夜行性仁類

双峰祥子

1 狸せんべい

「お母さん、今の見た?」

 鈴香はほとんど後ろ向きになるほど身体をよじり、遠ざかっていく道路に目をこらした。

「何だか動物みたいなのが、ぺったんこになってた」

 犬とも猫ともちょっと違うような、しかし明らかに何かの生き物だった。

「気持ち悪いこと言わないでよ」

 お母さんはシートに深くもたれ、前を向いたまま不機嫌な声でそれだけ答える。代わりにタクシーの運転手さんが「ありゃ狸だよ」と教えてくれた。

「この辺りには狸がけっこう住んでるんだ。どんくさいんで、車にひかれるんだな。ちょくちょく見かけるよ、狸せんべい」

 彼はそう言って笑った。鈴香はバックミラーごしにその顔をちらりと見て、やっぱりこの辺は田舎だなあ、と溜息をついた。


 お寺の名前は晋照寺、なんだかんだで二、三年に一度は来ているけれど、中学に入ってからはこれが初めてだ。山門の前でタクシーを降り、キャリーバッグを引きずって、お母さんと二人で緩やかな坂になっている石畳の参道を上った。真上には細長く青空が見えるけれど、それを除けば辺りには木がうっそうと繁り、一足先に日が沈んだみたいに薄暗い。

 お母さんは一言も喋らないし、鈴香も特に話すことを思いつかなかったので、二人はただ静かに歩いた。電車を三回も乗り換えて駅に着き、それから一時間に一本しかないバスに乗るはずだったのに、鈴香がトイレでもたもたしたせいで間に合わず、タクシーを使う事になったのを、お母さんはまだ怒っているみたいだった。

梢を渡っていく風の音と、耳慣れない鳥の声だけが響くこの場所は、夜になったらどれだけ寂しいだろう。そう考えると鈴香はまた小さな溜息をつき、それがお母さんに聞こえないように咳払いをしてごまかした。

 ようやく参道を登りきると、その先にまだ石段が続く。十段もないけれど、キャリーバッグを持ち上げるのは一苦労。そしてもう一つ小さな門と土塀があって、そこを抜けると明るい前庭がひらけ、正面にお寺の建物が見えた。

「やっと着いた」

 お母さんは自分に言い聞かせるように呟くと、すたすたと歩いて薄暗い玄関に入って行き、「こんにちは」と声をかけた。鈴香はぼんやりとキャリーバッグのそばに立ったままで周囲を見回す。

お寺の門から玄関までは、前庭を斜めに横切るように石畳が続き、脇の地面からは息継ぎをしようと顔を覗かせたように、それぞれに形の違う大きな石が三つ、ごつごつとこちらを睨んでいる。近くには松の木が一本だけ、これまたちょっとひねくれた感じで枝を広げていた。

 少しだけ遊びに来るならまだしも、ここに今日から住むだなんて。一気に「帰りたいモード」にスイッチが入って、鈴香はくぐってきた門に視線を向けた。すると、さっきまで誰もいなかったはずのその場所に、人が立っているのに気が付いた。

 たぶん大学生より少し上ぐらいだろうか、背の高い男の人で、紺色のジャージを着ていて、そのサイズが小さいので、裸足にサンダルの足元は脛が出ていて、腕は七分袖状態だった。でも何より一番目立つのは、オレンジ色に見えるちょっと長い髪だ。

一瞬ぎょっとしたけれど、彼が手にしている竹箒が目に入って、だいたいの察しがついた。ここへは時々「更生」という名目で、ちょっと変わった人が出入りすることがあるのだ。彼は小さな子供が珍しいものを観察するような顔つきで、じっとこちらを見ていた。

「鈴香、いらっしゃい!」

 お母さんの甲高い声に我に返り、鈴香はその人から目を逸らしてキャリーバッグを引きずっていった。


「もう鈴ちゃんも中二か、俺も年をとるわけだな」

 六年生の時も同じ事を言っていた南斗おじさんは、お母さんの一回り年上のお兄さんだ。若い頃は遊び人だったという話だけれど、鈴香はこの晋照寺で住職をしている作務衣姿のおじさんしか知らないので、どうも信じられなかった。

「まあ、色々と不便かもしれないけど、半年ぐらいなら鈴ちゃんも辛抱できるかしらね」

 そう言って笑うのは奥さんの民代おばさん。まさか旦那がいきなりお寺の住職になるなんて思ってもみなかった、と言ってはいるけれど、こちらも鈴香から見るとずっと昔からお寺の奥さんみたいな、面倒見のいい親切なおばさんだ。

「ご迷惑かけてすみません。できるだけ早く帰ってくるから」

 お母さんが二人に頭を下げるのはこれで何度目だろう。鈴香は複雑な気持ちで座敷の隅に坐り、お茶菓子の包み紙を爪で何度も畳んだ。

「そもそも槙夫をお前に紹介したのは俺だし、そういう意味では連帯責任だもんな。ま、そっちがちゃんとやってけるようになったら、しれっとした顔で戻ってくるんじゃないか」

