さよならの前に一度──。

@clsnow

第1話 来訪

Hello, CQ.──



 未だかつて誰も経験したことのない出来事は、僅か9文字のメールから始まった。

 暦の季節では秋にもなろうかと言った頃だった。まだまだ暑い日は続き、日中は涼を求め、気温が下がるのを首を長くして待っている最中に、それは来た。


Hello, CQ.


 軽快な音楽が鳴り、すぐに傍らの携帯を手にしたことを覚えている。

 液晶画面に表示されていたのは、「Hello,CQ」という意図のわからない文字列だけだった。

 いったい、誰の悪戯メールだろうか。僕は嘆息したのを覚えている。すぐ目の前には大学受験を控え、同世代の殆どは、机を友としている中、だれが心の安定を崩したのだろう、と。

 だが、僕も煮詰まった頭が休憩を欲していたことは否めない。

 いつも通りなら相手にさえしなかった一文に、僕は返信することに決めた。


Hello, I'm Naoki. きみはだれ?


 内容は、相手のやり方に合わせた。

 それは相手の悪戯に乗ってあげようという思いが強かった。

 送信ボタンを押した後、普段であればすぐに送られるそれは、十数秒の時間を掛けた。振り返れば、この時点で少しおかしかったのだ。しかし僕はその時間の長さを特に気にせず、次はどんな風に返ってくるのだろうと少しばかり笑うだけだった。

 けれども、この時、僕の予想に反してメールはすぐに返ってこなかった。

 だいぶ後から分かったことだったが、『この時期』はまだ通信が不安定で、相手にメールが届くまで数日の時を要したのだった。もっとも、その時の僕はそれを知らない。メール自体もメールアドレスを変えた誰かの些細な悪戯だと思っていたぐらいだ。

 送ったメールが十分経っても返ってこないことを確認し、僕は椅子の背もたれにもたれ掛かり、大きく伸びをする。続きがなかったことに、僕の休憩は大きく削がれたような気がした。

 ふと部屋の窓から外を見遣れば、そろそろ空が黒からオレンジに変わり始めていた。時計に目を走らせると、時間は5時40分。夜更かしというよりは、夜に寝るタイミングを逃したぐらいの時間だった。

 学校が自主登校になってから、どうにもルーズになっていけない。

 早朝を自覚すると、ぼんやりとした疲労感は、徐々に眠気となってやってくる。

 机の上にある自主学習テキストの進捗を思い浮かべた。

 頭の中で本日こなしたページ数を数えた。

 問題は、見受けられない。

 ──今日のノルマは果たしたことだし。

 欠伸をかみ殺す。

 部屋の中にあるベッドとタオルケットが、どうしようもなく魅力的に見えた。集中力が切れ、課題も一旦区切りがついたと思ってしまえば、抗う必要もなかった。

 僕は、ふらりと立ち上がって、ベッドに倒れこむ。

「ふにゃ……」

 適当な柔らかさは極上で、働き続けていた僕の脳は、すぐさま一時停止した。



『改めて聴くと、やはり興味深いね』公園にある花壇の縁に腰掛けながら、彼女は亜麻色の髪を揺らし、くつくつと笑った。まだ早朝と呼べる時間帯ではあるものの、明るくなりつつある中での笑顔は、とても眩しかった。『やはり、最初の時点では気付いていなかったんだ』

「それは──当然だよ」

 一瞬見惚れたように間をあけて、僕は、彼女──シャルフィスの言葉にあわてて頷く。

「そんな可能性を浮かべられるほど、夢見てなかったんだ」

『夢。現実ではないこと。ふむ、あり得ない可能性ではないとはいえ、そんな風に形容されるとは、これもまた興味深い』

「だってそうでしょう? 辞書的な言葉としての『異星人』という概念はあったけれど、それが現実にやってくるなんて思いもしなかった。ファーストコンタクトなんて創作の世界の出来事だったんだよ」

『概念はある。けれど実態はない。ある意味、素晴らしいね』

「茶化さないでよ」僕はむくれたようにシャルフィスを睨める。もちろん、振りだった。それが分かってしまっているのか、それとも、そういったことには疎いのか。シャルフィスの表情は、一切曇らなかった。「シャルフィス達みたいに発達はしてないんだ。メールの発信先が、実は地球の外だ、なんて誰も想像はしなかった」

