別れる理由

@kazuya

別れる理由 1

 気が付くとホテルの女子トイレで寝ていた。

 酔いが覚めてきた。頭痛がする。

どうやってここへ入ったのかまったく覚えていない。


相当酒を飲んだらしい。それにしても、ホテルの女子トイレへ入って寝込むとは、我ながらいい度胸だ。

思い出した。今夜、俺は真紀と別れたんだ。

正確に言えば振られたんだ。


別れは彼女の方から切り出した。

真紀と別れて新宿で飲み、酔いつぶれてこのホテルへ辿りついた。

女子トイレへ直行したらしい。


男が入ったら大騒ぎになる。それなのに、騒ぎにならなかったのはどうしてだ。

状況がまるで見えない。


 シティホテルの女子トイレには、数台の監視カメラが見張り、警備員も目を光らせ警備が厳重なはずだ。

それをかいくぐってよくぞ入れたもんだ。


驚嘆ものだ。

カメラも警備も俺は意識しなかったのだ。

知らないとは恐ろしいものだ。


 だが、しらふでまたやれと言われても、二度とやる気はない。

 入ってしまったものは仕方ない。

問題はどうやって出るかだ。


入る時すでに監視カメラでチェックされているはずだから、警備は確実にここをマークしている。

つまり、不審人物が本物の男なのか、男の恰好をした女なのか。


確認しない内は、ホテルの客なのだからむやみなことは出来ない。そんなことはよくあるのだろう。

ホテルは得体のしれない変わった人間が集まる場所だ。


恐いのはトイレの中の女性が騒ぎ出すことだ。

これをやられると問答無用アウトだ。

即、警備員が飛んで来る。


ラッシュ電車での痴漢騒ぎどころではない。

監視カメラと言う動かぬ証拠があるので、言い逃れは出来ない。

警察へ通報するかも知れない。


言っておくが、俺は女子トイレマニアではない。

入ったのは始めてだ。誓ってそうなのだ。

真紀と別れた直後、やはりショックで普通ではなかったのだ。


しかし、そういう時に人間の本性が出るから、信用できない。

俺は気が付いた。

そう言えば、真紀と別れる理由はなんだったんだっけ。


聞いてなかったぞ。

別れるのは真紀の方から言い出したことだが、真紀は間違いなく言ってなかった。


五年も付き合ってて、理由も分からず別れてそれでいいのか。

いいはずがない。

真紀と俺、どっちに原因があるにせよ、ハッキリさせるべきだ。


確認しよう。土曜日の夜と言うこともあって、トイレへ入って来る女がやたら多い。

この状況では自力で出るのは無理だ。


原因を聞くのを口実に助けてもらおう。

一石二鳥だ。

言っておくが、俺は真紀に未練がある。


別れたくない。

助けてもらったのを口実に、よりを戻したいのが本音だ。

いつも口のうまい真紀のペースに乗せられるが、今度はそうはいかない。


三時間しか立ってないし、自分の部屋へも帰っていないはずだ。俺は真紀との関係を、それなりに満足していた。

五年も付き合うと、マンネリになっても新しい彼女を作るのが面倒になる。


不倫なんかしたくない。

結婚してないんだから不倫じゃないが、心の負い目は同じだ。

 上着から携帯を出した。


シティホテルはトイレの中からでも携帯がかけられる。

真紀はすぐに出た。

「別れて三時間しか経ってないのに、元カノに電話して来るかな」


 真紀はかったるそうに言った。

気分は分かる。

だが、用件は忘れものとレスキューなんだ。付き合えよ。


