第14話
時計は、四時二十五分を指している。
「……ま、間に合った……」
喫茶「ヴィクトリア」の看板に手を置き、ぜぇぜぇと荒い息をしながら亮介は安堵の言葉を漏らした。その肩にはぶら下がるようにしてエアテルが負ぶさり、楽しそうにテシテシと亮介の背中を叩いている。
「まったく……講義が終わった事にも気付かないほど深く居眠りするのはどうかと思うよ? まぁ、最近は慣れない戦いを続けていたんだ。疲れが溜まっていたんだろうとか、同情の余地が無い事は無いけどね」
いい加減聞き慣れてきたトイフェルの無駄に長い口上を聞き流しつつ、亮介は店の中へと入った。
見渡してみるが、宇津木の姿は見えない。とりあえず窓際の席に座り、今回はカプチーノを頼んでみる。
程無くして運ばれてきたコーヒーの香りを鼻腔で楽しみつつ、宇津木が来るのを待つ。だが、待てど暮らせど来る様子は無い。
「……っかしーな。もう五時だぜ? 何かあったのか?」
二杯目のおかわりを飲み終わったところで、亮介は首を傾げた。
「忙しそうだったからね。仕事のキリがつかないでいるんじゃないのかな? 連絡したいけど、キミの連絡先がわからないでいるとか」
「いや、それは無い。昨日俺からかけて着信履歴は残ってる筈だし、何より宇津木さんが自分で「番号を登録しても良いか」って訊いてきたんだ。だから、俺の連絡先がわからないってのは無いと思う」
そう言って、亮介は携帯電話を取り出し、宇津木の番号にかけてみた。だが、宇津木が電話に出る事は無く、やがて留守番電話サービスに切り替わる。溜息をつきながら携帯電話を仕舞う亮介を茶化すように、トイフェルは言った。
「そもそも、その携帯電話を家に忘れて出勤してしまったとか」
「……あー……それはありそうかも。おっちょこちょいっぽいもんな、あの人……」
言いながら、亮介は立ち上がった。亮介の横でコーヒーと一緒に頼んだサンドイッチを齧っていたエアテルが亮介を見上げる。そして、慌てて残りのサンドイッチを腹に収めると、来た時と同じように亮介の肩にぶら下がった。この定位置はいずれ改めさせないと、酷い肩凝りになりそうだ。
勘定を支払って店を出ると、亮介は天成堂出版のビルへと足を向けた。連絡が無いのであれば、会社に直接行ってみるしか無い。
ビルに入って受付へ向かうと、受付嬢が亮介の顔を見ながら「あら、昨日の……」と呟いた。
「こんにちは。昨日お世話になった、中城大学の土宮です。……あの、実は四時半に営業部の宇津木さんと約束をしていたのですが、宇津木さん、時間になっても待ち合わせ場所に来なくて……」
そう言う亮介に、受付嬢は「わかりました。少々お待ち下さいね」と言って内線電話をかけだした。そしてしばらくやり取りをしていたかと思うと受話器を置き、少々困ったような顔をして亮介に言う。
「申し訳ございません。宇津木は本日、急病のため昼過ぎに退社しているようです」
「えっ……」
絶句し、寸の間亮介は考えた。詳細を聞きたいところだが、これ以上踏み込んで根掘り葉掘り訊いたところで何も教えて貰えないような気がする。それどころか、自分が不審人物扱される上に、社内での宇津木の立場まで微妙にしかねない。
「そうですか、わかりました。お手数をおかけしてしまい、済みません。ありがとうございました」
詳細を訊く事は諦め、亮介は受付嬢に礼を言うとビルから出た。そこでもう一度宇津木の携帯に電話をかけてみるが、やはり出る気配は無い。
「……何だ? 何か、嫌な予感がする……」
「その予感は、決して間違っちゃいないと思うよ。急病で約束をすっぽかすなら、相手に連絡ぐらいはする筈だ。社会人なら、尚更ね。……まぁ、世の中にはそれすらしない人もいるようだけど、少なくとも彼はそういうタイプには見えない。何かに巻き込まれたと考えた方が自然だろうね」
トイフェルの言葉に、亮介はハッと息を飲んだ。胸の奥から、不安がじわじわと湧きあがってくる気がする。
「巻き込まれたって……まさか、イーターか……?」
口がからからに乾いている。そこから何とか絞り出した声に、トイフェルはゆるりと頷いた。
「多分ね」
その言葉を聞いた瞬間、亮介は胸の内側から嫌悪感のような物が生まれてくるのを感じた。心の声が、音を伴って耳に響いてくる気がする。
(くそっ! 予兆はあったのに……イーターに狙われる可能性があるってわかってたのに……なのに、こんな事になるまで何もできなかったなんて……。こんなんで、何が魔法だよ!)
