Marmaid girl

 おとぎ話の中で、僕は魔術師だった。

 その力は絶大だが邪悪で、僕の身体は自らの力の代償として、蛸の化身になってしまっていた。

 ほの暗い海溝の底で、瞑想を始める。遙か彼方、大陸棚に輝く、とある城のその奥、ひときわ輝く塔の中、君の部屋を、思念で覗く。

 しなやかそうな髪の毛は胸のあたりまで長く伸び、肩のあたりから先がさざ波のようにふわふわと波打っている。やさしい印象の一重まぶたと、小さくまとまった鼻、そして口元の黒子が、艶めかしさと清楚さ、その両方を表現していた。透きとおるように白い肌は、上半身を滑らかに覆っていて、そこから先は緑色に輝く細やかな鱗で覆われた尾鰭がすらりと延びていた。

 君は、水面の方をぼんやりと見つめていた。

 そのどこか陰のある、憂いを秘めた表情に見とれている者がいることに、きっと君は気がついていないだろう。

 と、思念を移動させているうちに、君と不意に目があった。

 そこで瞑想が途切れ、僕の意識は海溝の底に戻った。

 君はおそらく、少し前に出会った人間の王子のことを想っているのだろう。彼に出会ったとき、君はそれまで見られなかったような惚けたような表情をしていたのを、僕は見逃さなかった。

 この世界がおとぎ話の中にあるということを、強大な力を持ちすぎてしまったが故に知ってしまっていた。だからこそ、人魚姫の君が、王子に恋い焦がれてしまうことは予定調和で、それがないとこの世界は先に進まないということも知っていた。知りたくはなかった。

 けれど。

 君が王子に恋するずっと前に、僕は君に恋い焦がれている、としたら。

 この世界は、どう変わってしまうのだろうか。


 君の表情は日を追うごとに次第に切なく、そして色っぽくなっていく。そして僕は君と目が合う度に海溝の底へと意識を戻される。少し前であれば、一日中君を観察できたのに、最近では君と目が合ってしまったそのときに集中が途切れてしまって意識が身体に引き戻されてしまう。

 わかっている。僕は君にだけは、惹かれてはならない存在なのだ。蛸の魔術師は、人魚姫の少女に憎悪の感情を向け、陥れるために魔法の契約をもちかけるのだから。

 しかし、そもそも、なぜ僕が魔術師なのだろうか。だいたい、この役目は魔女、つまり女がやるものなのではないだろうか。なぜ、男の僕が、蛸の姿に身をやつして、君を陥れなければならないのか。どうせならば、こんな魔術師よりも、王子になりたかった。

 しかし、なってしまったものは仕方がない。こうして魔術師にならなければ、ここがおとぎ話の世界だということもわからなかったのだし、やがては君に関わることが出来るという役なだけ、まだマシだ。


 久々に現れたウツボの歯の治療をしながら、僕は君のことを考えていた。そろそろ君が王子を想う気持ちに耐えきれなくなって、海の動物たちから僕のことを聞きつけてやってくる頃なのだが。

 ウツボを帰して、僕は瞑想を始める。

 君の部屋を覗いたが、君はいなかった。どこかに出かけているのだろう。どこに行ったのかはさすがの僕でもわからない。

 と、来客を告げるベルが鳴った。

 まさか。

 僕は洞穴の入り口へ向かった。


「あの、魔術師さんって……貴方ですか?」

 そこには、君がいた。

 君が、こうして僕の目の前にいるのは、少しだけ不思議だった。いつも、思念で覗いていただけの存在だったから。

「ああ、僕だけど、何か用かな?」

 僕は君がここに来た理由を知っている。知りたくもないのに。

 けれど、知らないふりをしなければならない。したくもないのに。

 文字通り、お話にならないからだ。

「はい、あの……」

 君はためらいがちに周りを見た。誰かに見られていないか心配なのだろう。なにせ、大陸棚の国の人魚姫がこんな深海の魔術師と出会ったとなっては、それはもう国じゅうが仰天する一大事だし、僕は君の国と戦争をしなければならないだろう。それほどまでに僕は光から忌み嫌われているし、それだけの力を持ってしまっているということでもあった。

「よかったら、中にはいりなよ」

 僕は思わずそう言った。

「あの、いいんですか?」

 君はうつむきながらそう言った。

「かまわないよ。お客なんて滅多にこないものだから、大したおもてなしはできないけれど」

「ありがとうございます!」

 君は微笑んだ。

 一瞬だけ、僕の周りと心の中が明るくなったような気がした。


 僕が思ったとおりのことを、君はゆっくりと話し始めた。好きな人が人間で、そのためには足が欲しいと。人間になるのであればどんな犠牲も厭わないと。

 僕は少し悲しくなった。君は人魚だ。人間ではないし、魚でもない。そして僕は蛸だ、そのどれでもない。

 君は人魚と人間の壁を越えたいと言う。けれど、実を言えばそれはとても難しいことなのだ。それも、わずかな間ならばともかくとして、永久に人間に変化させるということは、とてつもなく代償が大きい。それは、人間と人魚の住む世界が全く違っていることによる。君をたとえば鮫にすることはそれほど難しくないし、代償も小さくてすむのだが、陸の動物、とりわけ人間となるとその代償は計り知れない。