 南斗おじさんはそう言って、大きな湯呑みからごくごくとお茶を飲んだ。


 槙夫、というのが鈴香のお父さんの名前だ。たいていの家では父親というのは決まった仕事についているけれど、鈴香の記憶する限り、お父さんにそういうのはなかった。それでも職種では一貫していて、知り合いや友達に頼まれて喫茶店とか、スナックとかバーとか、そういう店を手伝うことが多かった。

 娘の鈴香が言うのも変だけれど、お父さんには色々な人から好かれる不思議な魅力のようなものがある。いつも何だかイライラしているお母さんよりも、よっぽどよく笑うし、話していると何だか楽しくなる。だからお店もけっこう流行るらしくて、よければ本気でやらない?という展開になるのもしょっちゅう。なのに、その途端に仕事が嫌になってしまうのだった。まあ正確には、そこで固まるのが嫌になるらしい。

 まだ鈴香が生まれる前、お父さんは南斗おじさんと遊び友達で、アマチュアバンドのボーカルをしていた。ライブハウスに出ればいつもお客は満杯。追っかけのファンもいたし、プロデビューの話も具体的に進んでいた。けれど、メンバーの一人がやっぱり銀行に就職すると言い出して、なんだかんだでバンドはデビューを待たずに解散してしまったのだ。

 当時OLだったお母さんは、バンドが無名な頃からお父さんとつきあっていたらしい。でも解散の直後に鈴香がお腹にいると判って、ふたりは結婚し、お父さんが生活のために「とりあえず」働くことになった。その時、お父さんは二十三、お母さんは二十八だった。

 要するに、お父さんの中で音楽は「一時休止」しているだけで、本来の職業はやっぱりミュージシャンらしい。だからスナックや喫茶店で落ち着いてしまうのは、完全に「負け」らしかった。

「俺はここで納まってるわけにいかない」という言葉をお父さんが何気なく口にすると、お母さんも鈴香も、そろそろかな、と身構える。そして案の定、三日もしないうちに彼は仕事を放り出してどこかへ消えてしまうのだった。

 とはいえ、いつも大体短くて一週間、長くても三ヶ月ほどでひょっこり戻るのに、今回はどうも様子が違っていた。去年の秋、中学の文化祭が終わった頃に消えて、寒くなっても帰ってこず、気がついたら年がかわっていた。お母さんはそれまでずっと「お父さんの気が緩むから」と言って、正社員の仕事にはつかず、スーパーのレジ打ちやなんかのパートをしていたけれど、バレンタインが過ぎ、春休みに入ろうとした頃、突然こう宣言した。

「お母さんエステティシャンになるから」

 いきなりそう言われても、鈴香はどう答えていいか判らなかった。

「大学時代の友達が東京のサロンの幹部なんだけど、よければやってみないかって言ってくれたの。ただし研修期間が本部で三ヶ月、それからニューヨークの提携サロンでまた三ヶ月ほどあるんだけど」

「え、三ヶ月と三ヶ月って、六ヶ月、って半年?ニューヨークってアメリカの?」と、つい念を押したくなるほど、お母さんの計画は唐突だった。確かにプロのエステティシャンなら、スーパーのレジ打ちよりもずっとお金がもらえそうだけれど。

「だって普通のエステならあちこちあるし、差別化を考えたら最新の理論と技術を身につけなきゃ。鈴香にはその間、南斗おじさんのところで待っててほしいの。確かに学校のことは心配かもしれないけど、今ならまだ中二だし、受験には影響ないわよ。もっと先のことを考えたら今しかない。お父さんにはもう期待してられないわ」

 鈴香はお父さんに、何も特別な期待はしていなかった。とりあえず休み休みでも仕事をしてくれて、今の生活が続けばそれで文句はなかったけれど、もしかしたらそれが「期待」なんだろうか。

「鈴香も大学行きたいでしょ?そのためにお母さん頑張るから、協力してほしいの」

 そう言われると何だか自分にも責任があるような気がして、鈴香は晋照寺に住み、転校する事に同意するしかなかった。お母さんは研修が全部終わったら、その後は東京に住むつもりらしくて、それは今までいた街にもう戻らない事を意味していた。

「でも、私達がいない間にお父さんが戻ってきたらどうするの?」

「大丈夫よ、携帯の番号もメルアドもそのままだし、判らなくても南斗おじさんに連絡すればいいだけじゃない。まあ、帰るつもりなら、だけど」

 お母さん、もしかして離婚考えてる?

