私に献身的に尽くしていた。

 果物を口にした私はさらに差しだそうとする男に首を振った。ここ数日、空腹を感じなくなっていた。


「もういらないのか?」


「…………」


「駄目だ。もう少し食べろ。それとも口うつしがいいか?」


 そう言われてももう食べられそうにない。私は目を伏せて首を横に振る。


「どんどん食が細くなってるな。これ以上は見過ごせない。お前はずっとオレと生きるんだからな」


「本当にもう食べられないの。許して……」


「……なら、今日はこれだけ食べられたら許してやる」


 差し出されたプルーンを私はしぶしぶ口を開けて受け入れる。もともと人魚は肉を食べることが出来ない。海藻や貝が主食であり、陸では生きられない生き物なのだ。

 このまま死ぬのかもしれない。しかし、それでもいい気がした。自由もなくこの男に囚われたまま、飼われるように生きるのくらいならば。


 ──それに死ねば、あの子に逢える。


 大事で愛しかった妹に再び会えるのなら、死ぬことに恐ろしさはなかった。





 欠けた月が再び満ちることを繰り返し、日々は足早に過ぎていく。

 ルグバーンは私が抵抗しないことを知ると、時折船の外に出してくれるようになった。その方が食事が進むことに気付いたのだろう。

 私はそうして細く生きながらえていた。しかしそんなある日、船はどことも知れない港についた。


「お前の傍に居てやりたいが、数日留守にしなきゃならない。代わりに見張りを置いていくから、いい子にしてろよ」


「お頭、そろそろ」


 どうしても外せない用事だと、男は苦い顔をしていた。しかし時間が迫っているのか部下の呼びかけに、私の頬を優しく撫でて部屋を出て行った。

 入れ替わるように、黒い髪に灰色の瞳の男が入ってくる。男はこの船に捕まった時に一度だけ見たことがあった。昏い目が私を睨む。


「お前を捕まえてから、ルグバーンはおかしくなる一方だ」


 足音を立てずに浴槽に近づく男は、腰元の短刀に手をかける。


「人魚を一目見ようとした見習いのガキは、海に突き落とされて死んだ。副船長であるオレの話も聞かず、船員の声も届かない。お前は男を狂わせる魔物なのか? お前を殺せば、あいつは誇り高い船長に戻るのか?」


「そうだと言えば、殺してくれるの?」


 嬉しくて、笑みが浮かんだ。ようやくこの苦しみから解放される。そう思うと、男に感謝さえしたくなった。

 目を瞠った男に、両手を広げて目を伏せる。その腰にある短刀で間違えずに心臓を貫いてほしかった。一息でこの鼓動が止まるように。

 息を鋭く飲む音がして、深いため息が聞こえた。


「くそっ、これじゃあただの八当たりだな。お前を捕まえたのはルグバーンだ。全てはオレ達の船長が起こしたことだ。今のあいつは権力を手にした子供と同じ。強い者に屈さず、弱い者を虐げなかった男が、権力を笠に着て女を軟禁しているんだからな」


「…………そう、貴方も私を解放してはくれないのね」


 与えられた希望を男から理不尽に奪われて、私は瞼を開いて腕を下ろした。人間とはなんて残酷な生き物なのだろう。男に失望して、浴槽の中に頭まで使ると、私は尾びれを抱えた。目元が震えて、自分が泣いていることを知る。もう遠に尽きたと思った涙が海水に溶けていく。


「……悪かった。泣かないでくれ、償いは必ずしよう。オレの名はアース。この船の副船長をしている。きっと隙を見てお前を解放してやる。だから、死ぬことを望まずに、もう少しだけ我慢してくれないか」


 私は答えることを拒んで再び眼を閉じた。


 ──嘘つき。


 私をこんな目に合わせた人間を、信じるつもりなんて少しもなかった。





 アースと名乗った男は、ルグバーンに信頼されているのか、彼が居ない時には留守を任されることが多かった。その度にアースは、返事を返さない私に飽きもせず話しかけてきた。


「この船を降りたいと船乗り達が言い出した。ルグバーンの横暴さに付いていけなくなったんだと。オレはあいつと幼馴染で、ずっと一緒にやって来た。これからもやっていく仲間だと思っていた。誇り高いあいつが、いつか戻ると信じたかった。だが、オレは副船長だ。部下を守る義務がある。あいつの横暴をこのまま許すわけにはいかない」


 苦しそうに吐き出す言葉は、きっと仲間内には見せられない男の弱音だった。私は水槽から半身を出してそんな男をただ見つめる。慰めをかける立場にはなく、また、かけるべき言葉もなかった。

