DEADLOCKED

 始まりはそう、漣のような連綿と、消え入りそうなほどの小さな違和感からだった。

 数多くの戦士を殺し、そして数多の女を犯し、物資を根こそぎ奪いつくした遠征から帰ったときのこと。

 小さな領土しかない私の暮らしを、少しでも豊かなものにしようと懸命に戦い続け、疲れ果てた末に酒を飲み、妻を抱いた夜のことだ。

 下腹部に張り詰める、ほんの僅かな違和感。

 けれども、それを気に止める前にどうしようもない快楽と妻の嬌声に埋もれてしまい、それは単なる夢の中に閉じ込められたひとつの暗示のように、記憶の奥深くへ封じられてしまっていた。


 妻は、隣の領主の娘だった。領地を象徴するような、奥ゆかしくも美しい女だ。たおやかな肌は海岸の白波を思い起こさせ、黒く張りのある長髪は健やかな森を象徴していた。両の乳房は城のあった穏やかな丘を、そして一重まぶたは厳かな冬景色の中の雪溜まりを表しているかのようだった。私は彼女をひとめ見て、どうしても欲しくなった。

 もちろん、それは私の勝手な欲望であることを理解している。けれども私自身、欲望が実現できるのであれば力を行使することを怠らない性分であった。彼女を妻とするためであれば、父親である領主も手にかけ、領土を合併することもいとわなかった。それほどまでに、彼女は美しく、貞淑そうに見えた。


 けれども、と私は考える。

 妻が貞淑で大人しく、なおかつそれでいて美しい輝きを放っているのであれば、それは他の男から見ても同じように見えるはずだと。

 すなわち、妻は誰にとっても美しく、妻にしたい女なのだと。その価値を、彼女自身が理解していたとしたならば。

 私が彼女であれば、夫の遠征中に美しい男を捜して、部屋に呼んで逢瀬を重ねるであろう。なぜなら、そういったことが簡単にできる身分だからである。

 妻は、何も語らない。聡明な女だ、私が彼女を妻とするために払ってきた犠牲を知っているし、そこまでしても彼女を妻としたかったことも、恐らく知っているだろう。だから、彼女が私を全く愛していなかったとしても、彼女は私を愛し続けている素振りをするに違いなかった。そう考えていると、その見た目のつつましやかさに反して、妻が快楽を追い求める奔放な魔性の女に思えて仕方がなかった。私に抱かれている時の彼女の燃え上がり方が、普段とは大きくかけ離れているような、大胆で情熱的であったのも、彼女自身の性質によるものと考えると合点がいく。


 ひとつ、策を練った。

 遠征に行く振りをして、城内に潜むことにしたのだ。

 騎士の兜を外して微笑みかける私に、彼女はつつましく、しかし嬉しそうに手を振って送ってくれた。

 町に降りる前に、私は全てを脱ぎ捨てて、なだらかな丘を道を外れてゆっくりと上っていった。念のため、白兵戦で使う大きめのナイフを持った。いつもよりも、持ち手が指によく馴染むような気がした。丈の高い草原の中に潜むのは、敵の将の寝首を掻かんとひとりで潜行した時のような、わくわくと血が煮えるような心持ちがした。

 ふと、少し離れたところから草をかき分ける音がする。私以外にも、この丘の道にならない草原を進んでいる者がいるということだ。私自身は極力音を立てないように、ゆっくりと進んでいるが、彼は荒々しく、ざわざわと音を立てて進んでいる。おかげで彼がどの辺りにいるのかすぐにわかった。それほど遠くはないが、すぐに近づけるほどではない。無理をすれば、彼に気づかれてしまうだろう。

 どうせ、進んでいるのは私の城の方角なのだ。私は徐々に草むらから道のほうへと寄って、先回りをすることに決めた。


 はたして、やって来たのは背も高く、大柄な美青年だった。私よりも大きく、若い。精悍な身体つきは、単なる兵士にしておくのも惜しいくらいだ。不倫の相手としては申し分ないだろう。彼は身を屈めて音を立てないように門をくぐり、城の中に入っていった。私も、彼に気取られないように続いた。大ぶりのナイフがやけに頼もしく思えた。

