Heavenly Hell
ひざのうらはやお/新津意次
Spring is here
柔らかな日差しが、僕を優しく目覚めさせる。
僕は粗末なベッドから飛び起きると、朝ごはんを作ることにした。
それが済んだら、君を起こしにいかないと。
あれは、ひどく風の強い日だった。
春の嵐とはよく言うけれど、まさにそんな感じの一日で、昨日までのように寒くはなかったけれど、風があまりにも強すぎて仕事が大変だったのをよく覚えている。
そんな大変な仕事が終わって、コーヒーを飲んでひと休みしているところだった。
どんどん、と、扉が叩かれた。
最初僕は風のせいだと思って、気にも止めなかった。
こんな森の中に、夜になって訪ねてくる人なんていないからだ。
けれど。
どんどんという音が大きくなり、続けざまに聞こえてきて、僕は初めて扉の前に誰かがいることに気づいた。
扉を開けると。
そこには大きなマントをかぶった小柄の女性がいた。
それが、君だった。
君はとても長い髪をしていて、長旅だったのかその髪の先がすこしうねうねとねじれていた。顔は小さく、やわらかそうな一重まぶたと、目元にある泣き黒子、そしてまだ若いのだろう、とても弾力がありそうで、それでいて小さくかしこまっている頬がなんだか印象的で、もうしわけなさそうに顔の中心に収まっている小さな鼻、そして薄い唇に華を添えるようについている口元の黒子が、とても上品にまとまっていた。手や首もとからのぞく肌は抜けるように白く、とても気品を感じた。
きっと僕が一生お目にかかることも許されないだろうと思われる身分の人だろうな、ということが見て取れた。
「助けてください」
涙ながらに上目遣いで訴えられたら、僕でなくても助けようとするだろう。
涙で腫れぼったい一重まぶたがさらにふっくらとしていて、それが悩ましげに僕を見つめている気がして、僕はどうしてもこの人を助けなくてはと思った。
家の中に招きいれ、とりあえず温かいコーヒーと家の中で一番分厚い毛布を君に与えた。
君はコーヒーを飲んだ瞬間噎せた。
「こんなに苦い飲み物、飲んだことがないわ……」
君は驚きと悲しみが複雑に絡まったような顔をした。
「僕は生まれてからほとんどこの飲み物で夜を過ごしているよ。飲んでいると身体が温まってくるんだ」
「お砂糖とか、ないのですか……」
「うーん、ないなあ。砂糖って、すごく高いから……」
「そうなのですか……」
そんな感じでしばらく君は俯いて黙っていたが、やがてぽつりぽつりと自分の身の上を語り始めた。
君はこの国のお姫様で、お后様の怒りを買ってしまったがために狩人に殺されかけて森に逃げ込み、迷っていたところをこの小屋を見つけて、意を決して扉を叩いたのだという。
どうりで高貴な雰囲気を漂わせているなと思ったら、まさかのお姫様だった。この国のお姫様はとても美人と聞いていたが、なるほど君はたしかに楚々とした顔立ちで、輝くというよりは透き通るような白い肌をしていて、それでいてどことなく憂いを秘めたような雰囲気の不思議な美人だった。生まれてから今まで、これほどまでに美しい女の人なんて、見たことがない。
そんなこんなで、結局他に逃げるところも帰るところもなく、君は僕の家に住むようになった。
幸い家は僕独りが住むには大きすぎるくらいだし、ベッドも僕が寝ている分も含めて七つあったから、君が寝るところに困ることはなかった。
うすら寒い地下室でチーズを持ち出して、テーブルの上にのせる。
まず二つに切って、片方を薄くスライスする。
スライスしたほうを君の皿にのせ、僕のほうには塊のまま置いておく。
君は口が小さいので、こうして小さく切り分けたほうが食べやすそうだという、僕なりの気遣いである。
なにせ、お姫様なのだから、やっぱり丁重に扱わないと。
さて、そろそろ君を起こしにいくとするか。
君は寝相があまり良くない。今日は比較的マシなほうで、ギリギリ枕に頭がのっていない。その長い髪は、手入れをあまりしていない(僕の家にはそういうものがなにひとつないからである)にもかかわらずとても艶やかでうねうねと波打ちながらさらさらと広がっていた。まるで猫のように横向きで背中をくるりと丸めて眠っている姿はどこかあどけなくて、ずっと見ていたくなってしまう。
さて、起こす作業に入らないと。
君を起こすにはたっぷりの慎重さと、ほんの少しの勇気が必要だ。