「ちょっと会えないかな。緊急に助けがほしい。それに聞き忘れたこともあるし」

「聞き忘れたこと?なんだ、言ってごらん。答えたげる」


「俺たちなんで別れたんだっけ。理由聞いてなかった気がする」

「いったん別れをオーケーしといて、言いがかりつける気か」

 ほら出た。


彼女のケンカ早い癖が。

この癖は俺に対してだけなのか、誰にでもやるのか。

これが出ると、俺はいつも縮み上がる。


真紀の本性はヤンキーなんだ。

「すまん、もう一度言ってくれないかな。忘れちまった」

「忘れるような理由だよ。二度も言いたくない。助けて欲しいってのはなんだ。チンピラにでもからまれたか」


 質問をはぐらかされたが、俺を助ける気でいる。

気が変わらない内にやつてもらおう。

「いまホテルの女子トイレにいる。出れなくなった。出して欲しい」


 言ってみて我ながらアホだと思った。

 変な沈黙があった。

「人間てホント分からんもんだね。正樹ってそんな趣味あったんだ。トイレでなにしてた。言ってみな」


「なにもしてない。寝てた」

「んなわけないだろ。隣をのぞいたり、音を聞いたりして興奮してたんか」


「だから、そうじゃないって」

「助けてやるから、まじに白状しろ」

「俺はまじだ。ほんとヤバいんだ。これを会社が知れたらクビだ」


「自分で入ったんだから、自分で出んかい。人に頼むな」

「だから出れないんだって。ほんと参ってる。頼むよ」

「いくら出す」


 ほら、また来た。

五年つきあってて、俺はこれで相当やられてる。

「いくらならやってくれる」


「十万」

「バカ言え。弱身につけこむな」

「なら、警察に突き出されろ」


 電話を切る気配に俺は焦った。

「分かった分かった。十万だ。その代わり十分以内に出せ」

「了解」


 電話が切れた。

 十分で了解ってことは・・・真紀はこのホテルにいるってことか?彼女もここに来てるとは思わなかった。


ここに何の用があるんだ。男といるんか。

それは、それこそ早すぎるだろう。

 安心した嬉しさに油汗が出た。それより、別れた理由だ。


真紀がああ言ってるんだ。

頭が痛くなるほど考えた。

だめだ。思い出せない。


やはり聞いてないらしい。

彼女の方には理由があったんだ。

俺の方に心当たりがないのだから、必然的にそうなる。


 それを確認しないでオーケーしたのは俺のミスだ。

突然、思い出した。

そうだ、俺はたとえ最悪の理由でもオーケーするつもりだった。


たとえば真紀が人を殺して刑務所に入ることになったとか、実家が破産してソープに身を沈めなきゃならなくなったとか、両親が同時に認知症になってその世話をするために田舎へ帰るとか。


俺にはその辺が想像の限界だが、いずれにしても、彼女が望むなら―――別れてやろうと決めて会ったんだ。

 また眠くなってきた。真紀と連絡できて安心したせいだ。


床に座り生暖かい便器を抱いて眠るのは、実に気持ちいい。

快感だ。

 突如、大音響が鳴り響いた。


そのあまりの凄まじさに、俺は飛び上がった。

寝ぼけていて、一瞬ここがどこかすぐには分からなかった。

 断続的に鳴り響くかん高い金属音が、火災警報だと分かるのに時間がかかった。


トイレの中があわただしくなった。

悲鳴を挙げる声、入口へ向かって走る靴音、助けを呼ぶ泣き声・・・。ドアを少し開けて外を見た。


奥から女の客たちがロビー目指して走り出て来る。

 チャンスだ!

