オレンジを抱いて

怪獣とびすけ

オレンジを抱いて


 私がそのオレンジ畑を見つけたのは全くの偶然だった。

 旅商人として経験の浅い私は、馬に荷を引かせ荒道を進んでいた。馬の体調を読み取る能力さえない私だ。馬が膝を崩すまでその異変に気付かなかった。

 すぐさま私は馬を休ませる必要がある事を知った。だがそこは獣道。どこに狼の群れが潜んでいるやもしれない。その場に止まるわけにはいかなかった。

 私は必至で付近を探索した。そこで見つけたのだ。林の先にぽっかりと切り取られた生活空間があるのを。

 私は馬を必死で歩かせ、林の先へ続く小道を抜けた。その空間には小さな家が一つ。そして。その裏にはこれまた小規模のオレンジ畑が広がっていた。ともかく、私は馬を庭の一角で休ませ、その家の扉をノックした。

「すみません。旅の者です。どなたか、いらっしゃいますか」

 出てきたのは一人の少女だった。

 私よりも五つは年下だろう、その少女は左手にオレンジを一つ握りしめていた。白いワンピースを着ているのだが、農作業のためかひどく薄汚れている。

 ただ、私はそこで奇妙なものを感じた。

 どうして、彼女が扉から現れたのか。彼女はまだ子供と言って差し支えない年齢だろう。普通ならばここで出てくるべくは彼女の両親だ。今は裏のオレンジ畑で仕事でもしているのだろうか。それとも、

「君、一人か?」

「はい。ここへ来てから、ずっと一人です」

 ここへ来てから? 彼女はいつからここに居るというのか。見たところ、まだ十二歳前後といったところだ。

「日々の生活はどうしてる?」

「行商人の方へオレンジを売って、もしくは、食べて」

 確かに果実を売るのにこの少女が町まで運ぶのは難しいだろう。馬も持っていないようだし、近くの町まで歩いて半日はかかる。

「…………すまない。本題を忘れていた。私は旅商人をしている者だ。ここまでの道のりで馬がひどく疲弊してしまって、君が許すのならば、今晩ここに泊めて頂きたいのだが」

「構いません」

 私が要望を口にした途端、少女からは了承の言葉が返ってきた。

 これまでに幾人も同様の頼みを口にした者がいるのかもしれない。

「ありがとう。礼と言ってはなんだが、オレンジを幾つか私が買い取っていこう。今、売りに出せる物はあるか?」

 少女はすぐさま家の奥へと入っていき、オレンジの詰め込まれた木箱を抱えて戻ってきた。数は二百といったところか。

「どうぞ」

 差し出されたそれを、私は相場の1.1倍の値段で買い取った。少女は驚愕の表情を浮かべ銀貨の受け取りを拒んだが「宿の礼だから」と納得させた。駆け出しの旅商人である私には若干苦しい取引ではあったが、やはりそこは礼のつもりだった。あのままでは馬も私も野垂れ死んでいたかもしれないのだ。