寝相も良くないが、君の寝起きはもっと良くないのである。しかも、寝起きに機嫌を損ねると、夕方まではそのご機嫌斜めな状態が続いてしまう。少し前に、起こそうと肩に手をかけようとしたらバランスを崩して君にのしかかってしまったことがあって、その時は強烈な殴打と、一日中口を利いてくれないというペナルティを負う羽目になった。
そんなこんなで、僕は君を起こした。
どうやって起こしたのかは、僕だけの秘密だ。これを習得するのに、どれだけ頬を平手打ちされたか数えることが出来ないくらいなので、あまり教えたくない。
「おはよう」
君は涼やかな、でも寝起きで少し間延びして掠れた声で言った。
「おはよう」
僕はいつものようにあいさつを返した。
君との朝はいつもこの会話から始まる。
僕は自分のコーヒーを淹れた。
こげ茶色の質素なマグカップに、どす黒い液体を入れていく。
君が来る前は、僕はこの家にあるたったひとつの銀のカップにコーヒーを注いで飲んでいた。
今となってはそれは君のカップになってしまっているが、別にかまわない。僕だってここに独り残される前は、このこげ茶色の陶器のマグカップでコーヒーを飲んでいたのだから。かえって昔を懐かしく感じられるくらいだ。
君には井戸から汲んできた水を湯冷ましにして飲み水にしたものを銀のカップに注いだ。
「ねえ、どうしてこの家には、ベッドやカップがたくさんあるの?」
会ったばかりの堅苦しい言葉はすっかりなくなって庶民の言葉になった君は小さく首を傾げた。けれど、そういう仕草のひとつひとつに、まだまだたくさんの気品がこもっている。
「うーん。それは、少しだけ長い話になるのだけど、聞くかい?」
「私はかまわないわ。あなたさえよければ」
「そうか……」
僕は食べていたチーズの塊を飲み込んで言った。
「もう、ずいぶんと前の話になるのだけれど……」
この小屋には、僕を含めて七人の男が住んでいた。
僕は木こりだったのだけれど、ある男は指輪職人、またある男は宝石掘りというように、みな職は違ったけれど、それぞれが協力しあって暮らしていた。
朝はみな同じ時間に起き、それぞれが自分の得意な部分を生かして仕事をして、出来上がった装飾品を売ったお金で生活する。
僕は木こりなので、ひたすら森の木を切っては、薪にしたり、木工職人にあげたり、いい木材はとっておいて、月に一度か二度ほど通る行商人に売ったりしている。そのお金で、行商人から明かりに使う灯油と基本的な食糧を買っていた。
そんなある日のことだった。
夕方、仕事から帰ってきたら、指輪職人と宝石掘りの書き置きがあった。
「済まないが、僕らは街で暮らすことにした。森の中よりも楽に生活ができるから。今までありがとう」
この家は僕が建てたもので、寝るところも食べるものにすらも困っていたみんなのために、木を切ってきて建てたのだ。家を建てられるのは木を切って木材を作り出せる僕しかいなかった。
だから、急に出ていかれるとは、思わなかった。
その日はみんなで、指輪職人と宝石掘りとのあっけない別れを惜しんだ。
そして、また何日か経ったころ。
今度は木工職人がいなくなった。
「僕のことはもう忘れてもらってかまわない。正直もうこの森にいられなくなってしまったんだ」
そんな書き置きを残して。
確かに、この森は不気味だし、臆病な彼はあまりここで暮らしたくなさそうだった。
でも、なんというか、こういう時に出ていかなくてもいいとは思うのだけれど。
まあ、出ていったものはもう仕方がない。
僕らはなんともいえない雰囲気の中、その夜を思い思いに過ごした。
次の日、仕事から帰ってきた。
みんな、いなくなっていた。
思い思いの、書き置きを残して。
どうやら、立て続けに仲間がいなくなったのが、みんなにとってとてもこたえたらしい。もともと不気味な森で、この森をよく知っているのは、木こりである僕くらいのものだった。
結局、僕を除けば、最初からこの森に住みたい奴なんていなかったということだ。
僕は、木こりとして物心ついたときからこの森で木を切って、それで暮らしていた。何らかの理由でいろいろな人間がたまたま僕のところに来たから、大きな小屋を造って建てた。そして結局みんな他の居場所を見つけた。だからいなくなった。僕は結局独りでここに住むよりほかになかったのだった。
「でも、もう独りじゃないわ」
君が突然口を挟んだ。
「ここには、あなただけでなく私もいる」
君はどこか意固地になったような、変に「私も」のところを強調していった。
「そうだね」
僕は言った。
けれど、いつかは君も、城に戻るときが来てしまうのだろう。
