夫の非公開ブログ -3-

★同日、夫の非公開ブログ★


 思いがけず、同日深夜二度目の更新。

 嫁はもう疲れたみたいで、うちにあったリラックス系のハーブティーを飲ませたら、倒れるみたいに寝ちまった。

 そりゃ、たった一日の間に色々ありすぎたもんなぁ。


 俺はと言うと到底寝る気になれなくて、灯りを全部つけたリビングでこれを書いてる。

 嫁にとって修羅場な一日であることは間違いなかったけど、それは俺にとってもそうだった。まさか、あんなもんを見ちまうとは。

 嫁が突然こうなった原因がますますわからなくなって、俺自身も混乱の極みにある。頭の中を整理する意味でも、今日あったことをできるだけ細かく書いておかないといけないだろう。


 嫁がおか……いや、調子悪くなった同日の昼くらいか。

 気づいたら俺、一番の悪友……もとい親友のSに連絡を入れてた。

 細かいことは覚えてないけど、起きてきた嫁に怒鳴られて、口きいてもらえなくなった挙げ句、寝室に籠城されちゃったんだよな。どうしようもなくて、誰かに話聞いて欲しくて連絡したんだと思う。


 携帯からじゃ通話料がかさむし、Sは幸い車で十分くらいの近所に住んでるから、ファミレスに来てもらうことにした。独身で身軽なSは、三十分くらいで来てくれると快諾してくれたんだ。

 俺は取り込んだまま放置してあった洗濯物の山から適当な服を着て、早めに待ち合わせ先に移動することにした。未だ寝室に篭ってる嫁には一声かけてきたから、大丈夫……だと思った。一応、子供じゃないんだし。


 で、ファミレスの席についてメニューを開いてからようやく、昨日の晩飯以降何も食ってなかったことに気がついたんだ。やっぱ、そんだけ動転してたんだよな。

 取り敢えず休日ランチのパスタセットを注文してから水を一気飲みして、一息つく。

 このファミレスは嫁ともよく来るところで、土曜日の昼飯時だから家族連れも多い。子供がはしゃぐ声が時々混ざる賑やかさの中で、ポツンしてる俺は惨めだった。


 でも落ち込んでも仕方ないし、俺は家から持ち出してきたタブレットを開いてググった。

 検索するキーワードはもちろん「記憶喪失」がメイン。あとは若年性痴呆症とか、記憶障害をともなうメンタル系の病気についても少々。

 ……しかし大体どれも記憶がすっぽ抜けたりするって症状の例はあれども、ある時点以降の記憶が一切なくなる、なんてのはどこにも書いてない。普通は自分の歳に違和感を感じたり、突然若い年齢なんだと思い込んだりすることはないみたいだし。

 となると、嫁のは記憶障害と言うよりも多重人格とか、人格障害が近いのか……


 調べれば調べるほど、頭が混乱してくる。

 土曜の昼下がり、和やかなざわつきに満ちたファミレスにいるってことも忘れて、俺は頭を抱えたくなった。いや、マジで頭に両手をやっちまったんだ。

 と同時に、ぽんと肩を叩かれた。


「よっ」


 軽い挨拶と一緒に俺の前に座ったのは、親友のSだった。

 こいつは、俺の恐らく深刻そうに見える様子には敢えて何も言わない。ジーンズにカジュアルな感じのシャツっつーラフな格好なのに、第一印象は結構な爽やか系イケメンって感じだ。軽く立てて整えただけの短髪も全然カッコつけた感じじゃなく、ごく自然に馴染んでいる。