 夜になると、少女は藁の上に寝転んだ。少女がいつも使っているのだろう木製のベッドは私に譲られる形となった。

 翌朝、ベッドで眠る私を起こした少女の目元には隈ができていた。だが、それに反して表情は柔らか。どこかほっとしたような、そんな表情だ。

 ――――まさか、彼女は、私が彼女を襲うのではないかと、そう考えていたのか。少女に行為を迫った者がかつていたのかもしれない。由々しき事だった。

 私は改めて少女に礼を言うと、馬が回復しているのを確認し、すぐさま家を出た。

 少女のオレンジは想像を超える値で売れた。礼のつもりで買い取った品だというのに、私は恩を重ねてしまったようで、ひどく申し訳なく感じた。




 あれから一年が経った。

 旅商人として各町で顔を覚えられ、ようやく仕事が軌道に乗り始めた。

 そこで、例の荒道を進んでいた私は、そういえばあのオレンジの少女はどうしているのだろう、と好奇心から彼女の家へ寄ってみる事にした。

 少女は変わらずオレンジを作り続けていた。

 変化があるとすれば、以前よりも少しばかり彼女の顔色は瑞々しくなっていた。彼女もまた、オレンジ農家が軌道に乗り始めたという事なのだろう。

 彼女は私の顔を覚えていてくれたようで、扉を開けた途端に笑顔で私を出迎えてくれた。

 私はまた一晩だけ彼女の元で世話になり、翌日オレンジを買うと別れを告げた。




 一年が経った。

 また件の荒道を通っていた私は少女の家へと向かった。

 彼女の姿を目にした瞬間、私は驚いた。

 一年前とは見違えるように成長した彼女は、思わず感嘆の声が漏れそうな程に美しくなっていた。

「お久しぶりです。……どうかなさいましたか?」

「いや――――オレンジを貰おう」

 彼女の元で眠りに就くのは些か気が引けてしまった。

 私はオレンジを買うだけし、彼女の元を離れた。




 一年が経った。

 期待を胸に私は彼女の家へ。

 私は商業の成功によって、馬車を手に入れていたため、小道を抜け少女の元へ辿り着くのは骨が折れた。

 扉をノックする。

 中からは一層の女性らしさを備えた彼女の姿が現れた。血色は良い。大きな不幸もなく一年間過ごしてこられたらしい。私の胸中にあった不安が霧散した。

「また、一年ぶりですね。その馬車は貴方の物ですか。以前にも増して、ご立派になられました」

「あぁ。ありがとう。今回は頼みがある。実は、ここまでの旅で疲れているのだ。……一晩、こちらで泊めて頂いても良いだろうか」

「はい。構いませんよ。前回はその話がなかったものですから、実は少しだけ不思議に思っていたのです」

 彼女は快く私を家の奥まで案内してくれた。

 その日は彼女と長話をして過ごした。思えば、彼女と出会ってからこれ程の会話をしたのは初めての事だった。私自身、それに気付いた瞬間、驚きを禁じ得なかった。

 朝になって私は彼女からオレンジを買った。

 私はいつしか彼女に心を奪われていた。




 半年が経った。

 移動手段に変化の生じた私は彼女の元を訪れる周期が短くなっていた。

「今回はお早いですね」

「あぁ、馬車のおかげだ」

 一晩の間、私は彼女に旅の話を続けた。

 オレンジを買って彼女の元を去る。




 半年が経った。

 私は彼女へ土産を持参した。馬車でもここから一月かかる地方の名産品だ。彼女は案の定、大変に喜んでくれた。今回はオレンジを普段の倍も買い取った。




 半年が経った。

 彼女へたくさんの花を鉢植えに入れてプレゼントした。彼女は笑顔で喜んでくれた。




 半年が経った。

 花はまだ鉢植えの上で咲いていた。彼女に訊いてみると、花は一度枯れたがその際の種から再度、開花させるに到った、との事だった。実に彼女らしい。

 だが、今度はいつまでも残る物を、と、私は彼女へ腕時計をプレゼントした。大して値段の張る品ではないが、彼女はその場で身につけて見せてくれた。大層似合っていた。




 それから半年周期で彼女の元を訪れ続け、遂に三年が経過した。

 彼女が成人した事を前回の訪問で知った私は、彼女へのプロポーズを心に誓い、貯金をはたいて銀の指輪を手に入れた。

 馬車を庭に止め、家の扉をノックする。

 中から彼女が現れた。相も変わらず美しいその姿は私を魅了した。

「こんにちは。今回はいつになく真剣なお顔をされておりますね。どうかなさいましたか」

 まずは家の中へ入れるよう私は頼んだ。すぐに彼女は私を案内し、調理場から果実茶を運んできてくれた。

 果実茶の熱さなど何する物ぞ、と私はそれをぐいと飲み干し、彼女を正面に座らせると口を開いた。

「これを」

 私は懐から指輪を取り出した。

「私と結婚して、共に旅商人として生活して欲しい。了承して頂けるならばこの指輪を受け取ってくれ」

 オレンジの彼女は頬を染めた。

 両の目が私を捉えていた。これは脈あり、と考えた私だが、しかして、彼女の返答は予想に反する物だった。

「申し訳ございません」

