第35話 赤くて黄色くて甘いもの
「待ってて、峰二」
そう言って、靴箱にいる綾乃を引き止めた。木で出来た靴箱は夕焼けの少し前、日の傾く昼下がりの太陽に照らされて、床や壁のタイルに乱反射している。綾乃の姿が霞む。そのせいで綾乃の表情が上手く読み取れない。
「うん、良いよ。待ってる」
踵を返して、私は新校舎の三階教室棟へ向かった。3-B組。先輩のいる教室に。カツカツカツ、廊下に人の姿は無く、私の急ぐ足音だけがそこらじゅうに響く。カツカツカツ、コーン、少しだけ小走りになる。一人で渡る校舎は長く、ぬるい夏風が首に触れる。私はイライラしていた。なんで?綾乃とこれから約束だ。先輩との約束は今、果たそうとしている。私は約束を結びすぎた。時間が迫ると忙しくなる。それでイラつく。でも和に服すということはこういうことが自然と増えるということ。約束、約束、約束、約束。縛られた身体を動かすにはことさらに労力が増える。ふぅ、面倒くさ。それでもやめられない。私は本心で約束を欲して、好奇心に抗えないのだから。
教室に着いた。けれど人がいない。恐らく移動だろう。私は教室のドアを開け、畑先輩のロッカーを探した。鞄から一枚の大学ノート片を取り出し、封筒に包み、先輩のロッカーに残しておく。誰からの干渉も受けていない、その教室内は静かで、何かいけないことをしているような気がした。衣擦れの音でさえ、私を犯罪者に仕立て上げるようだった。
□■
玄関口の直ぐ先にある、学校の顔と呼ぶにはささやかな、花壇の傍に綾乃は座って待っていた。手を降ると、小さく笑う。「じゃあ、行こうか」「うん、行こう」これから私たちは近所の山へ遠出するつもりだった。「何してたの?」と綾乃が問う。「ちょっと忘れ物をね。ところで何しよっか」「何が?山で?」実は私は少しだけワクワクしていた。変かな?ふふふ。だって、まだお昼過ぎだよ?みんなは勉強中だよ?エスケープだよ?あ、でもイケナイ、イケナイ、私のモットーは「平穏に平穏に、特別は特別に要らない」……でも、なんだか胸が騒がしい。視界がくるくる廻っている。私と違う私は確実に胸の奥で確かに喚いていた。
学校前の坂を下り、五分程歩いたところにバス停。バスに乗って川沿いへ。そのまま河川敷を左脇に抱えたまま、南に六駅下ってバスを降りる。降りたら、そのバス停から更に歩いて十分、加えて階段を二〇段ほど踏み上がれば、ようやく、山!手前にはブラックベリーの群叢が見えてきた。食べれるかな、いやたぶんまだ熟れてないかも、あ、でもいけるかな。うーん。顎に手を添え、悩む私を傍らに、綾乃が青黒いその実を手にとって食べている。おお、食べられるのか!じゃあ、私も。手を伸ばすと綾乃は言う。
「うぇ、にが、てか酸っぱい。花山鈴、まだ駄目」よう食べたな「よく試せるもんだね」「甘かったら得だしね、うぇ、駄目だ、硬いし」「ふ、峰二、口の周りが」「あ、汚れた。拭いてー」「まあ、あるけど」、鞄からポッケからハンカチを取り出して顔を拭いてやる。改めて近づいて、触れると、綾乃の頬の感触に夢中になる。「はぁなやまぁり~ん~、もーういいでしょぅ~」は!「ごめんごめん」
じゃあ、奥まで行ってみよーという綾乃の提案に私が抗う理由がなかった。二人で草むらを掻き分けながら歩いて進む。二人で手を合わせて、大げさに振る。それでも絡んだ二人の指は離れない。山を登っていると段々汗ばんできて、あつい。綾乃と私は互いの体温がその掌から、どちらのものかわからなくなってくる。ときたま顔を見合わせては微笑みながらるんるんと。そのうち楽しくなって、二人で唄をうたう。『よーほーよーほー、もう決めたー、都会暮らしーはーもういいのー、もうー飽きたのー都会ぐらしはーもうやめたー君に会えないならー意味ないしー、そこにいると私はー夜もねむーれないのー。私はいまー森にまで来たのー君のすがたもーもうーみたくないからー、ここはー陸の孤島ー私だけのー島ー君のいないーところよーよーほーよーほーもういいのー』
CMでいくら見ても共感できなかったこの歌も、ふとしたこの瞬間だけ、一瞬の間だけ二人の気持ちを掴んだ。こういうことは人生において偶にあることのだ。それは鍵だったり、鍵になるものだったり、鍵になるかもしれないただの戯言だったり、どちらにせよ、私の中に積もらせてきた言葉やイメージが今この瞬間だけ、なんだって判るような気がした。今まで積んできた荷を少しずつ解いていくような感覚だ。けれど夏目漱石が『こころ』で言っていた。
「然し君、恋とは罪悪ですよ?解っていますか」
いんや、解りません。漱石センセー、教えてください!今、私が綾乃に抱いているこの気持ちは罪悪ですかー?私は今、とってもとっても楽しいのに?この感情は罪で原罪で将来的に私を死へと追い詰める死神ですかー?私はそうは思えません。だってこんなにも嬉しいんですよ。幸せな気持ちになる以上の幸せってありますか?
気がつくと綾乃が叫んでいた。「ばっきゃろー!」誰に?
私もつい叫んでいた。「こんにゃろー!」誰だ?
そうしている間にも日は傾き、目線のその先、地平線に触れるほんの手前。それでも空は賑やかな赤をしていて、私が気づかずに流れていた何者にも代えがたい時間が実は出血していて空を無駄に、鮮やかに、賑やかな赤に染め上げていたのではないかと思った。楽しい。綾乃も楽しそうだ。綾乃が森の奥を指差して言う。「花山鈴!みえる!?黄色の花畑!ほら」山の傾斜の上の方、700m程奥に、大きく拓けた黄色の台地がみえた。「お、みえるみえる」「じゃあ、あそこまで」「行こう!」パン!
私は走った。手を振ると木々に肘を掠める。狭い。綾乃が横をすり抜けていく。速い!そんなに速かったんだ!驚いた。でも私は離されない。余力を出し切る。膝がグラグラする。足の裏が地面を踏みしめるたびに、靴に抑えられて小指がキュと潰される。綾乃のスカーフが目の前で揺れている。前髪が左右に流される。ずんずんと綾乃との距離を縮めていく。前に出した右手が綾乃の肩に触れそうになる。もう少し。綾乃が後ろを向いて、にやりと笑う。その途端、ズピュン!綾乃の髪留めが解け、シューっと二人の距離が離されていく。タ、タ。まだ届く。タ、タ、タ。なにくそ。タ、タ、タ、タ。待って綾乃。タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ、ピュー。ちょ、速いって。タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ、タ、ピュー……
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