『わたし達にとっては当たり前のことでも、地球人にとっては初めてだった』

「そう。友人の誰かが息抜きに、あんなメールを送ってきたんだって考えるのが自然だった」

 言いつつ、スマートフォンを操作し、最初のメールを呼び出した。


Hello,CQ。


 簡素な一文。

 まさか、これが異星人と交流する切符のひとつになるだなんて、いったい誰が考えただろう。

 このメールに返信したことを僕は今でも褒めたい気分になる。

 苦渋に近かった受験勉強にさえ、感謝を捧げたいぐらいだ。


『それが、わたしと電文を交わしたツールなんだね?』

 興味津々といった風にシャルフィスは僕の手元を覗き込む。

「うん。日本におけるこれらのツールの普及率は100%を超えているぐらいだからね。もはや、みんなが持っているものと思ってもらって構わないよ」

『物理的にあり、長方形。筐体は白。──手にとっても?』

「いいよ。ほら」

 僕はスマートフォンを放り投げる。

『わっ』

 彼女は髪を少しだけ逆立てながら、危なげにキャッチする。

 しっかりと受け止められたことを確認すると、彼女の黒と灰色が混じった瞳から、微かな安堵が見えた。

「別にこのぐらいの高さから落としたって、壊れはしないよ?」

 悪戯が成功したかのように僕は笑う。

 本当のところを言えば、それは少しだけ嘘が混じっていた。昨今、スマートフォンの耐久性は向上したとはいえ、前面の液晶パネルから落としてしまえば割れてしまうことはある。そうした事故は、身の回りでも何件か知っている。ただ、それを知っていても、彼女を困らせてみたいと思った一心での行動だった。

 見目麗しい彼女は、上目遣いに僕を睨める。

 ──背は僕よりも少し低いぐらいか。

 どうしてここまで迫力がなく、そして、可愛く見えるのだろう。

 僕は口元がさらに緩んだ。

「驚いた?」

『物の強度なんて、知らないよ。もし壊れたとしても、わたしはどうにも出来ないよ』

「大丈夫だよ」

 バックアップも取ってある。痛むとしたら懐(ふところ)ぐらいだ。もっとも、いま体験しているものに比べれば、自分の痛む懐程度、なんてことはないだろう。

 世界で初めての、異星人とのファーストコンタクト。

 全財産の半分を消費してでもと考える人は少なくないはずだ。

 事実、その権利は高く売れると宣伝された。一億、二億なんて話ではない。一般的な会社員の生涯年収を軽く超えられるだけの対価が提示されていたことを覚えている。もっとも、それに応じたという話はついぞ聴かなかったが。

 シャルフィスたちは、コンタクトを取る人たちの為人までを見ていたのかもしれない。

 数百ぐらいはいたであろうコンタクト権利者の誰もが、自分でその権利を行使することを選んだのだから。

「中も見てみる?」

『良いの?』

 うん、と僕はスマートフォンのホームボタンを操作する。

 お気に入りの風景の上に、幾つかのアイコンが並んだホーム画面が呼び出された。ディスプレイの上部には12月25日と大きく表示され、日付の下に、『シャルフィス来訪』の文字があった。

 彼女とのコンタクトが決まった後、わざわざ壁紙に加工したものだ。

 シャルフィスは少しだけ目を開き、微笑んだ。

『気にしてくれたんだ』

「当然」むしろ、二度と無いぐらいの体験を気にしない方がどうかしている。「日本語、読めるんだね」

『結構頑張ったんだ』

 得意げに胸を張った。

 さりげなく主張する双丘に、異星人であっても姿形は似るものなのだろうかと頭の隅で考えた。

 と、彼女は息を吐き。

『──と、言えたら格好が付くんだけれどね。実のところ、翻訳掛かっているよ』

「翻訳?」

 胸元の視線を外す。

『そう。ナオキ達がこの端末をツールとして使うように、わたし達もまたツールを持っている。こんな風に物理的に表示する物ではないけれど、ね。それを使って、あらゆるものをわたし達がわかるように翻訳するんだ。ええと、そうだね……視界に入るものすべて変換する、といえば良いのかな』

「文字があったとしても、自分たちに分かる言葉に置き換えられるってこと?」

『そうだね、似ている。もちろん、望めば現地の単語のまま見ることも出来る』

「技術レベルが大きく離れていると分かってはいたけど、改めて聞くとやっぱり違うね」

『そう?』

 シャルフィスは首を傾げた。

『わたし達にとっては、ナオキ達にある技術も驚きだよ』

「そっちの技術からしたら、不便そうにしか見えないと思うんだけど」

『そうだね。確かにそういう面もある。でも、こうした──』彼女は、スマートフォンの画面を指でなぞり、画面をスライドさせた。『面白い機構のものを使って、電文のやり取りをしていた。わたし達からすれば、信じられないぐらい』

「シャルフィス達はどうやってメールを送っていたの?」

『色々方法はあるけれど』

 シャルフィスは僕の目の前に立ち、腕を伸ばした。シャルフィスの腕は僕の肩を超え、僕の首の後ろで交差する。至近距離。わずか十数cmの隙間。胸が少しだけ触れている。ぎゅうぎゅう詰めのエレベータの中でだって、こんな風にパーソナルスペースを侵しはしないだろう。