 鈴香はその質問をどうしても言えず、胸に呑み込んだままで荷造りをした。いくら二年に進級する節目でも、転校するのはすごく憂鬱だったし、今までよりちょっと小さな街の、更に山奥にあるお寺に住むのも気が滅入ったけれど、鈴香には選択の余地などなかった。唯一の希望は、お父さんがひょっこり帰ってきて全て元通りにしてくれる事だけれど、頭のどこかにいる冷静な自分が、今度はこれまでと違うみたいよ、と否定するのだった。


「私、そろそろ失礼するわ」

 一通りの話が終わると、お母さんはそう言って腕時計を見たけれど、「そうだ、湛石たんせきさんにもご挨拶しなきゃ」と、腰を浮かせた。しかし南斗おじさんは「いいよ、寝てるかもしれないから」と手を振って笑う。

 湛石さん、というのは南斗おじさんの前にこのお寺の住職をしていたお坊さんだ。もう九十歳ぐらいのお爺さんで、今はお寺の奥にある離れに住んでいる。南斗おじさんと民代おばさんが食事の世話やなんかをしているけれど、何となくボケちゃってるのを除けばまだまだ元気で、花を植えたり、お習字をしたり、毎日好きなようにしている。

「じゃあ鈴香、後できちんとご挨拶しなさいよ」

「わかった」鈴香はまだ爪でお菓子の包み紙を折ったり広げたりしながら、俯いたままで返事した。お母さんはそして、自分に言い聞かせるように「じゃあ」と声を出して立ち上がった。

「一晩ぐらい泊っていけばいいのに」と、民代おばさんは残念そうだったけれど、お母さんは「明日からもう研修なの。滑り込みで、今期のメンバーに無理して入れてもらったのよ」と説明した。南斗おじさんも立ち上がり「駅まで車で送るぞ、鈴ちゃんも一緒に行こうか」と声をかけてきた。

「いいわよそんな、バスだってけっこう早いもの」

お母さんはそう断ると「鈴香、ちゃんとしててね」とだけ言い、バッグを肩にかけた。

 お手伝いしろとか、朝は自分で起きろとか、電気をつけっぱなしにするなとか、そういう事を全てまとめて濃縮したのがお母さんの言う「ちゃんとする」だ。何か一つでもいい加減にすると「もう、ちゃんとしないんだから」と小言を食らうし、お父さんに至っては「ちゃんとできない人」というレッテルが貼られていた。

 バスの時間が迫ってきたので、とりあえずみんなで玄関まで出て、お母さんを見送った。キャリーバッグと鈴香という二つの大きな荷物を降ろして、お寺の門をくぐり抜けて行くその後姿は、何となくせいせいしたような気配を漂わせていた。

「しっかし、相変わらずそっけない女だよなあ」

 お母さんが去って静まり返った夕暮れの庭に、いきなり南斗おじさんの太い声が響いた。

「ああいう所がだな、槙夫から見ると可愛げなくて、下手すりゃおっかないんだよ」

「ちょっともう、何言ってるのよ」と民代おばさんが慌てて止めても、おじさんは全く気にしていない。

「鈴ちゃんもそう思うよな?年上だから仕方ない、なんて言うけど、五つどころか十や十五年上でも可愛い女ってのはいるもんだよ。槙夫はあんな奴だし、頼れる相手が欲しかったんだろうから、割り切ってそこをどーんと引き受けてやらなきゃな。中途半端に大黒柱に押し立てられても無理なんだよ、ああいう男は」

 おじさんは結局、お父さんとお母さんどちらの味方というわけでもないようだったけれど、言っている事は何となく当たっている気がした。鈴香があいまいに「そうかもね」と呟くと、民代おばさんはその背中をさするように叩いて、「鈴ちゃん、おじさんの冗談なんか真に受けちゃ駄目よ。さ、晩ご飯の用意するから、手伝ってくれる?」と言った。

 鈴香は黙って頷くと、おばさんの後について中に戻ろうとした。そこへまたおじさんが声をかけてきた。

「鈴ちゃんにも紹介しとかないと。ジンルイ、こっちこっち」

 振り向くと、いつの間にそこへ来たのか、さっき見かけたオレンジの髪をした男の人が、まだ竹箒を持ったままで立っていた。

「こちら鈴香ちゃんだ。今日からしばらくここに住んで中学に通うから、よろしくな」

 紹介されて鈴香はぺこりと頭を下げた。彼はおじさんより頭一つ高くて、身体の幅はその半分くらいしかない。着ている寸足らずのジャージはどうも誰かのお古らしくて、よれよれだった。

「鈴ちゃん、こいつの名前はジンルイ。仁義の仁に種類の類なんて立派な名前がついてるけど、実は狸なんだよ」

 南斗おじさんはそう言って腕を伸ばすと、そのオレンジの髪をくしゃくしゃとなで回した。彼はまるで犬みたいに全身をぶるっと震わせ、さいごに頭を軽く振ると、さっきと同じ、不思議がっている子供みたいな顔つきで鈴香をじっと見つめた。



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