◇一の章◇第13話「故郷、トンネル、あたたかいもの」
かつて自分の後をついて回っていた幼い男の子は、知らないうちに大きくなっていた。
この十三年間、想像にも及ばない辛さがあっただろうと思う。しかしそれでも、ユウマがちゃんと大切なものを見つけて、それを見失わずにいられて良かった。
少し寂しい気もするけど。
戻ってきた小屋の中。兄妹のように寄り添うユウマと知里に、かつての自分たちを重ねる。きっと二人は大丈夫だ。
佐伯と彼の養父は、まだ何やら話し込んでいるらしい。
手持ち無沙汰になったところで、『追放者』の男と目が合う。
「見事な大立ち回りだったね。怪我は大丈夫かい?」
一ノ瀬はこめかみに触れる。知里に手当てしてもらったガーゼがしっかりと傷口を守っている。
「えぇ、どうにかね」
「また辛い役目を負ったな」
「まぁね、悪者は私一人で充分よ」
『追放者』が表情を翳らせる。
「時々、後悔していたんだ。君に『外』のことを教えたことを」
「なぜ?」
「そのせいで君を不幸にしてしまったんじゃないかと思ってね。真実がいつも幸福を呼ぶとは限らない。知らない方が幸せなこともある。結局、何が正しかったのか。そればかりを考えた時期もあった。セイジから君が『外』で幸せに暮らしていると聞いたときには、心からほっとしたよ」
「私は何も後悔してないわ、おじさん」
何一つ迷いはない。昔から自分はこうだったと、はっきり自覚がある。
「『外』の生活はどうだい?」
「ぼちぼちだよ。仕事はまぁ、たまに理不尽なこともあるけど、やりがいはあるかな。私には向いてると思う」
明るく笑いながら、じくりと胸が苦しくなる。
職場には今まで佐伯がいた。でも、佐伯はセイジ兄ちゃんだった。
日常がひどく遠く思える。あのまま何も知らずにいた方が良かったのだろうか。柄にもなく、そんな疑問が胸を
「君は本当に変わってないね。幸せそうで何よりだ」
「おじさんも。元気そうで良かった」
目の前で微笑む『追放者』に、一ノ瀬は胸の痛みを掻き消す。
そうだ、大切な人たちとの再会をちゃんと喜ばなくては。
ようやく見つけた『故郷』のために、やれるだけのことをするべきだ。
会話が途切れたのを契機にふと腕時計を見やれば、時刻は既に午前二時を回っている。
明日も休むなら、どうやって職場に連絡しよう。それにしたって、いつまで休みを取ればいいのだろうか。
不意に肩を叩かれる。
佐伯だ。
「話、終わった? 明日からまた仕事だろ。あんまり遅くなってもいけないから、そろそろ……」
「え? こんなんで帰れないでしょ。私が祭を撹乱した実行犯な訳だし、いろんなことを釈明するのに私がいなきゃまずいんじゃない? 仕事なら休むからいいよ」
佐伯は一ノ瀬の怪我に視線を向ける。
「君が皆の前に出るのは、危険だと思う」
「でも」
「君はユウマを守った。チサトのことも守った。君の行動はきっと、『村』が立ち直るきっかけになると思う。もうそれで充分だ」
一ノ瀬は口を噤む。
もちろん、一度出てしまった『村』に戻ろうという気持ちは毛頭ない。むしろその立場を利用して、ユウマが犯そうとしていた罪を引き受けたのだ。
しかしそれでも、この『村』に対する説明しがたい気持ちが一ノ瀬を意固地にさせている。
祭に乱入した際の、自分に向けられた無数の敵意と怯えた視線を思い出す。投げ付けられた石を思い出す。
あの人たちと一緒に、かつては自分も暮らしていたのだ。
黙り込む一ノ瀬をよそに、佐伯は続ける。
「もうこれ以上、『村』のことで君を傷付けたくないんだ。『外』で今まで通りの生活を続けてほしい。君には仕事もあるし、家族もいる」
『家族』。それについて反論しようとして、やめる。それは自分が『外』に居ていい理由に足るのだろうか。もちろん、『村』に居座る理由もないのだけれど。
佐伯はなおも黙り続ける一ノ瀬の頭に、そっと手をのせる。まるで硝子細工にでも触れるかのような、優しい手つきだ。
「俺にとっては、君が『外』で幸せに暮らしていることが支えなんだ」
思わず顔を上げる。その拍子に、佐伯はさっと手を引っ込める。
何よ、それ。あなたにとって、私はいったい何なの。
……訊けない。
背中から声がかかる。
「チィ姉ちゃん、安心してよ。この『村』のことは、必ず僕たちが何とかするから」
ユウマだ。先ほどとは打って変わって彼の表情は晴れやかで、瞳には新たな決意が宿っている。
彼の力強い視線としばらく向き合ってから、一ノ瀬は小さく息をつく。
「そうね。『村』のことは任せたわ。いろいろと、ごめんなさい」
未確定要素の多い心中には、ユウマの言葉に甘えることでそれなりの結論を出すことにする。
なぜなら、ユウマにそう言われてなお、ここに残る理由などないからだ。
一ノ瀬は左手首に嵌めた腕環を外し、ユウマに渡す。
「これはお守り。大事に持っててね」
「チィ姉ちゃん……」
一ノ瀬は精いっぱいいつもの笑顔を作る。それがたぶん、今の自分にできる唯一のことだ。
そして、さっぱりとした声で言う。
「じゃあ、帰るわ。みんな、元気で」
小屋を後にし、『出口』まで送ってくれると言う佐伯と二人で森の中に踏み出す。
夜の森の暗さにはだいぶ慣れてきたものの、木々の間を分け入るにはやはり照明が要る。持参してきた懐中電灯は昨晩男たちに捕まった時に落としてしまったので、彼の持つランプの灯りが頼りだ。
『村』に入るときにあった森の不気味さは、今やほとんど感じない。それ以上に、半歩前を歩く彼の表情が気になる。
何か、喋らなきゃ。
これからどうするつもりなの?
