◇一の章◇第14話「アリス、再会、幸せの国」

 『政府再建計画 始動』


 太田課長がデスクで読んでいる新聞の一面トップに、大きな文字が並んでいる。


「ふーん、今さら政府建て直しって言ってもねぇ。まずはこの治安の悪さをなんとかしてもらいたいもんだよね。まぁ事件がなくなったら、僕たち仕事なくなっちゃうか」


 彼は脂ののった腹を無意識にさすりながら、誰に言うともなく言って一人で笑い声を上げる。

 当然、それに応える者はいない。今年の春に配属になったばかりの新人だけが、その雰囲気に戸惑っておろおろしている。


 元よりあんたは暇でしょ。

 一ノ瀬は心の中で軽くツッコミを入れる。毎度のことながら、太田課長の大きい独り言は疲労をどっと増加させる。

 しかし疲れてばかりもいられない。去年の初秋に一人減員となって以来ようやく新人を補充してもらえたものの、彼が育つまでは指導しながら二人前働かなくてはいけないのだ。

 一ノ瀬は小さく溜め息をついて、立ち上がる。


「課長、パトロール行ってきます」

「いってらっしゃい。進藤くんも連れてってあげてよ」


 言われなくても。

 一ノ瀬は右隣のデスクに座る新人に声をかけ、警察局本部を後にする。




 あの事件から、もうすぐ一年が経とうとしている。

 一ノ瀬はすっかり元の生活に戻り、相変わらずの毎日を過ごしていた。

 職場に行けば次から次へと否応なしに仕事が湧いてくる。駆け抜けるようにタスクを捌けば、あっという間に夜が来ている。ベッドに潜り込んで死んだように眠り、次に目を開けたらもう朝だ。

 余計なことを考える暇もないのは、一ノ瀬にとって幸運と言えた。


 新しく建て直される政府は『家族社会政策推進室』なるものを設けて、少子・高齢社会問題の対応にあたるという。

 公的補助金の導入、相談窓口の拡充など子育て支援事業や里親制度を充実させ、親も子も孤独にならない、さまざまな生き方を選択できる社会を目指すらしい。

 その新組織の長に就任するのは、佐伯 隆之氏——の、養父だ。

 たぶん、あの『村』のことは無駄ではなかったのだ。そう思うことにした。


 時々『村』の近くまで行ってみることはあった。

 少しだけ様子を見に、縦穴を降りていってみようかと思ったりもした。

 しかし結局、今も『村』にいるユウマや知里のことにぼんやりと想いを馳せるに留まった。


 その代わりという訳ではないが、あれ以来『実家』に帰ることが多くなった。いつでも笑顔で迎えてくれる養父母を、血のつながりはなくとも自分の『家族』なのだと実感するようになった。