 その言葉は私の脳髄を揺さぶり、意識を遠ざけた。彼女の前で倒れるわけにはいかない、と何とかそれを私は押し止める。

「何故だ。理由があるのならば、教えて欲しい」

「…………あなたより」

 あなたより。

「オレンジの方が、強いのです」

「強いとは――――」

 その先を口にする事はできなかった。私は拒まれたのだ。その事実を変えるために何かを成せるとは、今の私には思えない。出直しだ。

「……では、オレンジを幾つか頂いていこう」

 私はその言葉だけを残し、オレンジ畑を去った。

 強さとは。それを身につける必要が私にはあった。




 一年が経った。

 私は馬車生活で鈍っていた体を鍛え直し、強靱な体を手に入れていた。

 彼女に問うた。

「今の私ならば何者からも貴女を守る事が出来る」

「……申し訳ございません」

 返答は変わらなかった。

 私は戸惑いと苛立ち、そして焦燥感に支配された。




 二年が経った。

 私は商業の成功を積み重ね、莫大な利益を生み出していた。その証明として金塊を一つ彼女の元へ持参した。

「これが今の私の力だ。私は絶対に貴女を不満にはさせない。これでもまだ私はオレンジに劣っているのか」

「申し訳ございません」

 返答は変わらなかった。




 三年が経った。

 私は若輩ながらも商団の長に抜擢され、確固たる地位を獲得していた。彼女の望む物ならば今はどんな物でも手に入れられるはずだった。

 私は商団の長である事を示す印を彼女に見せた。

「どうだ。これで満足だろう。貴女の望むオレンジも、今ならば私は好きなだけ手に入れられる。貴女のために捧げられる」

「申し訳ございません」

 唖然とした。私はオレンジの彼女の言葉が信じられなかった。どう間違っても、彼女が私を嫌っているとは考えられなかった。私の話にはいつでも笑顔で付き合ってくれた。彼女もまた、オレンジ畑の苦労を私に語ってくれた。それが何故。彼女の欲しい物は全部私が与えられる。そのために私は力を得た。金を得た。地位を得た。権力を得た。彼女はこれ以上の何を望むのだ。強さとは。強さとは何だ。

「何故だ。どうして私の元へ来てくれない。どうして婚約を受けてくれない」

「それを私の口から申し上げるわけにはいきません」

 彼女は頑なにそう主張するばかりだった。

 一晩の説得にも彼女は応じず、私は仕方なく彼女の元を去った。

 手詰まりだった。




 それから幾年が経ったか、私は遂に小さな海辺の町の長になっていた。彼女の住むオレンジ畑からそれ程の距離もない。

 長の授与式の後、私は彼女の元へ急いだ。

 林の中のオレンジ畑に到達し、私は異変に気付いた。オレンジが、全て地に落ちて腐っていたのだ。

 家の扉を開けた。鍵はかかっていなかった。

 木製のベッドの上に丁寧な文字で書かれた手紙が落ちていた。封は閉じられている。確認するまでもない、私に宛てた手紙だった。

 私は中身を傷つけないよう、ナイフで封を開けた。

 その頃にはもう、私にも察しは付いていた。信じたくは無いが、それ以外考えられなかった。

 彼女はすでにこの世にはいなかった。

 手紙にはここ半年間の経過が書かれていた。重病に冒された事と、闘病生活。そして。

 手紙に記載された日付に目を落とすと、亡くなったのはどうやら数週間前の事だったらしい。私は悔やんでも悔やみきれなかった。

 手紙を読み進める。

 便せんは二枚。その一枚目が終わった。二枚目に書かれていた言葉はごく僅かだった。


『やはり、貴方はオレンジよりもお強くはなかったようです。

 ……いえ、貴方のせいにするのは、あまりにも非道すぎますね。

 これは私の意地だったのです。数ヶ月に一度しか、あるいは数年に一度しか現れない貴方への。これは意地だったのです。私はそれを遵守しようと、貴方から告白を受けた際に誓いました。だから、こう言葉を綴るしか私には出来ません。

 貴方はオレンジよりも弱い。

 この言葉の意味に貴方が気付く時、きっと私は貴方の告白を受けたでしょう

 ――――それでは、貴方の栄光と、そして幸福を祈って。さようなら。

 私はずっと貴方を好いておりました。……私に人生の幸福を、ありがとうございました』


 手紙を読み終え、ここに至り、私はようやくそれを悟った。

 ……彼女は、待っていたのだ。

 彼女は十数年、私を待ち続けていたのだ。変わるべくは私自身ではなかった。私は彼女のためにそれを為すだけで良かった。誓うだけで良かったのだ。

 私は旅をする中で見失ってしまっていた。

 何が大切なのか。何を手に入れるべきか。

 彼女はオレンジを抱いていた。

 ――――私の居場所はここにあったのだ。


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オレンジを抱いて 怪獣とびすけ @tonizaburou

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