と、言おうとしてやめた。
言いたくなかった。
「ところで、仕事はいいの?」
君が言った。
「うん。なんだか今日は休みたくなってしまったよ」
昔の話をしていたら、なぜかはよくわからないけれど、家にいたくなってしまったのだ。
「そう。なら、もっといろいろなお話を聞かせて」
君にそうせがまれてしまうと、僕はそれを断ることができない。
その日は、そんな感じでゆっくりと過ぎていった。
そんな風に、君との時間は過ぎ、そして季節は流れた。
強い日差しの夏が終わったと思ったら、あっと言う間に寒い北風が吹きすさび、気がつけば周りは雪で真っ白になっていた。
僕はまだ暗いうちから起きて、燃え尽きそうな暖炉に薪をくべて、家を暖める。
こんな風に毎日のように薪をたくさん使うので、この頃になると、仕事をさぼってもいられない。
君のぶんの朝ご飯を作って、そして僕はパンを片手に家を出た。急がないと、明日使う薪すらも確保できない。
雪は降っていなかった。
けれど、いつもは全く足を取られない雪道に、なぜだか今日はよく足を取られるし、なぜかいつもより木が切りにくかった。
それに、なんだか妙な胸騒ぎがした。
それで、早く帰ろうと思ったのに、万事そんな調子で仕事に時間がかかり、帰ってきたのは夕方だった。
「ただいま」
僕は家の扉をあけた。
妙な静けさが僕を襲った。
まさか……。
「……!」
食卓に行くと、君が倒れていた。
僕は持っているものをすべて脇へとほうり出し、倒れている君に駆け寄った。
言葉は、なぜか出なかった。
倒れている君の口元のすぐ横には、真っ赤な林檎が転がっていた。
ひと口だけ、食べた痕がある。
僕は、すべてを理解した。
この林檎に、毒が入っていたのだろう。
そうして彼女は訳も分からずに殺されたのだろう。
僕が出かける前に一言でも言っておけば。
君は狙われている身だということを言っておけば。
きっと、こんなことにはならなかったのだろう。
君がこうして倒れているのに、僕は厭になるほど冷静だった。
やっぱり僕には、独りがお似合いのようだ。
とりあえず、僕は木の棺を作ることにした。
君は死んでもやっぱりお姫様で、その身体はいつまでも透き通るように白くて美しかった。
だからせめて、僕は自分の力の限り、美しい棺を作った。
木を切って削り、釘を打って、そうしてなんとか一晩で棺はできあがった。夢中で作ったので飾りもなくて質素な作りだけれど、なぜかそこに収まっている君は不思議と輝いて見えた。ただの屍体だというのに、それでもやはり君はお姫様で、そして美しかった。そういうことなのだろう。
朝日がさし始めた頃、僕は君に最後のお祈りをしようと、跪いた。
夜の間、ずっと棺を作っていたから、疲れたのだろう、僕はそのまましばらく動けなかった。
目を瞑る。
「ごめんなさい、私、寝起きはとても弱いのです」
「今日は早かったですね」
「この森って本当に静かなんですね。あなたの斧の音がよく聞こえたわ」
「お帰りなさい」
「おはよう」
「お砂糖がないコーヒーも、飲めるようになってきたの」
君の声だ。
とても大人びた口調なのに、ほんの少しあどけない甘さがあって、けれどそれでいて肌と同じように透き通るようなやわらかさを持った、そんな声だった。
どうやら僕は、知らないうちに君との思い出を頭の中に刻んでいたようだった。
そう気付いたとき、自分が涙を流していたことに気がついた。
僕が失ったのは、ただの「お姫様」ではなかったということに、今更ながら気づいた。
僕は立ち上がって、棺の中の君を見た。
顔を整えたおかげで、君は安らかに眠っていた。
まるで僕が起こせば今にも起き上がってくるのではないかと思うくらいには。
そのふっくらとした一重まぶたはまだ触りたくなるほどの弾力がありそうだった。
目元の泣き黒子は、君の顔に少しだけ翳を落としていたけれど、それがどうしようもなく僕をひきつけてやまないものであったのも、確かだ。おそらく目元だけ見ただけでも、君が美しいお姫様だということは誰も疑うことのない事実だということが分かるのだと思う。実際、僕はそう思った。
「もう、独りじゃないわ」
君はあのとき、そう言った。
そう、確かに僕は独りではなかった。
春のあの日から、ずっと家に帰れば君がいた。
でも、結局僕は独りだった。
それに気がつかずにいたのだから。
不意に風の冷たさを感じた。
涙が流れていたところがとても冷たくて痛い。