俺は即座にドアを開けて飛び出し、その女性たちの流れにまざった。


あれッ!と言う顔をする女性もいたが、今はそれどころじゃない。十人くらいの女性が怒涛のように入口へ走る。

俺はトイレを飛び出し、ロビーを横切って入口へ急いだ。


 途中で、この騒ぎが真紀のせいだと言うことに気がついた。

大胆不敵なやつだ。

俺の頼みだからって、全館に響く火災報知機を押すんてどうすんだ。


おかげで助かったけど。

 ロビーの人混みを探しても真紀の姿はなかった。

どうせ助けに来てくれるなら、ロビーで待っててくれると思ったんだが。


期待外れだった。

俺はロビーを横断して一気に玄関から外へ逃げた。

 これだけ人がいたら監視カメラで俺を確認するのは無理だ。


外へ出ると、念を入れて新宿駅へ向かって歩き出した。

外は暗かった。

しかし、トイレで寝てると言うのはどう見てもホームレスだ。


時と場合によっては止むを得ないけど、一晩中でなくてほんとよかった。

 ホテルの脇を歩きながらガラス張りの喫茶ルームへ目をやる。


今夜、真紀との話がこんなことじゃなかったら、今頃はここで二人でお茶を飲んでいたかも知れないのだ。

そんなことを考えたら、少し悲しくなってきた。


ホテルの中で鳴っていた火災警報器が止んだ。

 女子トイレから俺を脱出させる作戦としては、最高の作戦だ。

真紀、お前は顔に似合わずほんと凄いやつだ。褒めてやる。


さらに、みんなが大騒ぎしている最中に、本人は喫茶ルームで澄ましてコーヒーでも飲んでたら最高なんだけど。 

 目の前に真紀がいた。


なんと、ガラス張りの喫茶ルームでコーヒーを飲んでいた。

窓側のテーブルで一人だ。

俺は手を上げて合図した。


気が付かない。

外は暗いので見えないのだ。

両腕を振り上げ、飛び上がって過激なアクションをしても気付く気配がない。


通行人が、俺を避けて行くので止めた。

冷静にコーヒーを飲んでる真紀に気付かせよう。

 携帯を出して電話した。


突然の俺の電話に驚く真紀が見えた。

コーヒーカップを置いてスマホを取った。

 面白い!こっちから真紀が丸見えなのに、真紀から俺が見えない。


俺は歩道に仁王立ちになって、大胆不敵なポーズを取った。

「トイレ出れただろ。まだなんか用があるのか。十万円は明日の朝、私の口座に振り込んどけよ」


いくら助けたからって、そんな言い方はないだろ。

俺はムカついた。

こうなったら何が何でも、理由を聞く。蒸し返しだ。


「だから、別れる理由聞きたい」

「お前しつこいな。そんなんだから出世しないんだ。そっちで適当に考えろ」


「お前の口から聞きたい」

「もう別れちまったんだから、いいじゃないか。終わったこと」

「言わなきゃ、別れるのやめる。真紀はまだ俺の女だ」


「いったんオーケーしといて、汚いぞ」

「ああ汚い。言わなきゃもっと汚くなる」

 真紀は沈黙した。



そして静かに言った。

「なんでそんなに、理由にこだわるわけ」

「真紀が言わないからだ。言ってくれたら、即納得する」


「じゃ言うよ。新しい男が出来た」

 叩きつけるように真紀が言った。

 嘘だね。


新しい男が出来たなら、真紀は一人でコーヒーなんか飲んでない。

このホテルは、真紀に取っても俺に取っても特別なホテルなのだ。付き付き合い始めて最初に二人で泊まったのがこのホテルだった。


二人の誕生日、クリスマス、バレンタインディ・・・嬉しいこと悲しいことがあるたびに二人でここへ泊まった。

いつか来くる二人の結婚式もここで挙げる約束だった。


 だから今夜泥酔した俺が、無意識にここへ来たのが分かる。

その真紀が俺と別れたあと、新しい男が出来たと言う。

有り得ない。


現に目の前の真紀は一人だ。

俺は真紀と言う女をよく知ってる。

「なぜ無理して嘘つく。言っとくけど、本当のことを言わなきゃ、別れは取り消しだぞ」


「うそじゃない。いまも目の前にその男いる」

 俺は真紀の嘘を無視して言った。

「俺とお前は、まだ恋人同士だ。そいつ、消えろ!」


「迷惑!」

「本当のことを言え。言わなきゃストーカーになってつきまとう」

 真紀がグラスの水を飲んだ。


「わたしよりふさわしい女の子が、いっぱいいるだろ。なんでそんなに私にこだわるんだ」

「なんでそんなに理由を隠す。理由を隠すなら、隠す理由を言え」


「ああ、面倒くさい男だね。それを言ったら、別れてくれのか」

「速攻で別れる」

「じゃ言う。明日入院だ。癌の詳しい検査なんだけど、もう長くないって」


 頭にガツーンと来た。

最高にタチの悪い冗談だ。

「血液の癌。凄くたちが悪いらしい。あと二か月しかもたないって」


 そう来たか。それで俺が尻込みすると思ったら大間違いだ。

「病院はどこだ」


「癌センター。担当医師は今泉孝雄」

「いつからかかってる」

「先月から。信用しないなら、セカンドオピニオンにかかるって言って、カルテの写しと検査結果をもらってこようか」


 俺は言葉を失った。

最高にまずい。

これは本当だ。

真紀が癌!まさか、そんなことつてあるか。俺の想像外だった。


だって真紀はまだ二十七だぜ。

癌て基本的に老人がかかるものじゃないのかよ。

「言ったわ。これで別れてくれるわね。約束よ」


「で、真紀はどうしようって言うんだ。俺と別れてどうする」

「今までいつも正樹が一緒で、一人で考えたことなかったから、これから一人で考える」


「俺も考える」

「やめてよ、別れるのよ。もう私には関わらないで」

「別れるのは取り消しだ」

 