 アースは苦しそうに呻く。


「ルグバーンは裏切りを許さない男だ。この船に乗る時に死ぬまで共にあることを誓った仲間が離れていけば、生かして解放はしないだろう」


「……死んで解放されるなら、それでもいいのではないの? 生きながら飼い殺さる、私よりはよほど」


 平坦な声でそう答えれば、アースは悲壮な顔を向けてくる。この人間は私に何を求めているのだろう。自分さえ救えない、ちっぽけで孤独な人魚に。


「死ねば終わりなんだぞ。最後まで抗わなくてどうする! 海に帰りたいんだろ? だったら、どんなに今が辛くとも生きようと努力するんだ。必ずお前を海に帰してやるから」


「信じないわ。貴方は私を捕まえた人間の仲間だもの」


「ならば、どうすれば信じる?」


「そうね。貴方の大事なものを私に預けるのなら、信じてあげる。もし本当に私を海に帰してくれたら、その時はそれを返しましょう。ただし、人間と違って人魚の約束はけして破れない。約束を破れば、その人間は呪われることになるわ」


「どんな呪いだ?」


「生憎と、私は約束を破ったことも破られたこともないから、実際のことは知らないわ。ただ、相手がもっとも苦しむことが起こると聞いただけよ」


 こんな約束を男が本気でするとは思えなかった。私には損がなくても、男には損しかないのだから。誰が好き好んで自分に不利になる約束をするというのか。

 私は濡れた髪を梳きながら、皮肉に笑う。


「どうするの? 人魚と命をかけた約束をする?」


「あぁ、しよう。大事なものというのは、このお守りでも構わないか?」


 てっきり男は誤魔化してなかったことにするとばかり思っていた。しかしそれどころかすっかり乗り気な様子で、丸いものを腕から外すと差し出してくる。


「本気なの?」


「オレは約束を破らないからな。自分にかかる呪いなら、かまわないさ。それよりも確認してくれ」


 丸いものを押しつけてくる男に戸惑いながら、私は仕方なくそれを受け取った。それは指ほどの細さの輪っかで、銀色に輝いている。真ん中は空洞になっており、薄い板を円形にして繋げているようだった。固い表面には美しい細工がされ、鳥と城が描かれている。


「これはなに?」


「人魚の世界にはないか? 腕輪と呼ばれるものだ。装飾品の一種だが、オレのこれは国を出る時に、お袋が無事を願ってお守りとして持たせてくれたものだ。そこそこ値が張るんでな、いざという時はこれを売って生きろという意味もあったんだろう」


「……そう」


 男にも母と呼ぶ存在がいるのだ。そんな当たり前のことに今気付いて、私は言葉少なく返事を返した。母上と父上は突然いなくなった私をどう思っているのだろうか。婚姻を嫌って逃げたと思われているのだろうか。心配させてしまっているだろうか。

 ここに囚われてどれほど時間が過ぎたのか、もう定かではない。最初はあれだけ求めていた両親を、海を次第に求めなくなったのは、絶望に慣れてしまったからか。


「これで大丈夫よ。じゃあ、もっと傍に来て」


「あぁ。このくらいか?」


 男が浴槽の前にしゃがみこむ。私は怜悧な顔に指を這わせた。そして温かかな体温を引き寄せる。


「いいえ、もっとよ」


 そう言いながら目元に口づけを送る。すると、男の顔に一瞬青い斑紋が浮かんで、消えた。それが契約の証だ。


「お、おい。今のキスが約束なのか?」


「ええ。もう消えたけれど、貴方の顔にちゃんと斑紋が出たわ。これであなたは約束を守らなければいけない。後は好きにすればいいわ」

 

 私が背を向けた時、外が騒がしくなった。ルグバーンが帰ってきたのだろう。


「あいつが来る前にオレは行く。計画を立てるから待っていてくれ」

 

 ドアが閉まる音を聞きながら、私は腕輪の美しい絵を見ていた。男の足音が近づいてくるまで。



 アースと約束を交わした翌日、日の暮れから波音に嫌な気配が漂い始めた。

それは数時間で本格的な嵐を呼んだ。強い風は帆を破こうとするように吹きずさみ、波音は競うように大きくなっていく。


 降板に打ち付ける波しぶきの音と、船員の怒鳴り合う声がドア越しに聞こえる。船内は大揺れで、私の入った浴槽も、テーブルやイスと一緒に床を右に左に滑り出す。まるで前に海の中で渦に巻き込まれた時のようだ。私はぐったりと浴槽の縁にしがみついていた。

 ドアが開いて誰かが近づいてくる。私は気分の悪さに顔を上げなかった。


「……大丈夫か?」


 てっきりルグバーンだと思っていたが、違ったようだ。重い頭を上げて、私はアースに歪んだ顔を向ける。


「見てのとおりよ。せめて浴槽を固定してほしいわね」


 何度も波を被ったのだろう。アースは全身びしょぬれだった。入口から距離があっても潮の香りが届いた。


「表はさぞ大変でしょうね。そんな大変な時に、貴方は何をしに来たの?」


「人魚なら、嵐の海も乗り越えられるか?」


 アースは濡れて垂れかかる髪をうっとうしそうに搔きあげながら、浴槽に近づいてる。その表情には危機迫るものがあった。


「え、えぇ、出来るけど……あなた、まさか…………」


「今この時を逃せば、次があるかわからない」


「私を本気で逃がすつもりなの? そんなことをすれば、あの男に殺されるわよ」


「大丈夫だ。この部屋に穴を開けて誤魔化す。ルズバーンには船が損傷して、そこから逃げたと言うさ。静かにしてろよ。布を被せてお前を隠す。苦しいかもしれないが、少しの辛抱だ」  