 やっぱ、イケメンはどんな服でもイケメンなんだよな。一方の俺ときたら背だけはデカいしょぼくれたオッサンで、どう見ても引き立て役にしかならないだろう。

 ……何で、神様ってこう不公平なんだよ。

 全く脈絡がないことでムカついた俺は、微妙な返事しか返せなかった。


「お、おう……」

「取り敢えず、朝飯頼むから。話はその後でいいよな?」


 Sはこっちの返事も待たずにメニューをめくり出すと、とっとと注文を済ませた。

 俺と同じパスタメニュー、しかもコースだけどな。デザートにパフェまで頼んでるし、朝飯じゃなかったのかよ!と個人的には突っ込みを入れたくなる。

 まあ、ジム通いで体を鍛えてるSは、起き抜けでもそれぐらい食えるのかも知らんが。


 俺にはその食欲が羨ましくもあったけど、今日はのんびり雑談しに来たわけじゃない。重い話に付き合わせるんだから、こいつの飯代くらいは出すつもりでいた。

 俺は、ドリンクバーからホットコーヒーを煎れたSが戻ってくるのを待つ間に腹を決めておいた。


「悪いな、急に呼び出したりして」

「ん?いいよ。丁度暇だったしな」


 Sは砂糖とミルクをどっさり足したコーヒーに口をつけるが、こいつはいつもと変わらない調子だ。俺がげっそりしてるのにも気づかないくらい腹が減ってるのか、それとも三十年以上の付き合いがある友達には回す気なんかないのか。


 単に遊ぶだけの時と違って、どうも話が切り出しにくい。

 そう思っていたが、Sがちょうどいいタイミングで話を振ってきてくれた。


「それよりお前、嫁さん放っといていいのか?昨日、あんなにノロケてたくせに」

「いや……その嫁なんだけどさ、実は……」

「まさか、全部がお前の脳内でした、とかじゃないよな?」


 そう言や、Sにはツイッターで散々結婚記念日のことをつつかれてたのを忘れてた。

 そしてこの場でも俺をイジって遊ぼうとするコイツの性根は変わらない。

 これが逆だったら、どう見ても美人嫁持ちイケメンに嫉妬するキモブサ毒男です本当にどうも以下略、な状態だろう。


「んなわけあるか。もう結婚して十年だし、式の写真だってお前には見せただろ」

「ですよねー。海外挙式のアルバム、わざわざ見せびらかしに来たもんなぁ」


 呆れた俺の反応にも、Sに悪びれる様子は全くない。

 しかしSの言う通り、今朝の出来事が全部俺の妄想だったってんならどんなに良かったことか……ったく、人の気も知らずにいやがって。

 思わず俺が溜め息をついたところで、コーヒーカップから顔を上げたSが再度言ってくる。


「けど何だよ、俺に相談って。嫁のDVDは貸せないからな」


 ちなみにコイツの嫁とは、所謂ヲタが言う「画面から出てこない」二次元嫁のことだ。

 Sは独身だが高校以降リアルで女が途切れたことがなくて、且つ脳内に何人もの嫁を囲ってる。昔から頭が良くて人付き合いも上手いし、スポーツもサッカー部でレギュラーだったくらいにできる奴だ。


 ここまでのイケメンリア充ヲタは俺の知り合いの中でもこいつくらいだが、未だに結婚してないことと、一番長く続いてる友人関係が俺だけであることが最大の謎でもあった。


「いやまあ……その」

「何だよ?」


 いつもなら遠慮なくノロケてる俺がなかなか話を切り出さないことを、流石に疑問に思ったのだろう。Sが整った顔に怪訝そうな色を浮かべてくる。

 それを見るにつけ、ハイスペックイケメンなこいつが何で俺なんかと親友でいるのか、って疑問が強くなってくる。そりゃあお互い話も合うし、そもそもSがヲタになるきっかけを作ったのは頻繁に漫画を貸してた俺なんだし、気兼ねなく酒飲んで愚痴を言い合ってきた仲ではあるんだが。


 正直、今俺が置かれてる状況を伝えたりしたら、Sがドン引きして俺を切るんじゃないかって気がして怖い。そうなったら、もう俺は腹を割って話せる相手がいなくなることになるんだ。


 けど、だからこそ変にぼかして言うべきじゃないだろうとも思う。

 その結果でSが離れて行ったんだとしても、仕方ない。

 腹を括った俺は、Sの顔を正面から見て言った。


「なあ……俺たち腐れ縁で、お互いのことはよく知ってるよな?」

「な、何だよいきなり。アッー!な仲とかじゃねえだろ」

「当たり前だ!」


 また茶化されて、俺は思わず言い返した。

 Sと話してるとこんな感じで乗せられるから、真面目な話をするには一苦労だ。もっとも、俺が話し辛そうにしてるから盛り上げて場を和まそうとしてるのかも知れなかったが。


 しかしいくらガキの頃からの腐れ縁でも、ホモかと疑われるほどの仲じゃねえんだっつの……って、それは置いとくとして。

 深呼吸して頭をもう一度落ち着けてから荒くなっていた語調を元に戻し、自分のペースで続けることにした。


「いやさ、今俺が置かれてるこの状況がどうなのか、自分じゃ判断ができないんだよ。俺がおかしくなってるのか、そうじゃないのか……純粋な第三者的な視点から見て、判断して欲しいんだ」

