~夏の雨~虹~

Hetero (へてろ)

- From summer rain to rainbow -

 突然の夕立に見舞われて、私は慌ててすぐ近くにあった屋根つきのバス停に飛び込んだ。

 雨はやむ気配は無く、空はみるみる暗くなってゆく。

 濡れた髪を絞って結い上げゴムで留め、制服のスカートについた水滴を手で払いのけていると、

 視界の端に革靴が見える。同じ高校の人の靴ではなかった。

 顔を上げると、よくこのバス停の前ですれ違う、男性だった。

 彼はバスを待つために来たのだろうか、傘を畳みつつバス停に入り、私のほうを見遣った。


 傘なかったんですか?


 そう問われ、

 私はすぐにびしょびしょの自分の姿が情けなかったり、

 男性にスカートをたくし上げて払ってたところを見られたかな?

 と思うと返答が出来ず口ごもる。

 しばらく間が空いてしまったが、なんとか


 突然降って来たから……


 とだけ答える。

 彼は何を思ったか畳んで雨露を払った傘を私に差し出した、


 はい、この傘よかったら使ってください。

 いつも私がバスで駅に向かう横を、歩いてらっしゃるから、

 家までは歩きなんでしょう?

 そんな恰好でここにいたら風邪引いちゃいますし。

 早く家に帰ったほうがいいですよ。


 彼は冷静を装っていたが、長い台詞の最後のほうはちょっと早口になっており、

 親切心から傘を貸すのだけではなく、どことなく。

 意識して傘を貸してくれるようだった。

 意識して、意識されたとするならば――

 私はすぐには傘を受け取ることができず、

 優しい彼の顔を思わずみつめてしまった。

 彼はふと笑って、


 はい


 と手に傘を手にとらせてくれた。

 手渡されるとき、少しだけ、彼の指と私の指が触れて、

 そのときの彼の指があたたかったことは今でも覚えている。

 彼は指が触れてしまったことに驚き、傘を握らせると自身の手を素早く解き、


 また会ったときに返してくれれば良いですから


 とさらにちょっとだけ早口になっていうと、

 鞄を頭にやって、バス停から飛び出していってしまった。

 私は慌てて、


 あ、ありがとうございますっ!


 と言ったのだが、雨音にかき消されて彼の耳に届いたかどうかは解らなかった。

 彼の傘をさしてバス停を後にしてから、数分、私の家まではまだ半分くらいの距離があるけれど、雨は止んでしまった。

 さっきまであれだけ降っていたのに……


 彼に申し訳ないことをしてしまったなぁ、と思い明るくなり始めた空にかかった傘を見上げて、それをすぼめてたたんだ時、雲の切れ目には夕日が差し込み、その夕日の反対側に、それはきれいな虹が架かっていた。

 ふと、彼もこの虹を見ているのだろうかと思った。

 胸の奥がほんわりとする不思議な気持ちに、自分が彼をどんな眼で見ていたかを知る。

 ヒグラシが夕立の終わりを告げるように一斉に鳴き始めていた。


 彼もまたその虹を見上げていた。

 まったくばかげたことをしてしまったかなと思ったが、空に架かる虹をみたらどうでもよくなっていた。

 ぬれた鞄をスーツの袖で少しだけ拭く。

 夏の空気が戻った雨上がりではちょっと気持ち悪い感じしかせずやはり手を止めて、みるみる消えていく空に架かる虹を見つめることにした。

 彼女もこの虹をみているだろうか。


 それから数日後、いつものバス停であのときの彼女が待っていてくれた。


 もしかして、あれから毎日来てくれていた?


 彼の問いに彼女はゆっくり頷いてから、

 少しだけ緊張した面持ちで、


 だっていつ会えるか解らないですから


 と応える。


 ごめん、いつもはこの時間なのにここんとこ数日間だけ残業だったんだ。


 そういうと、

 彼女はきれいに折り畳んだあのときの傘を両手で手渡し、


 謝らないでください、傘、ありがとうございました


 意識したのではないだろうが、彼女のその微笑みは彼に焦りを呼んだ。

 傘を受け取ると彼は、


 なんかごめんね。おせっかい焼きだったかも知れない


 とはにかむ。

 彼女は首を振り、


 あの――


 勇気をこめて呟いた。

 彼は次の言葉を待ってくれていた。

 

 あの、前からここで何度かすれ違ってましたよね



 *


 

 その夏の日から数年後の夏の日、

 彼女は彼の帰りを待つアパートで夕立に気づいて洗濯物を慌てて取り込んでいた。

 あちゃー、コレは結構降り続けるかな。

 そう思って空を睨む。

 けれども、ものの数分で雨は収まり夏の夕日が雲間から見える。

 彼女はなんとなく、今日は見えるという確信があって、

 スリッパを履いて玄関のドアをあけて、アパートの向こう側の空を見上げる、

 虹が架かった。

 あの時と同じ色。

 ちょうど彼の姿がアパートの下に見え、手を振る。

 彼は柵越しに空を見上げる彼女の視線の先に虹があるのを見て

 ちょっとだけ大きな声で、


 今日は見えたね!


 という。

 普段は大きな声を出す人ではないから彼女は苦笑しつつも、


 うん。


 と応じ、


 ね、一緒に見よう。


 という。

 カンカンカンと鉄製の外階段を彼は駆け上がり、

 彼女の隣にたって、改めて夕日と反対の空に架かる虹を見つめた。

 そして、

 

 あのときの虹もこんな感じだったかなぁ


 と呟く。


 え、あの時、あなたも見てたの?


 だいぶ前の記憶の話だ、

 いつのことを言っているかが解るのは夫婦だからとしか言いようが無いが、


 君と初めて喋った、傘を貸した日のことだよ。


 彼は大切な記憶を確認するように言う、

 私もなんとなしに解っていた。


 うん


 と頷くと、彼は柵にかけていた彼女の手の上に自分の手を置き、

 やさしく包んでこういった。


 来年も一緒に見えると良いね。


 また、雨上がりを告げるヒグラシの声が聞こえ始めた。

 彼女は柵にかけた手を持ち上げて、彼の手の指と組むようにしてもちかえ、

 彼の顔を見つめると少しだけ眼をこちらに向けていた。

 彼もゆっくりと彼女に顔を近づけ、ほっぺにやさしくちゅうをした。


 今の雰囲気は口じゃないの? 彼女は少しだけ残念そうに呟く。


 すぐに彼は、


 え、あ、あんまりかわいかったからつい。


 といって眼を逸らす。

 そういうと彼女は今まで見せたことの無いくらい明るい顔で笑った。


 ありがとう


 たまらず彼が彼女を抱きしめると

 彼女はちょっとだけびくりとしたがすぐに抱き返した。

 私たちは、夏の雨の日の度に思い出すのだろう。

 素敵な出会いを。彼女はそう思った。

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