あなたは『外』には自由に出られるの?
……また会えるの?
訊きたいことはたくさんある。でもどの答えも、聞くのが怖い。
風の音すら聴こえない、驚くほど静かな夜だ。
唯一聴こえる足音に耳を澄ませていたら、地面のくぼみに躓いてよろめき、思わず彼の腕を掴む。
「大丈夫?」
「……うん」
少しだけ振り返った彼が、ふっと口の片端だけで笑みを作る。そのあまりにも見慣れた笑顔に、喉の奥が詰まる。
「案外そそっかしいとこあるよな」
彼はそう言うと、彼女の右手を取って再び歩き出す。その手は大きくて、温かい。でもなぜか握り返すことはできず、手を引かれるままに歩みを進める。
言葉にできない想いが、胸の中を渦巻いている。
しかしそれは『誰の』、『誰に対する』気持ちなのだろう?
程なくして『出口』に到着する。
そこは相変わらず、ぱっと見は何の変哲もない茂みだ。彼はしゃがみ込み、慣れた手つきで地面の蓋を開ける。ぱこんと音を立てて、縦穴が姿を現す。
「俺が先に行くから」
彼に続いて梯子を降り切ったところで正面に向き直る。
目が合って、息が止まりそうになる。
彼は少しだけ微笑んでから、先を急ぐ。
地下通路に響く二人分の足音に、彼女は心音を隠す。
身体の内側と外側、呼応し合う二つの音が、現実感を奪っていく。
このトンネルが、どこにも繋がっていなければいいのに。
しかしその気持ちにこそ、出口がない。
再び辿り着いた『外』へと続く梯子を、彼の後について一段、二段と昇っていく。
ぱこん。夢の終わる音が耳に届く。
あぁ、そうか。アリスは私だったんだ。
現実の世界の入り口で彼に引き上げられ、そのまま手を繋いで森を歩く。
丸一日ぶりの『外』は、なんだか無機質な匂いがする。
立ち並ぶ木々の影はランプの灯りに照らされて、放射線状に伸び縮みしながらその角度を変えていく。重なるように天を覆う葉に阻まれて、月の姿は見えない。
この世界で、確かなものなど何もない。
ただ、彼と繋がっている右手の熱だけが、ある一つの真実を伝えている。それをどのように意味付けするかは、自分たちに委ねられているのだ。
別れの時は、近い。
やがて森が切れ、舗装道路が現れる。そこから少し離れた場所に、彼女のミニワゴンが停まっている。
彼の歩くスピードが、心なしかゆっくりになる。しかし車までの距離は無情なほど短く、あっという間に辿り着いてしまう。
振り返った彼の瞳は、哀しいほど静かだった。音もなく、手が離される。
「それじゃあ、元気で」
彼のその一言で、分かってしまった。
『村』に戻った覚悟。
養父に自分の想いをぶつけた覚悟。
これから『村』の一員として、政府の一員として、水面下で働いていく覚悟。
これからも『外』で暮らし続ける彼女とは、全く別の世界で生きていくことになるのだ。
その覚悟を、もはや『村』に関係しない自分が阻んではいけない。
彼女は静かに口を開く。
「ねぇ、最後に一つだけ教えて」
「……あぁ」
「今のあなたから見て、私はどう映る? 『チィ』? それとも『一ノ瀬』?」
彼は表情を固めたまま、しばらく彼女を見つめる。
最初の瞬きで視線が下に落ち、わずかに寄せた眉根に何かの感情の切れ端が過る。
二回目の瞬きは聞き逃しそうなほどの小さな溜め息と同時に。
三回目の瞬きの後、その眼差しは再び彼女に向けられる。
それでもなお躊躇うように開かれた彼の唇から、無表情に言葉が発せられる。
「『チィ』はいつまで経っても『チィ』だよ。ずっと変わらない」
かちり、と鍵を掛ける音が聞こえた気がする。
彼女は無意識に、自分の左手首に触れる。そこに嵌まっていた腕環は、ユウマにあげてしまった。
「そっか」
笑顔を作る。
「いろいろありがとうね。セイジ兄ちゃんも、元気で」
「……あぁ」
彼女は小さく「じゃあ」と言って、運転席に乗り込む。