「……どうかしたのか?」


 ここまで言って、やっとSは俺が深刻な話題を持ってきたことに気がついたらしい。表情こそあんまり変わらないが、やや身を乗り出してこっちの話を聞く体勢に入ってきた。


「今から話すことを聞いて、もし俺が精神的におかしくなったんだと思ったら、そこで今後の付き合いを考えてくれ。いっそ、縁を切ってくれても構わない。とにかく、全くの他人から見た意見が欲しいんだよ」


 いきなり縁切りだとか穏やかならぬキーワードを混ぜると、自然と俺の声も低くなる。


「お待たせしました」


 Sがもう少し顔を寄せてきたところで、場違いに明るいウェイトレスの声が割り込んだ。二人分のパスタランチの皿が見えない壁を築くように、次々とテーブルに置かれていく。

 俺たちは黙ってそれを見てたけど、前フリしといて話を中断するのはとてつもなく気まずい。


 なので、多少空気は損なわれはしたものの、俺は食事に手をつけながら今の状況を順序だてて話し始めた。必然的に時間がかかることになるが、食べながらだと話を頭の中で整理する余裕も出てくるから、却って良かったと思う。


 いつもであれば俺に突っ込みまくるSは、休みなくサラダや和風パスタを口に運びながらも注意は常にこっちに向けていて、聞くことだけに集中してくれていた。それも、俺の話がほぼ終わる頃には皿が空になってたけど。


「……以上、そういうことなんだが」


 俺は一気に話を終えて、ようやく肩から力を抜いた。

 Sが黙って席を立ち、こちらに背を向ける。


 ああ、やっぱり。

 こんな突拍子もない話、俺の頭がイカレたと思われて当然だよなぁ。自分が食った分の代金を置いていこうともしないのは気に食わないが、それも仕方ないか。

 ……と思いきや、Sはドリンクバーのアイスコーヒーを片手に戻ってきた。


「なるほど……そうか」


 そしてガムシロップとクリームをしこたま入れたそれをぐいっと飲んでから、一言漏らす。その調子があまりにも普通だったことに、こっちが驚かされた。


「信じてくれるのか、俺の話?」

「お前、子供の頃から嘘がつけねーだろ。確かに一瞬お前がおかしくなったのかって気はしたけど、その割に話し方もちゃんとしてるし。だから、取り敢えずちゃんと聞こうと思ったってだけだよ」

「……そっか……ありがとな」


 まさかSがこんな反応だと思わなかった俺は、それしか返す言葉を持っていなかった。

 旧知の友である人物が、まずこっちの話をちゃんと聞いてくれる。その事実だけでも、随分と俺を落ち着かせてくれる気がしたんだけどな。生憎、俺の貧相なボキャブラリーでは気の利いた感謝の文句が見つからなかったんだ。

 またアイスコーヒーを一口飲んだSに倣い、俺も手元の水で舌を湿らせてから改めて口を開いた。


「でさ、お前はどう思う?嫁には悪いけど、俺にはどうしても信じられないんだ。やっぱおかしいよな?」


 昼下がりのファミレスでは、俺の低く落とした声は聞き取りづらかっただろう。

 それでもSは宙を睨んで考えてから、きちんと俺の問いに答えてくれた。


「嫁さんの行動がおかしくなる前兆はなかったんだよな?」

「昨日の晩に寝る時までは普通だったよ」

「夜中にベッドから落ちたとか、夢遊病の気があるとかって、盛大な後出しはないよな?」

「これまで、特に気づいたことはない。夜中に歩き回ってたってこともなかったし……本当に突然おかしくなったから、俺も困ってるんだよ。病院なんて、自分を病気扱いするのか!って言われる始末でさ」

「ふうん……」


 そこで、Sがまた黙り込む。

 やがて奴は、テーブルに置いたグラスのアイスコーヒーの氷が音を立てて溶ける様を見つめつつこぼした。


「SF的視点から言うと、タイムリープってやつだな」

「タイムリープ?」

「お前、ヲタのくせに知らないのかよ」


 耳慣れない単語を鸚鵡返しにした俺を、Sは呆れて見やってくる。

 ……俺はミリタリー寄りのヲタで、そういうSFっぽいのには疎いんだよ。悪かったな。


 オタクへ転落する道筋を引いたのは俺なのに、今やすっかり別ジャンルで濃くなったSは、勿体つけて説明を始めた。


「タイムリープってのは、平たく言えば人の中身だけがタイムスリップすることだよ」


 ……しかしそのタイムリープってのは、世間の常識からして全く考えられもしないことだった。

 は?嫁の人格だけがタイムスリップだ?

