カエルさんに魔法のキスを

花崎あや

カエルさんに魔法のキスを


「ねぇねぇカエルさん」

 霧雨の放課後。東門のそばで植え込みの前に屈み、まりなは目の前の蛙にそう話しかけた。

 夏を目前に青々と色づく葉の上には、さらにあざやかな黄緑色をした雨蛙が一匹。まるく大きな目をくりくりさせて佇んでいる。

「カエルさん、いい雨ね。まりな、雨の日は好き。雨の音って素敵だよねぇ」

 こちらは正門ではないため、放課後とはいえ生徒の通りは少ない。傘もささずに短いスカートのまましゃがみ込み、蛙に話しかけるまりなの姿を見とがめるものもいなかった。

 まりなは一人で部活の買い出しに向かった友人の由良を手伝うためにここまで出てきたのだが、当初の目的をすっかり忘れて小さな雨蛙をまじまじと見つめ続ける。人にとっては髪や頬がわずかに湿るのを感じる程度のこまかい雨であったが、つやつやした蛙の肌には弾かれた水滴が大粒の玉となって浮かんでいた。水晶のようなそれを眺め、まりなは微笑んで呟く。

「きれいな宝石だね。いいなぁ」

「ありがとう。お嬢さんの髪飾りも素敵ですよ」

 すると蛙が言葉を返してきた。どこか笑みを含んだ、囁きかけるように穏やかな少女の声。同時に、頭上から舞うように落ちてきていた霧の雨が途切れる。まりなは自分のこめかみに手をやり、大ぶりの花のヘアピンに触れながら顔をほころばせて蛙に応えた。

「わあ、ありがとう! これね、まりなのお気に入りなの。いつもつけてるの」

「なるほど。よくお似合いですよ」

 蛙は相変わらず身じろぎもしないまま、大きな目玉を動かしている。まりなはしゃがみ込んだ膝の上に顎を乗せて首を傾げた。

「カエルさんの声って、由良ちゃんに似てるのね」

「由良ちゃんとは、お嬢さんのお友達ですか?」

 蛙はとぼけた様子でそう聞き返してくる。

「うん。まりなのお友達よ」

 まりなは頷きと共に答えた。みじかい言葉のひとつひとつを、大切に口にする。それから少しだけ間を置き、はっとした様子で顔を上げて言った。

「もしかして……カエルさん、由良ちゃんなの? 由良ちゃん、カエルにされちゃったの?」

 そしてそのまま、蛙の返答を待たずに身を乗り出した。

「だいじょうぶ。カエルになった王子様はキスで元に戻るんだよ。待っててね、由良ちゃ――」

 蛙のほうへ顔を近づけてそこまで言いかけたとき、肩が遠慮がちに後ろに引っ張られた。

「……本当にするつもりですか?」

「あ、由良ちゃん!」

 振り向いたまりなの見上げる先には、少しだけ困ったような微笑を浮かべる由良が立っていた。片手に買い物袋を提げ、もう片方の手に持った傘をまりなの頭上へ傾けている。

「由良ちゃんだぁ」

 まりなは立ち上がるなり由良にじゃれついた。ほんのりと湿ったまりなの髪が由良の頬をくすぐる。

「こんなところでどうしたんですか?」

 小柄な由良は、まりなの頭に傘の骨があたらないように気をやりつつ問いかける。まりなは由良の肩に腕を回したままぴたりと動きを止め、きょとんとした表情を浮かべた。

「えーっとぉ……」

 なんでだっけ、と宙を見上げて間延びした声で呟き、すぐに顔をぱっと輝かせた。

「そうだ、まりなね、由良ちゃんのお買い物のお手伝いに来たの」

 言うが早いか、由良の手から買い物袋を取る。そして傘の外へ出ると、まりなは霧雨のなかでくるりと身を翻して微笑んだ。

「そうでしたか、ありがとう。……でもいいですよ、重いでしょう」

「いいの! 由良ちゃんは傘さしててほしいなぁ」

 由良の遠慮をさらりとかわし、まりなは再び傘の中へ戻ってくる。そしてにっこりと笑ってから、

「あっ」

 小さく声をあげ、頭ひとつぶん背の低い由良を見下ろした。

「どうしました?」

 首を傾げる由良のすぐ目の前で、まりなの髪が揺れた。甘いピンクブラウンに染められ、肩の上でふんわり内側に巻いてある毛先に、霧のような雨の粒がいくつも光っているのが間近で見える。ふたりだけの傘の下、まりなの指が由良の前髪をそっとかき上げた。

「ちゅーするの、忘れてた」

 その言葉が耳に届くと同時に、由良の額にあたたかいものがふわっと触れていく。

 門の外を通る車の音、校庭から響く運動部の掛け声。すべてが一瞬、途絶えた。まりなの手に提げられたビニールの買い物袋だけが控えめに鳴る。まばたきの間に、まりなの顔はもう由良から離れていた。

「よかったね、由良ちゃん!」

 あっけない魔法のキスだった。ぽかんとして額に手をやる由良を前に、まりなは無邪気に笑う。そんないつも通りの彼女の笑顔につられ、やがて由良は軽いため息とともに微笑んだ。

「私は最初から人間ですよ」

「そっかぁ、そうだった。ね、カエルさん」

 言いながらまりなは植込みのほうを振り向く。続いて由良も。しかし、そこにはもう蛙はいなかった。低木の緑の葉が静かに、ひとしずく雨粒を零すだけ。

「んー……やっぱり由良ちゃん、カエルさんだったんじゃなーい?」

「どうでしょうかねぇ」

 まりなと由良は顔を見合わせ、一呼吸おいてから揃って笑い声をあげた。ひとつの傘に収まり、どちらからともなく歩き出す。

 どこか遠くからかすかに、蛙の鳴き声が聞こえた気がした。

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