 私は城のかげに隠れて、彼が大仰に扉を開けながら妻の名を呼ぶ様を見ていた。彼女の領分に入ったから、もう忍ぶ必要がなくなったのだろう。そこで彼を咎めるのは筋違いというものだ。むしろ、こうして妻と彼との秘戯を確かめようとする私の方こそ、咎められてしかるべきだろう。そう、妻が不義を犯そうとしているとはいえ、他人の秘戯を暴こうとする私自身の行為も決して誉められたものではない。男爵の位をもつ者として恥ずべき、下劣で卑猥な行為だ。しかし私は気になってしまったのだ。妻の魔性を。彼女に誘われてその身体を抱く男を。そして私自身の執念を。

 歓迎されざる客として、自分の居城に忍び込んだ。彼はとっくの昔に二階にあがってしまっていた。いきなり寝室に向かうつもりだろうか。つまりは、そういった暗黙の了解が既に成立してしまっているほど逢瀬を重ねているということだ。私には見せない大胆不敵な妻の態度にいささか興奮しながら、我を殺して階段を上る。途中何段目かで階段がきしっと高い音を立てた。私自身が仕掛けた曲者避けにひっかかってしまったが、何も気配の変化はない。彼らが彼らだけの世界に浸っていたことで私は救われたのだ。私はナイフを逆手に持ち直した。木の持ち手が、やけに大きく感じた。壁によりかかって、少しずつ階段を上っていく。視界の端にナイフの先端がちらちらとのぞいたが、それよりも聞こえてくる音に注意を払った。遠くで彼の張りのある声と、妻の澄んだ声が聞こえた。私は今度こそ音を立てないように歩きながら、妻の寝室を目指した。ビロードが敷かれた廊下は、足音を消す手助けをしてくれた。ナイフを逆手に構えながら、まるで異国の暗殺者のように忍び歩いているが、これから私が行うのは敵の暗殺でも謀略でもなく、妻の不義を窃視せんとする、単なる珍妙な興味から発している自慰的な行動である。しかし、そう自覚しつつも私は歩を進め続けた。私を急かす何者かの存在が、そこにはあった。


 妻の寝室まで近寄ると、彼女の甘い声が漏れ聞こえた。

 いよいよ始まったか。そう思った私は扉まで大胆に近づいた。扉の傍で耳を澄ますと、聞き覚えのある矯声がした。妻が男を求める時の声である。かつて、それは私だけが耳にすることができるものだと、信じて疑わなかったその声を、私は扉の向こうの彼とともに聞いている。血が、徐々に高ぶっていくのを感じた。

 ふと、鍵穴から光が漏れていることに気づく。覗きたいという劣情が沸々と立ち上ってきたが、ここで気取られてしまっては元も子もない。それに、覗くまでもないなと、扉の奥の騒々しい音を聞いて判断する。結局妻は私ではなく、ほかの男に抱かれたかったのである。そしてやってきたのがあの美青年というわけだ。私は彼の境遇よりもその身体そのものに対して深く嫉妬した。あれほどの肉体があったならば、私は領民から恐れられることもなかったろうに。その肌は若々しく、特に首周りが美しかった。実に羨ましい。私は自分の顎をなぞった。剃ったばかりの髭がちくちくと痛い。やはり、彼とは違うようだ。

 一旦退却して、城の門の外に潜んだ。

 私はここで少し考える。確かに妻は不義を犯している。けれども、私自身はそれを責める気はない。考えてみれば、ある程度予測できたことだ。それに、あれほどまでの美青年であれば、致し方ないとも思える。私が妻の立場であったなら、恐らく同じ事をするのではないか。

 だから、私は妻を赦そうと思う。むしろ、私から彼女を解放すべきなのだ。あの彼と、きちんと結ばれるべきだ。私と共に、いつまでも城にとどまって、私の遠征の隙を縫って彼と逢瀬を重ねるなどあんまりだろう。そして、私の我儘ではあるが、妻は美しいままで居て貰いたいのだ。そのためにも、やはり彼と共にいることこそが最もいいことだろうと思う。

 さて、私はこれからどうすればいいのか。

 それは、既に見えていた。

 私は逆手に持っていた大ぶりのナイフを握りしめた。


 しばらくして、彼が門から姿を現した途端、私は計画を実行した。

 恐らく、彼は私を見ることも出来ず、何が起こったのかわからなかっただろう。ナイフを滑り込ませた彼の喉は、想像以上に滑らかだった。傷口から勢いよく吹き出た血は、彼の前方の草むらにかかってしまったが、門前とはいえ道端だ、あまり気にならいだろう。