 帰属する場所の存在は思っていた以上に温かく、心の安寧を与えてくれている。


 時の流れとは不思議なものだ。

 日々のあれこれに揉まれるうちに、過去の記憶は遠い幻のようにすら思えてきた。

 それは自分の中の重要な傷として確かに存在してはいるが、もはや『欠落』ではない。

 どのような傷であれ過去があるということが、現在の一ノ瀬の生き方のスタンスをより迷いのないものにしている。


 時々思うのだ。不思議の国から戻ってきたアリスは、どんな大人になったのだろうかと。

 いずれにしても今はただ、前に突き進むのみだ。




 一ノ瀬は運転席側の窓から燦々と降り注ぐ日光にうんざりしながら、交通量の少ない田舎道にパトロールカーを走らせる。

 もう秋が始まってもいい頃だというのに、真夏を思わせるような強い日差しだ。今年の残暑も相変わらず厳しい。


 助手席に座る新人は、自分たち以外利用していないのではないかと思える信号をいちいち確認しては、指さし点検をしている。

 生真面目な後輩をちらりと見やり、一ノ瀬は口を開く。


「ね、進藤はさ、どうして警察局に入ろうと思ったの?」


 進藤がびくりとして、一ノ瀬の方に顔を向ける。


「え……と、このところ犯罪が多いので、少しでも地域社会の役に立ちたいと思ったからです」

「やだ、面接じゃないのよ」


 くすくすと笑う一ノ瀬に、進藤は照れたように頭を掻く。


「……本当のことを言えば、安定してるから、ですね。うち、母子家庭なんで。早く母親を安心させたかったんです」


 この春、高校を卒業したばかりの若者は、少し大人びた口調でそう言う。彼の声には、温かい家庭で育った者の甘やかさが混じっている。

 ちょっとくすぐったくて、それを本当に伝えたい相手にはきっと、なかなか面と向かって言えない言葉。

 そういう感覚も、何となく分かるようになった。


「一ノ瀬さんは、どうしてですか?」


 切り返される質問に、一ノ瀬はうーんと唸る。


「そうだねぇ。独り立ちしたかったから、かな」

「独り立ち、ですか」

「んー……というより、逃げたかったのかも。それまでの自分の境遇とか、いろんなものからね」


 進藤はへぇ、と意外そうな声を出す。


「一ノ瀬さんみたいな人でも、逃げたいと思うことがあるんですね」

「あるよー、たくさんね」


 彼が自分に対してどういうイメージを持っているのかは、敢えて言及しないことにする。


 今になってつくづく思う。

 自分はあの優しい養父母から与えられる触れたことのなかった温かさから、本能的に逃げていたのかもしれない、と。

 誰かを自分の都合に巻き込むことなく生きようとしていたのかもしれない、と。

 でもそれは違ったのだ。

 人と人とが関わり合い、互いに巻き込み合うことで、決して一人きりでは持ち得ないものを手に入れることができる。

 それはきっと誰の人生にも重要で、前に進んでいくために、なくてはならないものだろう。



 パトロールを終えて庁舎へと戻る。とりあえず、本日は今のところ平和だ。

 駐車場にパトカーを停め、車から降りようとしたその瞬間、手にしたキーを取り落とした。


「あっ……ごめん進藤、先に行ってて。鍵が椅子の下に入っちゃったから」

「あ、はい。分かりました」


 進藤を促しつつ、一ノ瀬は車を降りて座席を後ろに下げる。あの一瞬で、随分と奥まで転がったものだ。

 彼女が椅子の下に手を伸ばそうとした瞬間だった。


「あの、お取り込み中すいません」


 背後から掛けられた声に驚いて、シートと床の間に伸ばしていた腕を打ちつける。


「痛た……は、はい、何でしょう――」


 どうにか鍵だけは救出し、腕をさすりながら慌てて振り返ると、目の前にワイシャツ姿の背の高い男性が立っている。


「私、新政府の『家族社会政策推進室』でこちらの地区の担当になった者で――」


 差し出される名刺。

 そこに真新しいインクで印字された名前は。


「佐伯 誠治と申します。初めまして」


 変わらない笑顔。変わらない声。


「は、じめまして……?」


 名刺を手にしたまま硬直したように見上げる一ノ瀬に、彼は苦笑する。


「えっと……元気?」


 その問い掛けにうまく反応できず、一ノ瀬はただぱくぱくと口を動かす。


「ちょっと急だったかな。一応、君が一人になるタイミングを見計らって声を掛けたんだが」

「き、急も何も……あんた一体、今まで何してたのよ。戻ってくるなら戻ってくるって、ちゃんと言っといてよね! てっきりもう二度と会えないもんだとばかり思ってたじゃない!」