 アースは部屋の中からチェストから布を取り出して、私をすっぽりと覆うと、軽々と抱き上げる。男の腕は安定感があり、歩き出しても不安はなかった。私は言われたように、じっと動かないように心がける。

 

 男が廊下を出て、階段を上って行く。男が歩くたびに音が近づいてくる。再び扉が開かれると、波の音が鮮明になった。外に出たのだ。布越しに海の気配を近く感じ取る。


「時間がない。乱暴だが、ここから投げるぞ」


「……ありがとう。これを返さなきゃね」


 私はずっと後ろ髪の中に隠していたお守りをアースに差し出す。


「詫び代わりだ。お前にやる! もう捕まるなよ」


 雨と波しぶきを被っているアースが、笑いかけてくる。初めて見た笑みに、胸の奥で何かが生まれる。何を言いたいのかもわからずに、口を開きかけた時、アースの背後で恐ろしい形相をしたルグバーンが近づいていることに気付く。──その手には銃が。


「危ない!」


 私はとっさにアースの胸を押していた。銃撃音が響く。その弾みで、私達は床板に倒れ込んだ。


「アース、貴様! オレの女と何をしていた!?」


「ルグバーン、どうしてここに……」


「お前の姿がないから、嫌な予感がして部屋を見に行ったんだよ。中を確認すれば、そこにあるはずの宝がなかった。アース、貴様、オレのものを海に逃がそうとしたな? 副船長と言えど、裏切りは重罪。死ぬがいい!」


「お願い、止めて! 彼は貴方の仲間でしょう!?」


「何故止める? オレには心を開かなかったのに、こいつには心を預けたのか?」


 私は両手を使って床を這い、何とか目を血走らせた男を止めようとした。しかし、その言葉が逆効果だった。

 恐ろしい形相で私を睨む男に、体に震えが走る。


「お前もオレを裏切ったのか!」


「止せ! こいつはお前のものなんかじゃない。もう自由にしてやれ!」


「黙れぇ!」


 ルグナークの銃が、私に向けられる。逃げ場はない。恐ろしさに目を閉じた時、私に覆いかぶさる温もりがあった。


 再び銃撃音が鳴り響く。アースの胸元を銃弾が貫通して血しぶきが弾けた。私を守る腕がビクリと震えて、苦しそうな息使いが耳元でする。

 アースに庇われた。その事実に心が動揺で震えた。


「そんな、アース! お願いよ、しっかりして!」


「ぐ、う……っ。せめて、お前だけは……」


 最後の力を振り絞るようにアースは立ち上がると、足元に血痕を落としながら、私を抱き上げる。


「もういい! もういいわ! 私、あの男の物になるわ。だからお願いよ。早く傷の手当てをして!」


 血の気の失せた顔をアースが寄せてくる。唇に一瞬だけ冷えたものが触れた。


「……最後だから、許してくれ。さよならだ、愛しい人魚姫」


「させるかぁ!」


 その背中に再びルグナークが銃を向ける。その瞬間、空から海面に向かって大きな落雷が起ちた。閃光に驚き、男の動きが止まる。アースはその隙に私を海に投げ入れた。


「アース! いやぁぁぁぁ!!」


 必死に伸ばした手は彼に届かないまま、私は荒波に飲み込まれた。





 どれだけ気絶していたのだろうか、海の底で目を覚ました。アースに助けられたことを思い出して、慌てて上を見上げる。海面には歪んだ太陽が顔を出していた。嵐は去っている。私は海面に浮上して周囲を見回した。そこには船の残骸が浮かんでいた。あの嵐で難破したのだろう。浮かぶ死体の中に、血に濡れた背中を見つけて必死に近づく。


 抱きよせた身体は冷え切り、必死に温めても温もりが蘇ることはない。目を閉じた死に顔に、私の涙が一つ、二つと落ちていく。

 どうして、失った後に気付いてしまったのだろう。


「私も貴方のことを────……」


 妹と同じ過ちを犯してしまったことに。





 ミランス海峡には時折、人魚が現れて、悲しい歌声で船人を海底に誘うと言う。

 もし人魚の歌を聞いたなら、海に腕輪を一つ投げてやるといい。

 不思議なことにその時だけは人魚の歌声が止むそうだ。

 人魚に誘われて海に飛び降りた人間は、必ず同じ姿を見るらしい。

 海底で頭がい骨を胸に抱く、美しい人魚の姿を。


 この哀切を喰らうがいい 荒波呼んで風起こし

 この後悔を喰らうがいい 嵐を呼んで雨降らし

 この罪悪を喰らうがいい 雷呼んで海荒らし

 恋に心と身を焼かれ 海の果てで今日も待つ 

 あなたが還る その日まで──……


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