今まで棺を作ったり君を運んだりといろいろなことをやっていたせいか、春先の夜明けの寒さをものともしなかったみたいで、それが今になって急に感じられた。
身体の芯から冷え始めた。
まるで、何かに熱が吸い取られたみたいだ。
そのときだった。
遠くで馬の蹄の音が聞こえた。
この森を通る街道は、僕の家からかなり遠くを迂回して伸びている。
それはなぜかというと、僕の家周辺はほんの少しだけ凹凸が激しく、街道には向いていなかったからだ。
しかし、僕が普段森や街に出かける時に使っているのはこの街道ではなくて、いわゆる近道という、獣道を少し大きくしたくらいの道で、馬や小型の馬車くらいならなんとか通れないこともないが、あまり知られていない上に凹凸が激しいせいで危険であるため、森をいち早く通り抜けたい人が多い割にはあまり利用されていない。
おそらくこの馬は、その道を通ってきているのだろう。
その道からすぐ見えるところに僕の家がある。
というか、僕が仕事をするために道を使ったり整備したりもしているので、当然その獣道は僕の家を通るわけなのだが。
そして、あまり知られていないので、この道を使っている人は、僕の知っている人であることが多いのだ。
けれど、蹄の音からして、それはない。
長年木こりをしているとなぜかこういう音に敏感になるのだが、この蹄の音はおそらく強くてよく訓練された馬のものだ。つまり、僕の知っているような旅人や商人が使うような馬ではなく、もっと高貴な、たとえば騎士とか貴族とかの、調教されきった馬で、この道をきている、ということになる。
よく知らない人間なら、逃げた方がいいかもしれない。特に、騎士に出くわしてしまうと、なにをされるかわからない。
しかし、そんなことを考えている間に、馬の蹄の音はどんどんと近くなっていき、ついに近くで馬の嘶きが聞こえ、止まった。
「こんなところに住んでいるのか君は」
若い男の声がしたので、僕は声のした方を見上げた。
男の僕から見ても、美しい見た目だった。
柔らかそうな金髪、くっきりとした鼻梁、目は切れ長で、なんとも君と対照的だが、かなりのいい男だった。しかも、乗っている馬も上品そうな白馬だった。
「その女を弔っているのか?」
彼はどうやら君に興味を示したようだった。
確かに、死んではいるけれど、棺に眠る君は、ほとんどの生きている女性よりも美しいと思う。
もちろん僕だけの感想も入っているとは思うけれど、誰もがきっと同じようにそう思うだろう。
彼はどうも貴族のようであるが、若いからだろうか、木こりの僕に対して(貴族にありがちな)汚いものを見るような目ではなく、ただの人間として話しかけてきたので、なんだか妙な気分になった。
そこそこ位の高い貴族であるならば、今すぐ僕を切り捨てても何も問題はないはずで、実際そうする貴族だって、少なからずいると思う。
変な貴族だな、と思った。
彼は、まさか目の前に木こりにそんな不躾なことを思われているとはまるで思っていないようで、瞳を輝かせながら、
「美しい……君の妻なのか?」
と訊き、僕が首を振ると、
「そうなのか……では乙女なのだろうな。……では、棺に近づいてもっとよく見てもいいか?」
と畳みかけるように僕に訊いてきたので、首を縦に振って承諾の意を示した。
「そうか、かたじけない」
彼は僕にほほえみかけると(本当に変な貴族だ)、棺をのぞき込んだ。
そうして少しの間うっとりとしていた。
貴族というのは、こういう不思議な人間もいるのだな、と僕は思った。
「なあ君、その……とても言いにくいことなのだが」
彼はほんの少し下を向いて、なにかをためらうようにもじもじとし始めた。歳の割に子供じみた仕草である。
「私はどうもこの女を好きになってしまったようだ。……もちろん屍人であることはわかっている。だがその……君にいきなりこんなことを言うのも少し気が引けるな……その……私は、なんというか……」
彼は非常に困惑した表情でいったん黙りこくり、そして僕の目を見てから、意を決したように、
「私は屍人のこの乙女が好きで好きで仕方がないのだよ。どうか……この乙女を私にいただけないかな? もちろん、ただではない。君が一生ここで暮らさなくていいだけのお金をあげよう。約束だ!」
といった。
たとえもう屍体になったとはいえ、君の身体をいきなりやってきた見知らぬ男にあげる、というのはどうも納得がいかなかった。
僕が何もしないでいると、彼は僕の意思を察したようで、
「そうか……」