 一ノ瀬が早口で捲し立てると、佐伯は唇の片端をにぃ、と上げる。


「あ、俺に会いたいと思ってくれてたんだ?」

「は? そういうことを訊いてるんじゃないのよ、私はね――」

「俺は会いたかったよ。ずっと会いたかった」


 思わず口を噤む。それはどういう意味だ。


「悪かった。どうせならちゃんと自分の立場を整理してから、会おうと思ってたんだ。そしたら一年も掛かってしまった」


 何と返答したら良いか分からず、一ノ瀬は話の向きを変える。


「……ユウマや知里ちゃんは元気?」

「あぁ、元気だよ。そうだ、ユウマから手紙を預かってきたんだ」


 佐伯はから封筒を受け取った一ノ瀬は、中から便箋を取り出す。

 『村』の体制のこと。『豊穣祭』のこと。それからユウマ自身のこと。

 丁寧に書かれた文字を追っていくと、精神的にもすっかり成長したユウマの姿が浮かび上がってくる。


「良かった。ユウマ、がんばってるのね」

「あぁ」


 思わず滲みそうになる涙を誤魔化すように顔を上げると、佐伯と目が合う。彼は甘く優しい表情で、一ノ瀬を見つめていた。


 まさかこの人、今ずっと私のことを見てたんじゃ……


 一ノ瀬は慌てて視線を逸らし、眉根を寄せて不機嫌な表情を作る。


「で、結局何の用よ?」

「着任のあいさつだよ。自治区役所と、警察局に」

「へぇ……」


 わざと味気ない声を出す。

 今後この人は、一ノ瀬の仕事に関わってくるのだろうか。少しばかり足を速める心音に、気付かないふりをする。


「それでちょっと、千幸に頼みがあるんだ」


 ん?


「……何」

「さすがにあんな風に突然辞めた元職場だし、ちょっといきなりは顔を出しづらいからさ、先に千幸から太田課長にさらっと口添えしてくれないかな」


 いや、やっぱりそうだ。聞き間違いではなかった。

 耳の先が熱くなるのを感じる。佐伯の身勝手さに対する苛立ちのせい、ではない。

 一ノ瀬は口を尖らせる。


「嫌だよ」

「相変わらず厳しいな」


 苦笑する佐伯に、ほんの少しだけ躊躇った。


「嫌だよ、というか、大丈夫でしょ。……誠治なら」


 一ノ瀬は口をへの字にしたまま、佐伯の顔を見ずに踵を返す。


「さぁ、挨拶なんてぱぱっと済ませなよ」


 言い捨てるようにそう言って、庁舎へと歩みを進める。彼に気付かれないように、ふうと息をつく。

 誠治。彼をそう呼んだ自分の声が、いやに耳に残る。

 おかしくなかっただろうか。頬が熱い。きつい太陽光の照り返しのせいだけでは、きっとない。


 大股で一ノ瀬に追いついてきた佐伯にぽん肩を叩かれる。その拍子に、心臓がとくんと飛び跳ねる。


「千幸、昼めしは食べた?」

「まだ」


 努めて冷静に言う。顔は正面を向けたままだ。動揺を悟られてなるものか。すぐ頭の上から、また声が降ってくる。


「じゃあ、挨拶が終わったら一緒に食いに行こう」


 ちらりと目をやれば、見慣れた懐かしい笑顔。

 一ノ瀬は顔を正面に戻し、なおもぶっきらぼうな口調で言う。


「良いけど、どんな高級ランチをご馳走してくれるの?」

「……善処するよ。じゃあまた後で」


 佐伯は苦笑しつつ一ノ瀬を追い越し、先に庁舎の入口へと向かう。

 彼の背中は緊張感でぴんと伸びているものの、どこかうきうきとした気持ちが踊っているようにも見える。


 一ノ瀬はようやく口元を緩める。というより、緩んでしまった。

 心臓が脈を打っている。くすぐったいような、叫びながら走り回りたいような気持ちが、みぞおちのあたりからこんこんと湧いてくる。

 どうしたことか、気を抜くと涙が出そうだ。身体じゅうが熱い。


 庁舎の玄関をくぐる瞬間、佐伯が振り返る。ようやくしっかりと合わさった視線に、今度は自然に笑顔が零れる。


 空が青い。日差しが眩しい。足元をしゅるりと風が駆け抜けていく。

 それに誘われるように、一ノ瀬はまた一歩を踏み出す。


 秋を思わせる風が連れてきたのは、明るい未来だった。

 またここから、一緒に歩いていこう。


 顔を上げた彼女の目に飛び込んできた世界は、眩いばかりの光に満ち溢れていた。



—一の章・了—

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