 タイムスリップって、時間を超越するってことだよな。じゃあ、俺の嫁さんってエスパーなん?それって、どこのラノベとかゲームとかアニメの話?


 と、俺の頭には疑問符が後ろについたことばかりがぐるぐると駆け巡っていた。

 Sが色んな解釈とか、タイムリープをテーマとする作品群についてだらだら語っていたが、正直その一割も俺は聞いていなかったように思う。ただただ現実を受け入れられなくて、え?何で?どうして嫁さんが??って、そればっかりで。

 そんな自分を無理矢理納得させたくて、俺はまだ話し続けるSを片手で制した。


「ちょっと待ってくれよ。じゃあ……女子高時代の嫁さんの人格だけが、未来に来たってのか?」

「俺もまさかそんなことが現実にあるなんて信じられないけど、状況的には。あくまで推測な。本当かどうかなんて、確証なんて俺にもないし」


 意外にさらりと、Sは言い放ちやがった……こいつ、何だってこんなに冷静なんだ。

 と一瞬腹が立ったけど、所詮こいつにとって俺や嫁は他人だ。だから、のぼせた頭になるってこともないんだろう。それに、そういう立場からのアドバイスこそが俺の求めていたものなんだ。

 だからまたコーヒーを飲んだ後に続いたSの言葉を、今度は遮らなかった。


「しかしまずは病院、って言いたいとこだけど、嫁さんを外に連れ出すのも難しいんだろ?」


 今度はまた、偉く現実的な話だった。俺が黙って頷くと、Sは真面目くさって視線を合わせてくる。


「だったらとことんまで話を聞いてやって、まずは嫁さんからの信頼を得るほうがいい。嫁さん、一番傍にいるお前が自分の言うことを信じてくれないから、意固地になってる可能性が高いんじゃないか」

「話を聞いてやるだけでいいのか?」

「最悪、信じるフリをするだけでもいいと思う。ただし、相手の言うことに飲まれるのはダメだ。これ豆な」


 つまり話に同調するのはいいが、感情的にならず常に醒めた頭でいろってことか。

 俺は無言でいたが納得したのが伝わったのか、Sが同意を求めてくる。


「事実、俺がお前の話をちゃんと聞いただけでも大分落ち着けただろ?」

「……そうだな」


 それには素直に頷くと、Sは落とした声の調子を保ったままで続けた。


「嫁さん、今の自分のことを何一つ覚えてないって言ってたよな?まず話を聞けば、何かヒントが見えてくるかも知れない」

「本当に記憶喪失だったら、話をすることをきっかけにして何か思い出すかも知れないもんな」

「そういうことだ。それに女子高生のメンタルなんて、まず自分のことが第一だからさ。とにかく、嫁さん本人が気の済むまで話をさせてやれよ」


 そう言われてみたら、俺はまだ嫁とちゃんと話をしてなかったことに気づかされた。

 お互いに興奮状態で落ち着いて話すどころじゃなかったってのもあるけど、こういう場合はまず夫である俺の方が冷静になる必要があるってのにな……つくづく情けない。


 結婚したとき、俺はどんなことがあっても嫁を守るんだと決めていた。

 嫁は俺にとって、この世界の誰よりもかけがえのない大切な人で、楽しみも苦しみも共にして生きていきたいと願った相手なんだ。


 ひょっとしたら、今その決意が試されてるのかもしれない。とにかく一方的に俺の主張を押し通すんじゃなくて、嫁のことをちゃんと見てやらなきゃならないってことだ。そのためには、俺がツッコミに近い形で言葉を返そうとする普段のノリを自重しなければ……

 グラスに残っていた水を一気飲みし、俺は改めて腹を決めた。


「わかった。とにかく、話をしてみるよ」

「話すって言っても、お前はなるべく口を挟むなよ。余計なアドバイスとか、結論を求めるのもダメだ。嫁さんの気が済むまでとことん話をさせて、ただ聞いてやるってことが大事だから」


