Re:Start

里河 慧

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 それはもう10年以上昔のことだけど、よく覚えている。


 星が降ると言われた、天気の良い冬の夜のことだった。

 住宅街、小さな公園。寒さで元気のなくなった芝生の上で、彼女はピンク色のワンピースを風に揺らしながら、小さな体で目一杯、星を浴びていた。

 ご近所さんと流星群を観測するという両親をおいてこっそり公園にやってきた俺は、その絵本みたいな光景にしばらく息を止めた。


「なにしてるの?」


 公園の入り口から、訊ねた。彼女はぱっと俺を見て、けれどすぐにまた空を仰ぐ。


「ゆきが、ふったらいいなあって」


 それは今思えば全然答えになっていなかったのだけど、なんとなくその言葉には説得力があって、俺は、そっか、とだけ返した。


「あたらしいお兄ちゃんが、おしえてくれたんだけどね。おおきくて、お花みたいにふる雪を、ぼたんゆき、っていうんだって」

「そうなんだ」

「あたし、すきだわ。あたしとおなじ名前なの」

「ぼたんゆき?」

「そう」


 ワンピースを膨らませながら振り返って、彼女は笑う。それはなんだか、絵本から飛び出して動き出したお姫さまのようだった。流れ星が、彼女の頭上をティアラみたいにまたたく。


「ぼたんゆきなんて、かわった名前だね」


 俺は彼女に見とれながら、背伸びをした言葉を返した。考えてみたらそんな名前な訳がなくて、ぼたん、とか、ゆき、とかなんだろうけど、でも、ぼたんゆき、という名前は、なんだかきらきらして感じた。

 星影が、彼女がおかしそうに目元を染めるのを明確にしてくれる。かわいい子だなと思った。


「おれ、ふかみ」

「ふかみ?」

「おれだけおまえの名前しってるの、不公平じゃん。だから、おれの名前。これで平等」


 それは5歳の俺が、当時知りうる限りの礼節を尽くしたはじめましてだった。

 ふかみ、ふかみ。彼女は何度か俺の名前を口の中で繰り返した。そうして、ばっちり、俺と目を合わせて。


「ふかみ」


 透明な声が、まっすぐ俺に向けられる。冷たい空気をものともせずに、音は俺の耳へ入って、とんと心臓を叩いた。

 彼女は嬉しそうに、笑った。


「平等ね」


 もうそのときには、俺は恋に落ちていた。紛うことなき初恋だった。

 そして当時の俺の行動力は、自分でも引くほどのものだったのだ。


「おおきくなったら、けっこん、してやる」


 脈絡のない俺の言葉に、彼女は当然きょとんとした。

 本当は当時の俺は、結婚、が、どんなものかはよく分かっていなかった。母が見ていたドラマの聞きかじりで、単純に、仲の良い人とずっと一緒にいるために必要なものなんだと思っていたのだ。まあ、あながち間違いではないのだけど。

 彼女は少し考えて、小首を傾げる。


「けっこんって、結婚式ってこと?」


 多分、彼女もまだ結婚がどんなものかは分からなかったのだと思う。けれど、彼女はちょんとワンピースを摘まんで、もう一度、俺に笑いかけてくれる。


「ドレス着せて、指輪をして、あたしのこと、キレイにしてくれるのね」


 ひょっとしたら、彼女は結婚式に出たことがあったのかもしれない。星空と同じくらいに瞳をきらきらさせて、彼女は、喜んでくれた。


「すてきね! あたし、今日みたいな日がいいわ。流れ星のしたで、結婚式!」


 くるくる。回りながら星が降る空を見上げて、彼女はステップを踏む。彼女の想像する結婚式は、きっととても綺麗だ。

 踊るように、スキップをしながら俺のそばまできて、彼女は小指をつきだした。


「やくそく!」


 指切りげんまん。おずおず絡めた小指は、歌のリズムで上下に跳ねて、離れる。そうして、お互いの小指を見つめて、いまさら照れくさくなって笑い合った。


「……あっ、そうだ」


 彼女は思い立ったみたいに、自分の胸元を見下ろした。ピンク色のワンピースに、飾りでつけられたきらきらのボタンが二つ。彼女はおもむろに上のボタンを掴んで、思い切り、引っ張った。


 ぶちっ。


 その音に、俺は愕然とした。彼女は無邪気に、引きちぎったボタンを俺に握らせる。


「約束のしるし。指輪のかわりね」


 その行動にびっくりしてはいたのだが、俺は素直にボタンを受け取っていた。ぼんやりそれをのぞき込んでいるうちに、彼女はもう一つのボタンもちぎってしまう。


「これ、とっちゃって怒られない?」


 訊ねると、彼女はあっさり平気よ、と言った。


「あたし、おてんばなの。ボタンなんてたくさんなくすわ。このきらきらのボタンも、なくしちゃった」


 そうして、いたずらっぽくウインクする。とんとん、と心臓が叩かれた。


「じゃあ、ないしょだ」

「そう、ないしょ」


 穏やかに、微笑みあう。流星群の下の、秘密の約束。ささやかな、それは、結婚式だった。

 ぼたんゆき、ちゃん。そう、彼女のことを呼ぼうと口を開いたとき、遠くで母の声がした。俺がいなくなっていたことに気付いて、探し始めたのだ。

 俺は慌てて母に返事をして、彼女に手を振ってさよならを示した。彼女も小さく振り返してくれた。

 ほんのりとした幸せを感じながら、俺は両親の元へ戻っていった。




 けれどその後、彼女に会うことはなかった。母に訊いても、近所にぼたんゆきなんて女の子はいないと言う。

 星の降る夜、小さな約束をした彼女は、流星とともに消えてしまった。

 きらきらの飾りボタンだけを、俺に残して。

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