 不意打ちの行動と状況に、僕の胸が一際鳴った。

 黒と灰色が混じった瞳が、ひたむきに僕を射る。

 ──いや。

 瞳が揺れている。面白がっていた。

「シャルフィス……」

 名前を呼ぶと、彼女は口角を少しあげた。

 そして。

 僕の耳元で聞き慣れたメロディが流れる。僕がスマートフォンに設定している着信音。メールが届いた時に聞こえてくる音。

 シャルフィスは僕から少しだけ距離を取ると、スマートフォンを僕に渡した。

 このタイミングのメールは嫌がらせだろうか。

 内心の小さな苛立ちを抑えながら、画面を見る。


 ──送信者:シャルフィス


 素っ気ないポップアップウィンドウには、ただそれだけが書いてあった。

 目を瞬かせて、シャルフィスに視線を戻した。

 そこには、少しだけ目を細め、頬に朱が差し、口元に笑みがあった。僅かな身長差からやってくる上目遣いも相俟って、それは、悪戯が成功した子供のような雰囲気があった。

『たとえば、いまのように』シャルフィスは得意気に続けた。『状態として言うなら、思うだけでという感じかな。送りたいと思えば、電文が送れる。ナオキ達のように画面上での操作もできるけれど、わたしはこんな風にしてやりとりしていたよ』

「それを言うために抱きついたの?」

 シャルフィスは笑みを深めた。

『びっくりしたでしょう?』

「心臓に悪いびっくり箱だ」

 僕は嘆息した。

 こうした悪戯が続けば、僕の理性は保たないかもしれないと内心で思う。異星人であるシャルフィス、だけどその姿は色合いこそ少し異なるものの、同じ日本に住む少女達と何ら変わらない。どことなく、童顔っぽい面立ちもあって、同年代のように錯覚できてしまう。何よりも、その容姿は自分の好みに悉く一致していた。

『心外だね。喜ぶと思ったんだけど』

「嬉しくないわけじゃない」

『難しいな』

 くつり、とシャルフィスは声をあげる。

「わかっててやってない?」

『そのとおり。実は、そうなんだ』

「酷い話だね……」

 僕は空を見上げる。

 明るくなり始めた空、その中に普段はない圧倒的な存在感を放つ、大きな球形があった。見える範囲での色は、赤と緑と紫で彩られている。夜に見ている月よりも、ずっと大きい。その大きさは、地球の約半分程度なのだと以前のメールで聞いた覚えがある。空の一角を占めたそいつこそが、シャルフィス達──彼女たちが住まう場所であり──地球人が初めて出逢った異星人達の本拠地だった。

 漂流惑星ロビンソン。

 星から星へ、宇宙の端から端へと旅し続ける船だ。

 僕の見ていた視線に気付いたのだろう。シャルフィスは目を細めた。

『気になるかい?』

「そうだね、気になる」

『出来ることならあの中を案内してあげたいところだけれど──うん、日本政府がそれを赦さないだろう』

「残念なことに、ね」

 元々保守的な生き物である僕らが、偉大なる異種交流を行えていることこそが驚きである。当初、コンタクトを寄越してきたのが異星人だと判明したとき、世論は割れた。交流を是とするか、否とするか。それは宇宙に関するプロジェクト──とりわけ、人間以外の生物を探すことに特化した人たちであっても、同じだった。交流を行うことで分かることも多いだろう。その分野は、大きく発展することが見込まれる。だが、コンタクトにはリスクがある。単純に異星人の目的も不明ならば、その生態や未知なる病原菌等、考えられることは多々あった。

 彼女たちは劇薬だったのだ。

 紆余曲折を経て、決まったことは日本という場所の中での異種交流だった。

 相手のテリトリーには踏み込まない。

 そして、彼女たちがこちらに来る前には一定の検査とルールを定める。

 どちらも気休め程度の保険である。星から星へと旅することの出来る技術を持つ彼女たちに、未だ、限れられた人たちしか宇宙に上れない僕らでは、大きな隔たりがあった。

 一部にとって彼女たちは諦めとともに受け入れられたのだ。

「でも、あちらに行けたとしても18時間では足りなかったかな」

『そうだね。案内しようとすれば、それなりの時間は掛かる』

 シャルフィスが頷く。

 そう、18時間。朝の6時から夜の24時まで。それが、今回のコンタクトに赦された時間だった。彼女たちの船は星から星へと移動するものだから、たったそれだけしか一緒に居られないのだった。

『こちらでも知りたいことはたくさんある。ナオキ』

 シャルフィスが僕を呼ぶ。

『君はわたしとのコンタクトに応じてくれた。案内してくれるんだろう?』

「もちろん」

 僕は彼女に手を差し出して。

 彼女は、僕の手を握った。

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