真紀が絶叫した。

「なんでよ!邪魔だから居なくなってって言ってんのが分かんないの。愛とか恋じゃないのよ!あなたの存在がうざいのよ。消えて!」


 レストランの客たち全員が、真紀を見たのが分かった。

 そして、今度は静かに言った。

「お願いだから消えてよ!」


 次は消え入るような小さな声だった。

「・・・一人で死にたいの」

「野良猫みたいにか。誰も知らない場所で一人で死にたいのか。本当にそれが望みなのか」


 真紀が泣いているのがわかった。

俺に見られているとも知らずに。

「悪い?一人切りで死にたいの。正樹のいないところで」


「嘘だね。新しい男が出来たというのも、一人切りで死にたいと言うのもみんな嘘だ。嘘でなけりゃ、どうしてお前はそこにいるんだ。このホテルは、俺とお前の思い出がいっぱい詰まっだ場所だ」


 真紀が嗚咽した。

電話から押し殺した号泣が漏れる。

「俺だってお前と別れて酔いつぶれたら、ここにいた。正体なくしても、ここにいたんだ」


 俺は携帯で話しながらホテルへ向かって歩きだした。

真紀には俺の姿が見えていない。

通りの俺のいた場所に向かって話している。


「分かったわ。全部分かった上で、改めて正樹にお願いする。私を一人にして欲しい」

 俺は出て来た脇玄関を入り、レストランへ向かった。


「これまで付き合って来てよしみでお願いするの。私から離れて」

 レストランの黒服の案内を無視して、真紀の席へ向かう。

「死にかけた野良猫だって、俺は一匹にはしない。迷惑だろうが最後まで抱いていてやる。俺の温もりで抱きしめてやる」


 真紀の背後に立った。声を殺して真紀が号泣していた。

「私を、最後まで抱きしめててくれるって言うの」

「あたりまえだ。同情や哀れみじゃない。お前が好きだからだ」


「なぜ夕方別れた時に、本当のこと言わなかったと思う」

「かっこつけたかったんだろ」

「もう助からないと言われた女が、恰好つけてどうすんの」


「じゃ、なぜだ」

「正樹が怖気をふるって、尻尾巻いて逃げる姿見たくなかったから。怖くてガタガタ震えあがるのは、私一人でたくさん」


「見くびられたもんだな。別れて安心したか」

「気持ちはありがたいけど・・・」

 ウェイトレスがメニューを持って来た。

俺は真紀の向かいに座って、同じコーヒーを頼んだ。


驚いた真紀の眼から、新しい涙があふれた。

俺も泣きたかった。

当然のように年下の真紀は俺より長生きし、いつまでも元気でいると思っていた。


 二十七才で癌だ死ぬなんて、そりゃねェだろ!理不尽過ぎる!でも、人生はもともと理不尽なものなんだ。

神や仏がいるとしたら、やつらは理不尽のかたまりだ。


信長の何十万もの仏教徒大虐殺を見ろ。

ヒトラーの何百万ものユダヤ人ホロコーストを見ろ。

神も仏もそれを無視しやがったんだ。


信用できるかよ!

だが、俺は最後までお前のそばを離れない。

 コーヒーを飲み終わったら、フロントへ行って部屋を取ろう。


もし空いていたら5207号室を。

これまで何十回も二人でここに泊まった。

泊まる時は、いつも5207号室。


その日塞がっていたら、予約しておいて空くのを待った。

嬉しいこと、辛いこと、悲しいこと、悔しいこと。

5207はそんなことのあった時、二人が泊まった部屋だ。


二人の思い出の部屋なんだ。

 真紀が理由を言ってくれて俺は嬉しかった。

癌がなんだ、死ぬのがなんだ!

これから真紀と俺の本当の人生が始まる。


俺は涙の真紀と見詰め合っていた。



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