ドアを閉める音が、エンジンの始動する音が、真夜中の闇を震わせる。
ヘッドライトの影に立つ彼の表情は闇に融けている。
彼に向かって軽く手を挙げてもう一度微笑んで見せ、彼女はアクセルを踏み込む。
『故郷』が、遠ざかっていく。
彼女の目には今、光と闇しか見えない。その中間にあるべきものは、全てトンネルの向こうに置いてきてしまった。
■
車を走らせること約十数分、見慣れた自宅アパートに到着する。
距離にしてみれば驚くほど近い。行こうと思えばいつでも行けるだろう。『村』の入り口には、鍵など掛かっていないのだから。
しかしあの『村』は、もはや彼女の居場所ではない。
これまでずっと、彼女の心の一部を暗闇が覆っていた。欲しいものがそこに隠れているのだと思っていた。
しかしこれからは、もう暗闇を求めることはないだろう。光の中で生き続けるのだ。足元を縫い止める影も知らずに。
それは少し、怖かった。
アパートの共同玄関をくぐり、郵便受けを見やる。
ふと、自分の部屋番号の宅配ボックスに何かが入っていることに気づく。彼女は鍵を使って蓋を開け、それを取り出す。
それは一抱えほどの小包だった。大きさの割にずしりと重い。
玄関は薄暗く、送り状の文字は擦れて読みづらいが、養父母からのようだ。何だろうと思いつつ、自室まで運ぶ。
辿り着いた部屋は、相変わらず乱れた状態だ。一昨日の夜に知里と二人で食べた夕飯の片づけが中途半端になっている。
独りだった。
明日からまた、この部屋から出かけてこの部屋に帰ってくる生活が続いていくのだ。
表面上は何も変わっていない。でも何もかもが決定的に、変わってしまった。また一つ、溜め息を落とす。
暗い気持ちを振り払い、小包を開封する。
段ボールの中には、茄子とトマトとピーマンが詰まっていた。
それらの野菜は養家の畑で栽培しているものだ。どれもつやが良く、どこかいびつなかたちをしていて、愛嬌がある。養父母の笑顔がふとそれに重なる。
その野菜たちの上にちょこんと、簡単なメモが添えられている。
『千幸ちゃんへ
お元気ですか? まだまだ暑い日が続いていますが、体調は崩してない?
少し時期が遅くなってしまったけど、畑で野菜が採れたので送ります。これを食べて体力つけて、お仕事がんばってね。
父、母より』
何ということはない短い手紙だ。二日前に養母から来たメッセージも、ほとんど同じ内容だった。
しかし今度は、なぜか彼女の心の中にじわりと沁み込んでくる。
今年は何のかんのと理由をつけて盆にも帰らなかった。あのメッセージだって、結局返信せずじまいだった。
この、少し時期の遅い野菜を、養父母がどんな気持ちで送ってきたのか。
どうして今まで、気付こうともしなかったのか。
『父、母より』、その文字がふやけて揺らぐ。
ぱたり、と一粒の雫が、手紙の上に落ちる。
それを合図にしたように、次々と涙が溢れては流れ落ちていく。突然のことに自分で驚いたものの、一旦流れ出したそれは止めようとする間もなく後から後から湧き出てくる。それはいつしか、嗚咽に変わっていく。
哀しい。
苦しい。
……嬉しい。
その気持ちに、どのような名前を付ければ良いのか分からない。
今までずっと溜めこんでいた様々な想いが混ざり合い、融け合い、滲み出ていた。
今ここに、自分がいる理由。ここまで確かに続いてきた道のり。
欲しかったもの、失ったもの、知らずに手にしていたもの。
そうだ、私の名前は『一ノ瀬 千幸』――明日からまた、歩いていく。
なぜ、こんなにも泣けてくるのか。
ただ、心の奥底から溢れ出す温かなものに任せて、流れるままに涙を流し続けた。声を上げ続けた。
ごめんなさい。
そして、ありがとう。
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