 けれど、僕は君をなんとかして人間にしたいと思った。

 不思議なことに、物語の筋かどうかは関係なしに、自分の意志でそう思った。

 僕は魔力の源をなしている世界の闇に語りかけた。

 君を人間にするのに、どれほどの代償が必要かと。

 答えはすぐに返ってきた。

 それは、とてつもなく深い愛情と、ひとつの身体であった。

 おとぎ話の世界で魔術師、あるいは魔女が人魚姫に提示する条件もこれと似たようなものだった。だから、きっとこれより低い代償では、君を人間に変えることが出来ないのであろう。

 ここで、僕は君に語りかける。

「君は、それほどまでに王子のことを愛しているのかい?」

 その声の最後はほんの少しだけ震えたが、君には伝わっていないと信じたい。

 君のそのあどけない瞳が僕をとらえる。

 そして、君は、

「はい」

 と、決意の光をにじませながら言った。

 ああ、僕が蛸でなかったら、魔術師でなかったら、もっとマシなことができたかもしれないのに、という錯覚にとらわれた。

 僕は、考えた代償を口にした。

 曰く、君の王子への愛、そしてそれを受け入れる王子の愛が必要だと。

 そして、このうちのどちらかが欠けた場合、君の身体が消えることになるということ、そしてその身体の担保として先に声を借り受けるという説明をした。

 それは真実ではないけれど、君が必要になるのは、身体の他には声だけなので、僕が君に説明することとしてはそれで十分だった。

 それで君は納得し、僕の力を使って闇と契約して、君は意識を失った。


 僕は倒れた君を海溝の底から運び出す。

 君の美しい緑色の鱗が少しずつぼろぼろとはがれ落ち始める。

 急がなくては。

 僕は今まで一度も出したことがないようなスピードで君を海岸まで送り届ける。

 なんとか砂浜の波打ち際まで君を運んだ後、僕は君が風邪を引かないように魔術をかけて、その場を立ち去った。

 あとは君の愛の深さと幸運を祈るだけであった。


 ほの暗い海溝の底で、僕はただ君のことを考えていた。

 期限は三日、その間に王子と君が結ばれなければ、君の身体は消えてしまう。

 君の身体が消えることだけは、どうしても避けたかった。

 魔術は、成功しようが失敗しようが、契約した以上かならず代償を払わなければならない。つまり、彼女が王子と結ばれたら、消えるのは僕の身体ということになる。

 でも、それでいいと思った。君が幸せになった世界に、僕はいらない。それでいい。

 気がつけば、僕はそれほどまでに君に惹かれていた。このおとぎ話の世界で、それはあってはならないことだった。はたして、それによってこの世界がどうなってしまうのか僕はわからない。けれど、それでも僕は、ただ愚直に君を愛し続ける。それでいいと思った。

 海の動物たちの願い事を聞きながら、僕は三日間、ただただ君の無事を祈った。

 三日という短い時間が、これほどまでに長い時間に感じたのは、後にも先にもこれが初めてだ。

 永遠というほどではないけれど、気の遠くなるような、そんな感じだった。

 そして、君がこの僕の住処を訪れてちょうど三日経った。僕はすべての意識を集中させて、君を探した。

 君は、僕が送り届けた美しい渚の隅で、絶望に打ちのめされたような姿でそこにいた。

 それだけで、答えは出ていた。その答えは僕の心の中にも重くのしかかってきた。


 消えるのは、君だった。


 もちろん、これもおとぎ話の世界であれば当然なのかもしれないけれど。

 僕はやっぱり納得がいかなかった。僕という存在そのものが、おとぎ話にあってはならなくて、しかも僕は君に恋してしまっているというさらにあってはならないことを引き起こしてしまっているのだ。ここで、僕の身体が消えるという「あってはならないこと」が起きてもいいだろうと思った。

 そう思っているうちに、君の身体は月の光に照らされて、ゆっくりと溶けていく。その悲しみに包まれた顔が、僕にはよく見えた。君の一重まぶたが涙に濡れ、美しく光る。それはとても儚くて、そして僕の心を突き刺した。


 思わず叫び声をあげそうになった。


 僕の意識は、海溝の底へと戻っていた。

 君の気配が、完全に消えた。

 それが、魔術の契約が完了したことを物語っていた。


 僕はただ独り。

 残されたまま、怒りと哀しみと憎しみにとらわれる。そうして闇の力は深まっていく。

 けれど、どれだけ闇の力を深めたところで、もう君を助けることは出来ない。僕はそれに気がついていた。けれど、そうであることによって、闇の力はいっそう深くなっていった。


 そうして僕は、次第に闇に取り込まれて、ゆっくりと、このおとぎ話の世界から消えていった。

 最後の意識が消えていく瞬間に、君の微笑みが見えたような気がした。


 それだけで僕は、自分が消えていくことに幸せを感じることが出来た。

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