三、
あれ程けたたましく鳴き散らしていた蝉たちの声は、今や完全に消え失せた。
ならば、外の世界は蝉の死骸に覆われているに違いない。そして、蟻の軍団が食えるところはすべて
朝、昼、晩、風の吹くたびにカサカサカサカサ。無数の乾いた蝉が、命の抜け落ちた
カサカサカサカサ。改めて考えると、この世ははじめからその様なものに覆い尽くされていたという気もしてくる。
最初から死んでいる。何が?
アハハ。
死んでいるのに喚いている。何が?
キャハハ。
死んでいるのに生きている。何が?
ヒヒヒ。
カサカサカサカサ。水気を失い一回り小さくなった錆色の円盤。その淵から垂れさがる、
盛夏を生き抜いても、時の流れには耐えられない。密集した無数の種子を抱きながら、ただ朽ちていくのみ。はじめからそう決められている。そして、あの種が次に繋がっていく。
繋がる? 何が?
親から子に、過去から未来に繋がっていく。また来年、良い花を咲かせるに違いないよ。
アハハハハ。ウヒヒヒヒ。
イカれてるよ。イカれてる? そう、イカれてるに違いないね。
可笑しいね。ああ、可笑し過ぎる。アハハハハ。
よくご覧よ。
あれは、まるで野良犬の死体に群がる
あんな気持ち悪いものが、何を繋げる?
ブツブツ、ウジャウジャ、ブハハハハ。
いや、もしかすると、この気色悪い世界は、あの蛆虫どもが繋げているのかも知れないよ。あの白いブニブニが。
あれだけ輝いていた花が今ではこの有様。蛆虫どもに生気を吸われたに違いないよ。
成程。あの蛆虫が地面に落ちて、
そうか、だからいつでも寝ているのか。ようやく合点がいった。
五月蝿く狂った世界で息をするため、口を開いて毒気を取り込み続けた身体は、鉛のようでありながら、真綿のようでもあった。得も言われぬ重苦しさと空虚感。
実感の伴わない生。皮膚を引き裂いたら、本当にその下に血や肉があるのだろうか?
皮膚の下には真綿が詰まっているに違いないよ。
真綿は汚れた水を吸い込んでいるに違いないよ。
汚れた水には大量の蛆虫が湧いているに違いないよ。
ならば一緒だね。一緒? そうだ、一緒だよ。
まるっきり一緒じゃないか。
腸を腐らせた野良犬の死体と一緒じゃないか。
ならば一緒だね。一緒? そうだ、一緒だよ。
まるっきり一緒じゃないか。
はじめから死んでいるのと一緒じゃないか。
少女は、何だか急に心が軽くなる。難しいことは分からないが、解脱というやつかも知れない。
いずれにせよ、未だかつて経験したことはないと思える、深い心の安寧を感じる。それはあまりに不可思議な感覚であり、それ故に不安定であり、長く続くものではないと分かる。微妙な均衡の上にほんのひと時だけ現れる蜃気楼のようなものだと思える。
同時に、堰き止めていた何かが決壊し、汚れた水が狂った世界に還っていく。
死ぬ。死んだ。死んだ?
死んでいる。死んでいく? 死んでいる?
ああ、死んだよ。そうだね、死んだね、わたし。
わたしも死んだ。わたしたち、死んだ。
死ぬとどうなる。どうもならない?
じゃあ、死ぬって何?
さめること。
冷める?
さめる。
醒める?
じゃあ、生きるって?
さめないこと。
そうか、ならば確かに死んだ。
さめた。もう薫らない。
誰も気付かないからね。
――待って、あと少し。あと少しだけ。
「夕ちゃん」
橙の窓辺を背負った白。ひどく不鮮明な像は、かろうじて少女の意識に投影される。
「夕ちゃん」
白い布地が僅かに揺れる。刹那、仄かに薫る香ばしい匂い。
「せ……ん、せ、い……」
少女の喉から痛々しく掠れた声が漏れる。
「せ……せ………い」
先生は、少女の病床に寄り添うようにしているが、自ら話しかけることはしない。少女が伝えんとすることを漏らさず受け取ることにだけ集中している。代わりに、少女の細く蒼白な掌を優しく握り、ただ見つめている。
「こ………ひ………い」
少女の視線が流れる。先生の白衣の向こう。
先生は、擦り切れてしまいそうな糸を丁寧に手繰るように、中空を横切る線を追いかける。その先には、器があった。
「さ……め………ちゃ……う……」
羽根のように軽くなった少女の手が、風に舞い上がるように浮く。太陽に吸い込まれるように、救いを求めるように、その手は器に延ばされるが、届かず静かに地に落ちる。
先生は器を取り、少女の口元に持っていく。
褐色の液が、底にこびりつくように溜まっている。熱は感じられない。
少女には、奈落の底を覗いているように思えた。黒く冷めきった世界。
怖さはない。すべてがそこにある、みんなそこにいる。
あらゆる音、あらゆる色、あらゆる熱。
吸い込まれ、混じり合い、濁り薫る。
すべて吸い込まれる。
だから、私もあそこに還っていくんだ。
少女は、錆びた鉄の臭気を感じた。
命をこそぎ落とし続けた
あまりに小さなものだったが、それは確かに最後のものだった。
そして残されたのは、熱を喪った抜け殻だった。
先生は、その身体にもはや命の残滓がないことを確認すると、時刻を見て医者として状況を記録した。
看護婦がやってくる。もう喚き散らすことのない少女を見て、静かに手を合わせる。
先生は、看護婦に器をさげるよう指示をする。
「夕ちゃんは、これをずっとコーヒーカップだと思っていたみたいですね」
看護婦が言う。
先生は、彼女の命の掃き溜めを、熱を喪った器を、そっと撫でつけた。
先生は立ちあがると、振り返ることなく病室を出ていった。
夕闇と静寂と白いシーツに支配される。
来た……。
うん、来たね。
ほら、来たよ。
しばらくして、先生は薫り立つ珈琲を淹れて持ってきた。
少女に一番近い棚の上に置いた。
器から白い筋が真っ直ぐ上昇していく。途切れることなく天井の闇に吸い込まれていく。
やがて、その珈琲も熱を喪う。
少女と同じ温度になる。
さめていく。
さめていく。
(おわり)
夢想喫茶にて - さめたコーヒーを寂しいと思う感覚 - 須々木正(Random Walk) @rw_suzusho
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