といって地面に目線を落としたまま、小さくため息をついた。
「ではせめて、口づけだけでも許してはくれないだろうか?」
彼の顔がまた上がって、僕を見た。
なかなかに厚かましい貴族だけれど、僕は木こりという下々の者どもの中でも下位に属する身分だ。貴族が厚かましくなるのも当然だ。そもそも、人間として扱ってもらっているだけでも今までになかったことだ。
そういう意味で、僕は彼の願いを断ることはできなくて、ゆっくりと首を縦にふった。
「おお、感謝する!」
彼はとても輝いた瞳を僕に向けにっこりとほほえむと、棺につかつかと歩み寄り、身を屈めて君に口づけした。
そう、それこそが、君を眠りから醒めさせる呪文であったのだ。
寝起きの悪い君をもっとも安全に起こす方法。
それが、口づけだった。
最初はいたずらのつもりだった。
けれど、起きた君はこう言った。
「とてもいい目覚めだわ」
それからというもの、僕は毎日この方法で君を起こしていた。
こうすれば、すぐに君が目覚めるからだ。
けれど。
もう、君が目覚めることはない。
君はもう生きていないのだから。
「あら、これは……」
君の声がして、僕は思わず棺を見た。
そこに、起きあがった君がいた。
生きている君が。
そこに、確かに、いた。
「……いったい何が……」
僕よりも彼の方が動揺していた。
「素敵な人……」
そして、君は彼を見つめてうっとりしている。
これって、もしかして、一目惚れというやつではなかろうか……。
そして。
「なんだか、申し訳ないな……」
彼は言った。
後ろの白馬には君が乗っている。
僕は首を振った。
「今まで、ありがとうございました」
君は僕に礼を言った。
そんなもの本当はいらないのだけれど。
そんなことよりも……。
まあ、いい。
君の幸せそうな微笑を見て、僕は総てを諦めることにした。
「君が出来ないことを、私は必ずしてみせよう……約束だ」
彼は去り際に僕の耳元でそうつぶやいた。
僕にはその意味がわからなかった。
多分、わからなくてもいい。そう思った。
そうして彼と君は白馬に乗って、行ってしまった。
僕をここに残して。
いや、違う。
僕は、最初から、ここにいただけだ。
君がここにやってきて。
倒れて。
彼が来て。
そしてたまたま君が甦って。
君が彼に恋をした。
ただそれだけのことだった。
なのに、どうしてだろう。
こんなにも空しい気持ちになるのは。
結局のところ、どんなに頑張ったところで、僕は独りきりだ。
そういうことなのだろう。
別に、慣れていることだ。
今までが特別だった。ただそれだけだ。
冬のしんとした空気が、僕の顔を打った。
なぜか頬がすうっとした。
日の出のやわらかな光が、僕を目覚めさせた。
僕はいつものように粗末なベッドから飛び起きると、朝ごはんを作ることにした。
ようやく仕事に余裕ができたので、こうしてゆっくりと朝ごはんを作ることができるようになった。
独りしかいないこの家は、少し広くて、とても静かだ。
僕はいつものようにパンとチーズとコーヒーを用意して、食卓についた。
今ごろ君は、貴族の食卓で、彼と朝食を食べているのだろう。いや、きっとまだ寝ているのかもしれない。
そんなことを考えながら、僕はパンをかじり、コーヒーを飲んだ。なんだかコーヒーがいつもより苦い気がする。淹れ方を間違えたのだろうか。まあ、そういうこともあるだろう。
その時、扉がどんどん、と叩かれた。
まさか。
僕は急いで扉に近づき、あけた。
「こんにちは」
そこには赤い頭巾をかぶった小さな女の子がいた。長い髪で、その先はすこしうねりがあった。顔は小さく、やわらかそうな一重まぶたと、目元にある泣き黒子が特徴だった。
それは、まさに。
小さな君だった。
「あなたが、この森のきこりさん?」
女の子は、泉の水面のようなきれいで、それでいてきらきらしたような声で訊いた。
「そうだよ」
僕は答えた。
「これ、おかあ様から届けておいでって。パンとお花なの」
女の子は、足下にあった籠をとって、僕に手渡した。
その籠には、大きなパンと、一輪の花があった。
真っ白な小さな花で、野に咲いているだけではさして目立たないけれど、こうして飾るととても美しい、そんな花だった。
唐突に君を思い出した。
「ありがとう」
僕はそれを丁重に受け取った。
春のさわやかな風が、僕らの間を駆け抜けた。
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