 私は彼が遺した身体をゆっくりとかつぎ上げ、私は自分の城に再び侵入する。冷たい硬質の大理石がいつものように私を迎える。だが、そんな歓迎を受けている場合ではない。

 彼を飾るのだ。死後の世界へのはなむけとして、美しく吊さねばならない。そんな思いに駆られた。

 彼の身体は非常に重かった。あれほどの立派な体躯をしているのだから、きっと相当な重さなのだろうとは思っていたが、それにしても重い。やはり、戦士としても相当能力が高かったのだろうと思われる。惜しい男を殺してしまったが、これも我が愛する妻のためだ、仕方がない。

 あまりの重さに足腰が潰れそうになりながら、廊下を抜けて、地下へ降りる螺旋階段をなんとか下り、その先にある古めかしい扉の前まで運んだ。私が生まれる前からこの城にある、古びた地下室である。

 私は彼を肩から下ろすと、服のポケットから小さな金色の鍵を取り出し、扉の小さな鍵穴に差し込んだ。錆び付いているのか、なかなか鍵が回らず、このままではねじ切れてしまうのではないかと思ったときに、鍵があいた。がちゃりという重たい金属音が、上まで響いたような気がした。

 重たい扉を開くと、ひんやりとした黴臭い空気がこちらに流れ込んできた。彼の身体を再びかつぎ上げ、部屋の中を物色する。

 あった。

 丈夫な荒縄が、十分な長さでそこにあった。部屋の天井は低く、丁度いい具合に縄をひっかける鉤も、いくつかある。

 ここは昔、拷問をする部屋だったと、父か祖父から聞かされたのを思い出した。私は彼の手首を縄で縛り上げて吊した。彼は両腕を高く上げて、あらぬ方向を見つめている。

 ふと、押し殺したような悲鳴が、背後から聞こえた。

 そこには妻が立っていた。水浴びをしたばかりのようで、真っ黒な髪はぬれそぼって、複雑に波うっている。

 彼女は口をぽかんとあけたまま、目の前の光景を見つめていた。その表情が少しあどけなくてかわいらしいと思ってしまったため、私の初動が遅れてしまった。しかし、彼女よりも一瞬我に返るのが早かったため、なんとか事なきを得た。

 私は彼を殺したナイフを彼女に向け、素早く近寄ると、その白くてすべすべした喉を切った。先ほどと同じように血が迸る。今度は正面から切ったので、私は妻の血をもろに浴びてしまった。錆びた鉄の臭いと、妻の香水の甘ったるい臭いが混ざって、なんとも言えない臭気が部屋に漂う。

 自分のほぼ全てを捧げた女をこの手で殺した。

 その事実が、速効性の毒のように徐々に徐々に血液を介して身体じゅうへ回っていき、気がついたら全身が破滅的な快感に侵されていた。息が浅く早くなり、口の中は渇き、目はぐるぐると周り、手を握れずにナイフが落ちて甲高い金属音が響く。それは絶頂だった。妻の身体を初めて抱いた時とは比べものにならない、否、比べようがないほどの絶頂だった。震えは収まるどころか激しくなっていき、頭の中では悪魔が私は妻を殺した妻を殺したと叫んでいる。

 人を殺したことは何度もあった。どころか、これよりも惨たらしい方法で殺したことも幾度となくある。けれども、この今、この時。愛していた人間に刃を刺し殺すという行為に目覚めてしまった。妻の喉に手をかけた瞬間の彼女の顔は、今まで見たどの顔よりも魅惑的であった。生命の神秘がそこにあったのだ。私は妻を殺した。それが私を目覚めさせた。思わず彼女が遺した血を舐めた。全身に痺れるような興奮が広がる。彼女の身体を押し開いて犯した。血液が全て不都合を洗い流した。私は妻を殺した。私は殺した。妻をこの手で殺した。血が部屋中に飛び散っている。血だ。血は人間の生命の神秘だ。

 笑っている声がする。誰だ。悪魔のような高笑い。それは妻の身体を縄で縛り上げ、彼と同じように部屋に吊していた。


 ああ。

 あれは。



 その時扉が大きな音を立てて閉まり、辺りは暗闇に包まれた。

 後ろでがちゃりと錠の落ちる音がする。

 鍵はどこかにあるのだろう。


 逃げ場のない部屋を、悪魔の高笑いが満たした。

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