その頃の僕は二十二、三歳で、大学で心理学を学んでいたんだよ。その時の友人の話なんだ。

 ある男がいてね——仮に名前をTとしておこうか——、彼は至極真面目な学生で、毎日定時——僕からすれば驚くほど早い時間なのだが——に家を出て、講義一つ休むでもなく、整然と日々をこなせる男だったんだ。また彼は正義感も強く、曲がったことが嫌いな男だった。それ故、折角の整った顔立ちも台無しにしてしまうほど、恋愛に対しては奥手でね。つまり『好きでもない相手とは付き合わない』、とこういう訳だね。女性からの告白など、数えるほどしかされたことのない僕にとっては羨ましい限りだったよ。あ、いや失敬、この場合僕の私情は関係なかったね。とにかくTは生真面目で外見も良く、大勢の女性に慕われていたが、恋愛に対してだけは奥手の初心な男だったんだ。

 でもね、そんなTにも実は想い人が居たんだ。それはTとはまるで接点の無い女性でね——まぁ、名前をAさんとしておこう——、一方的にTが想っているだけの関係だったんだが、そんな二人がどうして出会ったかというとね、Tが毎朝使う電車——毎日定時に家を出ていたからね——の中だったんだよ。もちろんそれまで恋愛というものを経験したことのない彼が、彼女に惹かれてしまうにはそれなりの理由があってね、その頃のTは丁度引越しをしたばかりで、周りには知り合いなどいない状態だったんだよ。そうした寂しさの中、同じことの繰り返しの毎日の隙に、何となく電車で見かける女性に惹かれてしまったんだね。

 もちろん初めの頃は、T自身こんなに彼女に惹かれるとは思ってもいなかっただろう。でもね、人間とは不思議なもので一度意識してしまうともう駄目なんだ。Tも『あの女性、今日も同じ車両だな』と考えてしまった時から、彼女のことばかりを探してしまうようになった。

 ただそれでもTはずっと想っているだけだったんだよ。ただ想っているだけだったんだ。Tはどんなに彼女に惹かれても、想いを打ち明ける勇気も術も持たなかったんだね。さっきも言った通り、飽くまで彼女のことを一方的に想っていただけだったんだ。でもね、そんな関係が二ヶ月ほど続いた後、ふとしたことをきっかけに二人の間に変化が起きたんだ——。

 それは記録的な気温となった暑い夏の日でね。その日はTの仕事——彼は学業の傍ら、その学費の為に賃仕事をしていたんだ——が長引いてしまって、いつもより帰りが遅くなってしまった日なんだが、その結果彼はかなり遅い電車で帰ることになってしまったんだ。その時の彼は疲れ果ててしまっていてね、ほとんど乗客のいない電車に揺られながら、ほんの少し『うつらうつら』と舟を漕いでいたんだ。そうして何駅か過ぎた頃、ふと目を覚ますとね、少し離れた位置にAさんが座っている。帰りの電車でAさんと一緒になったのは初めてだったからね、Tは驚いてしまって、睡魔もどこへやら、思わずAさんの様子を伺ってしまったんだ。その時はAさんも疲れていたようで、やはり薄っすらと目を閉じて眠っていたんだが、ある駅名が放送されると慌てて起きて、降りる支度を始めたんだ。それが何と、Tがいつも使う駅と同じでね——彼は毎朝の様にAさんを見ていながら、同じ駅を利用していることは知らなかったんだ——、それでまた驚いてしまって、Aさんの後を追う様に慌てて彼も電車を降りたんだ。

 それから何とはなしに彼はAさんの後を追うかたちとなって、駅を出たんだよ。そうするとね、不思議なことにAさんがTの家の方——家と言っても、もちろん借家なのだが——へと歩いていくんだ。そうして彼女が入った建物は、何とTの家の隣のアパアトだったんだよ。Tは最愛の人がそんなに近くにいながら、そのことに全く気付いていなかったんだね。ただTが住んでいた辺りはかなりの数の住宅が密集していたから、それも仕方無かったのかもしれない。

 そうして新しい発見に喜びながらTが部屋に戻るとね、あることに気付いたんだ。Tの部屋の窓が、丁度Aさんの部屋の窓の方を向いていたんだよ。Tは嬉しくなってしまって、緊張しながらもそっと窓からAさんの部屋——Tは二階で、Aさんは一階に住んでいたんだが——を見てみようと思ったんだ。でも彼はもともと生真面目な男だから、そういう『こそこそ』としたことが嫌いだったんだよ。それに『もしも自分が誰かにこそこそと見られていたら……』なんて考えると、やはり怖い感じがしてね。だから決してすんなりと見たわけじゃない。何度か窓の前をうろうろと歩き、悩み、カアテンに手をかけては離し、離してはかけ、独りでうなった挙句、それでも欲望に負けて、結果として覗いてしまったんだよ。すると、彼女は帰ったばかりで着替えをしているところでね、彼女の影が彼女の部屋のカアテン越しに薄っすらと揺らめいていた。当然といえば当然だが、いくらTが正義漢だったとはいえ、この状況に一人の男として興奮しないわけがない。彼は良心の呵責を感じながらも、その光景に見入ってしまったんだ。そして同時に何かが狂い始めたんだよ。

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