 と、一世一代の覚悟を決めたっぽい俺を見るSの目は相も変わらず涼やかで、なのに忠告はものすごく的を射ていた。

 ファミリー層が中心の混雑したファミレスでアイスコーヒーを飲んでるだけだってのに、Sが座ってる席だけが都心の隠れ家カフェみたいな光景に見えてくる。

「イケメンモデル御用達、自家製スイーツが自慢のカフェ××」なんていう、スイーツ(笑)向け雑誌の記事そのまんまみたいな。


 ……ホント、どうしてこいつは長く付き合ってる彼女もいなくて、なおかつ未だに独身なんだ。

 呆れと感心が混ざった溜め息を軽くついて、俺は疑問を口にした。


「しかしなぁ。お前、特定の彼女もいないくせに、どうしてそんなに女のことがわかるんだよ」

「特定の女がいないからこそ、だろ。今までに色んなタイプの子と付き合ったけど、一生を共にしたいと思ったこともないし。他人と一緒に責任だらけの生活を送るなんて、面倒なだけだからさ。一人の方が気楽でいいんだよ」


 あー、これが独身貴族様、しかもイケメンだけの特権ってやつですかい!そりゃあお前はモテるし、誰か一人だけを大事にしなくたっていいんだろうさ!

 僻みに近い気持ちが俺の中で黒く淀もうとしたが、そこではたと気がついた。


 確かに、結婚に向いてない人物が一定数存在するってことは事実だ。

 目の前のこいつみたいな、一生を特定の異性に縛られたくない、結局は自分の時間が第一、金も自分のためだけに使いたい、子供や家庭のために犠牲になるのが嫌だ!って奴ら。


 俺は逆に、嫁さんとちゃんと付き合い出してからは、話し相手もいない独り暮らしの寂しさに耐えられなくなっちまった。一人でいるよりも一緒にいたい、二人で一緒に歳を取っていきたいって心底から思ったんだよな。

 結婚ってそういうもんだと思ってたし。

 俺はその辺りを上手く纏めて言おうとしたが、先んじてSが言葉を発した。


「むしろ結婚から十年も経ってるのに、未だに嫁さん一筋なお前の方が珍しいって。相変わらず子供もいないんだよな?なのに何でそこまでラブラブなのか、俺の方が聞きたいっての」

「え?嫁さん大好きなのって、普通じゃないのか?」


 ニヤつくSに俺が素で応えると、奴ははあ、と溜め息を挟んで続けた。


「そうじゃない夫婦が、世の中にどれだけいると思ってるんだよ。俺の周りなんざ、妻への不平不満やら、不倫だー浮気だーって話ばっかだぞ」

「いや……だって俺、嫁さんのことホントに好きだし。他の女なんか、正直考えられないよ」


 俺は頭と両手をプルプル振って、夫婦仲に問題がなかったことをアピールする。

 これは真実だ。

 もっとも、嫁が俺の浮気なんか知ったらどんな目に遭わされるかわからない、って恐ろしさもあるけどな……嫁、マジギレしたら男を全力でぶん殴るぐらいの気の強さがあるし、さりげなく武道経験者だから、こっちが反撃しても絶対勝てる気がしない。


 しかしまあ、そんな点を差し引いても、俺が他の女に目が向くってことは恐らくない。

 嫁に捨てられたら、俺の人生はそこで終わっちまう。

 それぐらいの考えでいるんだから。


「ふうん。やっぱ、俺にはわかんねえなあ。誰かと死ぬまで一緒って、そんなにいいもんかねえ。人の気持ちなんて、いつ変わったっておかしくないってのに……」


 空になったグラスを揺らして氷をカタカタ言わせてたSは、どうやら本気で俺の心境を図りかねているらしかった。

 考えてみりゃ、嫁さんよりも付き合いが長い同性の友人同士さえ、お互いのことを完全に理解してるわけじゃないんだ。赤の他人同士だった二人が一緒に生活する夫婦関係の方が、難しいに決まってる。


 でもだからこそ日々新しい発見があるし、飽きもしない。

 そして、もっと相手のことを思いやれるようにもなる。その楽しさくらい、女との関係が切れたことのない奴だってわかりそうなもんなのに。

 またドリンクバーへと向かったSの背中を見つつ、俺はぼそりとこぼした。


「俺にも、お前がわかんねえよ」

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