のこすことば

今日

第1話


 袖を少しまくって、腕時計を眺める。アルマーニのシンプルな腕時計。黒い文字盤には、疲れきったような顔の男がうつっている。

「1分おきに時間確認しなきゃなの?」

 右からかかった声に、僕は視線を移した。

「さっきから、時計ばっかり」

いたずらっぽい声で言う彼女。いつも通りに見える笑顔だが、その目は赤い。

 胸にこみ上げた何かをグッと堪らえる。

 「……ああ」

「なにそれ」

「もうそろそろ時間だからな」

何でもない風を装ってみる。彼女が息をのむ音は聞こえないふりをした。「そう、だね。電車、乗り遅れたら大変」

 冷たい風が、がらんとしたホームを吹き抜けた。舞い上がった枯葉はカラカラと虚しさを残す。寒い、と思ったのは、気温のせいだけではなさそうだ。

 もう一度時計を確認する。長い針が僕らの時を削っていく。何度見たって何度祈ったって、その時間が返ってくることはない。

 2人目を伏せ、電車を待つ。沈黙が胸に詰めた栓を溶かし、感情が溢れそうになる。彼女も、こんな気持ちなのだろうか。こんな、苦しくて、悲しくて、いとしい――

 ガガッ――まも…く、3番ホームにでん…がま…りま…ぅ……

 雑音混じりのアナウンス。それでも、これが僕の乗るべき電車だとすぐにわかった。スピーカーの調整をした方がいい、なんて愚痴を空元気で呟く間もなく、電車入ってくる。

 「じゃあ、行くから」

轟音に紛れるように呟く。グズグズと荷物を持ち直し、ドアが開くのを待った。目は相変わらず伏せたままだ。

 伝えたい。

 伝えなきゃ。

 伝えられれば。

 でも――

「……待って」

 彼女の口から言葉が漏れる。そのことに一番驚いたのは、彼女自身だったようだ。大きく目を開き唇を震わせている。

「あっ……ちがうの。待ってほしいんじゃ、ないの。待たないで。ほら、乗って、乗ってったら。はやく行きなよ」

 身振り手振りを交えて捲したてる彼女。動きに合わせ、長い黒髪が揺れる。出会った時はまだ肩にかかるくらいだった彼女の髪も、今では胸ほどまでのびていた。

 ぼたり、と雫が地面に落ちる。

「……さよなら、ほんとに、さようなら」

濡れた彼女の頬から目をそらし、僕は後ろを向いた。そのまま振り返らずに足を進める。

 「―――」

 背後で扉が閉じた。

 残した言葉は、きっと届くことはない。



 ――好きだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

のこすことば 今日 @kehu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