二
ほんの一月前に同僚が自殺した。同僚の名は木村といって、痩せ型であまり目立たず成績も良くない、いわば社内のお荷物のような存在だった。念の為に言っておくと、お荷物というのは他の同僚や上司による評価で、私はその意見に与しなかった。たしかに成績は良くなかったかもしれないが、だからといって彼の人格を否定して良いはずはなかった。
私と彼とは何度か仕事終わりに食事をしたことがあって、比較的親しかった。ただ、彼の遺した遺書に私の名が記されていたとき、正直に言うとどこか居心地の悪さを感じた。彼は、遺品の整理を私に頼みたいと記していた。
程なくして木村の両親が愛知から上京してきた。私は彼らに付き添う形で初めて木村の家に上がった。室内は嘘のように整然としていて、そこに生活の臭いを感じる要素は何もなかった。小さめの冷蔵庫の中には調味料だけが入っていて、食材は何も入っていなかった。衣類も綺麗に整頓されていた。唯一の例外があるとすれば、様々な種類の本が並んだ本棚だった。小説や自然科学の本が綺麗に並べられていて、一目見たところではそこもやはり整然としていたのだが、試しにその中から本を抜き出して開いてみると、あちこちに線や注釈が書き込まれていた。
私が偶然に手に取ったのは、キルケゴールの「死に至る病」だった。他にもニーチェやサルトルといった小難しい名前が並んでいた。それまで哲学というものに胡散臭さを感じていた私は、木村の死を妙な考えに取り憑かれた人間の末路だと片付けることもできた。だが、その哲学書に書き込まれた線や注釈を見ると、我々は何かとてつもない喪失をしたのではないかと恐ろしくなった。
本棚の前に立ち尽くす私の傍らで、木村の両親は粛々と遺品の整理を続けていた。私は彼らの心中を想像するだけで悲痛な思いにとらわれた。
遺品の整理があらかた終わったところで、彼らはそれまで手付かずだった本棚に手を触れた。彼らは本棚の中身を売却しようかと話し合っていた。そのとき、私は反射的にいくつかの本を譲り受けたいと口にしていた。彼らはどこかほっとしたような顔をして、それを了解してくれた。例えとしては相応しくないかもしれないが、まるで亡くなった人が臓器を提供するのと同じように、どこかで息子の意志が受け継がれることを望んでいたのかもしれない。
その日、私はいくつかの哲学書を受け取って帰宅した。
噂というのは恐ろしいもので、どこから流れ始めたのかは分からないが、木村が哲学に傾倒していたことが社内で話題になっていた。出先で上司と昼食を共にしたとき、彼はこんなことを言った。
「哲学バカっていうのは死なないと治らないみたいだね」
元々、木村に対する風当たりは強かったので、上司はその延長線上でそんなことを言ったのかもしれなかった。だが、私としては死んだ人間のことを悪し様に言う権利が上司にあるとは思えなかった。その日の夜に慣れない哲学書を紐解いたのは、上司のそんな言葉がまだ頭の片隅に残っていたためだろう。私が開いたのは、言うまでもなく「死に至る病」だった。
死に至る病とは絶望のことである。そんな一文が、私を回想の世界に引き込んだ。
あるときのことだ。私は仕事終わりに木村と居酒屋に入った。私はとりあえず生ビールを、木村はウーロン茶を注文した。飲めないわけではないが飲まないのだ、というようなことを木村は以前言っていた。木村は酒も煙草もギャンブルも女も、全て嗜まなかった。その日、酔いが回った私はどうしてそれらのことに興味を持たないのかと、軽い気持ちで訊いた。
「僕は善く生きなければならないんです」
そのときはその言葉の意味をよく理解できなかったが、その分だけ心に残るものがあった。きちんと理解できていたとしたなら、酩酊の中にその記憶を置き忘れてしまっていただろう。
それから、私はやはり酔いに任せて愚痴をこぼした。その多くは仕事に関することで、私は上司や同僚のことを批判した。いつも虐げられているというのに、木村は彼らのことを悪くは言わなかった。私の愚痴に対してときどき頷くだけだった。
終電間際になって私たちは店を出た。去り際に私は彼にあることを言った。
「今日はありがとう」
愚痴を聞いてくれた礼として、私は軽い気持ちでそう言った。そのとき、木村は驚いたような顔をした。そして、何とも言えない微妙な表情をして彼は言った。
「善く生きることは、本当に難しいものですね」
それから一週間後に彼は自殺した。
私が彼の死に多少なりとも責任を感じたのは、そのときに彼の気持ちに気付くことができなかったためでもあるし、何か自分の言葉が彼が死を選んだことに影響したのではないかと考えたためでもある。他人と関係することの恐ろしい効能。私は自分を責めずにはいられなかった。
……私は我に返って頁をめくった。途中で栞のように挟まっているものがあった。それは随分とくたびれた封筒だった。宛先には女性の名が記されていた。
投函されなかった手紙を届けること。それこそが、私が愛知までやって来た目的だった。私は木村の両親に彼女の連絡先を調べてもらうことにした。そして、今こうして電話をかけている。
私が彼を殺してしまったのかもしれない。電話越しの告白に中川恵理は息を呑んだようだった。
「とにかく、一週間以内にそちらを訪ねます。それから、もうこの番号にはかけてこないで下さい」
それが、彼女が苦しげに吐き出した言葉だった。
私がそれを了承して電話を切ると、ロビーはほとんど静まり返っていて、新聞を読んでいた老人も姿が見えなくなっていた。コチコチという古時計の音と小さな水槽のポンプの音だけが聞こえてきた。
私は二階の奥の自分の部屋に戻り、畳の上に寝転がった。少し、複雑な気分だった。彼女は中川恵理と名乗った。私は例の本を取り出し、その真中あたりの頁を開いた。十五年前に書かれた手紙が、今も変わらず挟まれていた。宛先の深田恵理という文字をなぞり、私はため息を吐いた。
「腹が減ったな……」
私はそっと呟いた。
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