胸がムカムカしてくるのを感じながら、亮介はトイフェルに顔を向けた。その顔は、酷く焦りパニック寸前のように見える。
「どうしたら良い……? なぁ、トイフェル。こんな時、俺は一体、どうしたら良いんだ!?」
落ち着きの無い亮介に、トイフェルは「むぅ」と短く唸ると、エアテルに向かって言った。
「エアテル、亮介の顔を舐めてやるんだ」
言われた途端、エアテルは楽しそうに亮介の顔と言い首と言い、お構いなしに舐めまくり始めた。
「うわっ!? ちょっ……何すんだ、エアテル! っつーかトイフェル! エアテルに何つー指示を出すんだよ!?」
「怒りたければ、怒ると良い。ただし、ここが天下の往来だという事を忘れないようにね」
「……!」
ハッとした亮介は辺りを慌ただしく見渡した。そして、誰もかれもが自分に興味のある様子は無く通り過ぎていく様にホッとする。
そして、まず鞄から携帯電話を取り出した。トイフェルに初めて会った時のように、イヤホンマイクを接続し、装着する。これで、多少大きな声でトイフェルと話しても周りからは携帯電話で喋っているようにしか見えない筈だ。その様子に、トイフェルは満足そうに頷いた。
「とりあえず、ある程度の冷静さは取り戻したようだね。それで良い。冷静さを欠いたままじゃ、何をやっても上手くいくはずがないからね」
そう言って亮介の周りを一回り飛んでから、トイフェルは真面目な顔付きで言った。
「それじゃあ、キミがどうすべきかを考えよう。まぁ、ボクとしては探しに行くのが一番なんじゃないかと思うんだけどね。どうかな?」
「探しに行くって……どこに……?」
亮介が問うと、トイフェルは「わかりきった事を訊くな」という顔をした。
「せっかく魔法が使えるんだ。それを利用しない手は無いと思うけどね。それと、こんなナリで思考回路もまだまだ単純だけど、エアテルもイーターだ。鼻はボクやキミよりもよっぽど利くし、何より負の感情の気配には敏感な筈だよ。悩みや不安を抱えた人間を探すのであれば、これほどの適材はいないんじゃないかな?」
言われて、亮介はしばらく考えた。そしてひと気の無いビルの影に入り込むと、魔法で姿を消す。そこで更に魔法を使い、ビルの屋上へと一気に駆け上った。
高いビルの屋上からは、街のほぼ全景が見渡せる。ぐるりと辺りを見渡してから、亮介は宇津木の名刺を取り出した。そしてそれを、エアテルの鼻に近付ける。
「良いか、エアテル。この名刺には、二人の人間の臭いが染み付いているはずだ。俺と、今日会うはずだった宇津木さん。このうち、宇津木さん……俺じゃない方の臭いを探してくれ」
亮介の言葉がわかったのだろう。エアテルは名刺に鼻をこすり付け、ふんかふんかと嗅ぎだした。
やがてエアテルはカッと目を見開き、少々興奮した様子で更に名刺の臭いを嗅ぎだした。マタタビの臭いを嗅いだ時の猫に、少しだけ似ているかもしれない。
エアテルは存分に名刺の臭いを嗅ぐと、今度は名刺から鼻を離して宙をふんかふんかと嗅ぎだした。そして鼻を西の方へ向けると、再び少し興奮した様子で臭いを嗅ぐ。
エアテルは臭いを嗅ぐのを止め、西の方に思い切り首を伸ばした。その顔は何やら、誇らしげだ。
「……あっちか!」
方向を定めた亮介は足に力を込め、思い切りジャンプをしながら魔法を使用した。魔法の力でジャンプ力は普段の何倍もの物になり、亮介はビルの上から上へと跳び渡っていく。これなら、信号などに引っ掛かって煩わしい想いをする恐れが無い。少々体力的に心配ではあるが、逆を言えば体力を使う分だけ空を飛ぶよりも魔力を節約できる。イーターが絡んでいるかもしれない以上、戦うための魔力はできる限り残しておきたい。
エアテルの顔は、まだ西に向いている。沈みゆく太陽に向かって、亮介はがむしゃらに跳び、走り続けた。
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