貴方の隣

仙石勇人

第1話


 幸福、もしもそれがひとつのグラスに注がれていく液体のようなものなら、縁を超えてあふれてしまう。こぼれ落ちて、周囲の者にまで幸せを知らずに分け与えているような。そんな人生だった。私は別荘の一室でロッキンチェアに腰かけて緩やかにそれを揺らしている。庭の木の枝で身を寄せてさえずる小鳥の歌を聴きながら、脳裏に浮かぶ記憶のスライドショーを鑑賞している。


 夫とはいつ、どこで出会ったのだったか。あの頃はまだ若いが幼くもなかった。あのベンチで夕日を見ていた私の隣に座ったのがその人だ。初めてできた恋人は、優しく、頼もしかった。自分よりも他人の幸せを喜びと感じられる、素敵な人だった。私を幸せへと引っ張ってくれたのは、他でもない彼だ。青春の輝きに負けじと光を放ちながら私たちはともに過ごした。大人になっても互いへの愛が尽きることはなく、私たちは結ばれた。


 彼は数年会社勤めした後に独立し、やり手の実業家として成功した。自慢ではなくこれは事実として受け取ってほしいのだが、私たちが金銭的に苦労を経験したことはない。


 潤沢な財産が有った。反面、彼の仕事の規模が大きくなるにつれ、彼が家にいる時間も少なくなった。私の淋しさを感じ取ってくれた彼は、私が幼いころから夢見ていた「お城」を建ててくれた。西洋の城のような大それたものではないが、よくある一軒家のサイズには収まらなかった。逢えないときでも、せめて素敵な場所で過ごしてほしいという彼からのプレゼントだった。おまけに栗毛の大型犬をつがいで庭で飼わせてくれた。別荘の手入れが大変だったので、使用人として二十代半ばの青年を雇った。彼もこの別荘に勤めることができて幸せだったろう。私が用事で別荘を空ける時にも、彼はこの家で寝泊まりすることができた。そして、労使の関係を取っ払って、家族のように接しあえた。


 子供にも恵まれた。男の子と女の子が一人ずつ。愛情をかけ、感受性豊かな子供に育った。学習は彼らに好奇心と探究心を、スポーツは積極性と友を与えた。そして、学生生活を終えるころには、自らの見出した道を歩んでいった。


 記憶をたどりながら思ったのは、私たちは躓かなかったということだ。世間一般でいうところの「挫折」というものにぶつかることなく年月を歩いた。たくさんの幸せを感じながら。いま、望みをあえて言うとするならば、安らかにこの人生の幕を閉じたい。そう思いながら、スライドショーの鑑賞を続けていると、庭で飼い犬の鳴き声が聞こえてきた。


 


 はあ、あともう少しであいつらが別荘に乗り込んでくるだろう。フィクションの幸せを演じるために必要なのは、他でもなく、金だった。せっかく仕事が安定期に入っているのに、欲を出して挑んだ事業に失敗してからというもの、金融機関を自転車操業のように回る日々。家族には言い出せなかった。見栄を張らずに危機に一緒に立ち向かってもらえれば、軌道修正してこんな結末は迎えずに済んだのかもしれない。あの別荘とは似ても似つかない小汚いアパートの扉を蹴破って入ってきた借金取りたちは拷問のように俺を問い詰めた。そして、情けなくも、俺は家族の存在と別荘の場所を吐いてしまった。すぐそばに不幸が忍び寄っていることに気付くこともなく、きれいな虚像の現実しか見えなかった、聞こえなかった妻。借金と隣り合わせであったことも知らずに。




ここか、あいつの別荘は。なんだ、借金まみれのくせに生意気だな。入るぞ。きゃんきゃんうるせえ犬だな、しっしっ。開けるぞ、ありゃ、鍵かかってねえじゃねえか。不用心だな。金目の物、借金返済の足しになるようなもん探せ。よしよし。次はあの部屋だ。ん、誰かいるぞ、あのばあさん、あいつの奥さんか。おい、ちょっといいか、あんた。おい、おい、なんだ、いや、死んでるんだよ。とても借金で苦しんでたとは思えないような安らかな死に顔だよな。


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