第4話  天換、プシュケー


 意識世界の鏡の中で。

 ボクは、黒髪の少女と向き合っていた。


 柔和な顔立ちの、優しげな印象をした少女。

 年齢はボクと同じくらいだと思う。西洋ファンタジーめいた銀色の鎧を着込んでいる姿の彼女は困惑した表情でこちらを見つめて


「これボクなの!?」

「ハイ」


 鏡の中の少女がボクに合わせて慌てふためく。

 いや、逃避は止めておこう。これはボク、ボクの姿を映したもの。

 つまりボクが慌てているのだ。そんな無駄な思考を走らせるほど、事態を飲み込むのに時間がかかった。


「どういう事!? 女の子っぽい外見の男になったって事!?!?」

「違いマス。肉体上は完全に女性になってマス」


 武装した姿で詰め寄るボクに、とても冷静に対処するフクロウ。おそらくある程度ボクの混乱を予想していたのだろうと気付いたのは後の事。


「なんでっ、どうして!?」

「アナタをアナタで無くする条件として、生まれながら性別が異なったというポイントは非常に高いからデス」


 ボクをボクで無くする。

 これはボクに背負わされたギガーテの呪い、『隷属者の刻印』を騙すための絶対条件だったのは聞いていた。そのための改変を行うとも。

 成る程、男として生まれたボクは『生まれた時から女だった』人物に該当し得ないのは分かる。

 分かるけど。


「だからって、よりによって女の子に」

「異なる種族、ミノタウルスやケンタウルスに改竄する手もあったデスが、それだとアナタと今の血族との距離が開きすぎるので止めておきマシタ」


 ボクは押し黙った。

 ミノタウルスっていうのはあれだ、ゲームでよく出てくる牛頭の獣人。ケンタウルスは下半身が馬人間。

 確かにどちらもボクとはかけ離れた存在になったとは思うけど、なりたいかと言われると遠慮したい。たとえそっちは性別が一致するのだとしても。


「とにかく、その“アナタではない体”ならギガーテと問題なく戦える。今はそれで納得してくだサイ」

「うう、分かったよ」


 結局はボクの望んだ事。

 ボクの望みをこのフクロウは叶えてくれたのだ、文句を言う筋合いではない。

 ……まあ心に違和感というか、深刻さとは少々違った「これで良かったの?」という疑問符が拭えないにしても。


「心の準備はいいデスか? アナタの夢を解いた瞬間、そこはアナタがギガーテに吹き飛ばされた直後。待った無しに世界が動き出すデス」

「了解」

「戦い方は“プシュケー”に刻まれているデス。慌てなくても体は動いてくれるはずデス」

「うん」

「そして──決してギガーテに屈してはいけないデスよ」


 ギガーテに屈する。

 それは神霊以外の存在を屈服させる呪いが発動する条件。


「今のアナタは神サマの力で体を組み直した、半分神サマのような状態デス。でも半分は半分、ニンゲンの要素は残っているデス。だから」

「ボクが負けを認めると、このボクも『隷属者の刻印』を受けちゃう。そういう事なのか」


 そうなると元の木阿弥、ボクは再び無力な存在になる。

 今ここで負けたら妹を、千里を守れなくなる。


「仮にピンチになっても諦めない。それを忘れないでくだサイ」

「分かった。いくよ」

「了解デス。アナタの意識を覚醒させるデス。3……2……1……」


 グッと奥歯をかみ締める。


「ゼロ!」


 神鳥のお告げは下されて、ボクの意識は覚醒した。


******


 眼前に迫る黒い影の放つ威圧感、重圧感に千里は腰が抜けたように動けなくなっていた。

 実際腰が抜けたのかもしれない。生理的に感じる恐怖、訳も分からないままに感覚が知らせる恐怖に怯え、脱力感に囚われて逃げるどころか立ち上がる事も出来ないのだから。


「い、いや、助けて……」


 どうにか這いずりながら逃げようとする。遠ざかろうとする。

 何が起きてるのか、あの影が何なのか、全く分からない。

 分からないけど、感じる。

 あの影から逃げなければならないと。

 そして、もう逃げ切る事は出来ないのだと。


「助けて、誰か……」


 当て所なく、救いの手を求めて両腕だけが何も無い前方に伸ばされる。

 その手を掴む者は誰もいない。


「誰か、助けて……!」


 振り絞った最後の悲鳴。

 千里の願いも空しく、巨影の掌が彼女に覆いかぶさり


「させっ、ないっ、よっ!!!」


 赤黒い闇の世界を、横薙ぎの銀光が走り抜けた。


******


 ボクの周囲、見ていた景色が一変した。

 それはボクが夢から醒めたため。

 白いフクロウが見せていた、夢の中の夢から覚醒したからだ。


 広がるのは見覚えのある赤黒い風景。

 心をざわつかせる嫌な気配に満ちた世界。

 そう、ボクはここでギガーテに跳ね飛ばされ、


「誰か、助けて……!」


 微かに届いた少女の悲鳴。

 聞き覚えのある、か弱い声。

 誰の声かなんて確認する必要もない、普段の舌足らずな様子は微塵もなく、恐怖に震えるそれは。


「千里──!!」


 反射的に地を蹴った。

 特に力を入れたわけでもない跳躍が周囲の建物を跳び越える勢いだった事に気付いたのは後の事。

 声の方角に目を向け、その先に。

 ボロをまとった原人のような姿をした巨大な化け物が、足に比べて異様に長い腕を伸ばし、千里を掴もうとしていた。


「あれがっ、ギガース!」


 影にしか見えなかった巨人の全容がはっきりと見える。これも神サマの力の影響だろうか。


『そうデス。“グラウクスの瞳”──心眼と言った方が分かり易いデスか』

「フクロウ? どこにいるの?」

『ヘイゼル。ワタシの名前はヘイゼルデス』


 そういえばそんな名前を聞いていたような気がする。色んな事に動揺して記憶から抜けていた。


『酷い話デス。そしてこれは念話、テレパシーで話しているデス。戦闘に巻き込まれると死んでしまうのデス』

「そ、そう」


 神の遣い、あまり強くないらしい。


『そんな風に、ギガーテを実体として見極められる者でないとギガーテに傷をつける事も出来まセン。でも』

「でも?」

『今のアナタでは、ギガーテを滅する事は出来ないと思いマス』

「? それはどういう」

『詳しい話は後でするデス。今は出来る範囲でギガーテを滅多切りにしてやってくだサイ』

「分かった、そうする!」


 眼下に映る巨人の姿。

 今まさにボクの妹を食い殺そうとする悪鬼羅刹。


「させっ、ないっ、よっ!!!」


 ボクはそのまま何も無い宙を蹴り付け、巨人に向かってダイブする。

 突進の力に落下の勢いを追加し、


「離れろ、このバケモノ!!」


 振りかぶった右の拳がギガーテの横面を直撃、思い切り殴りつける。


「グォオオオオオオオッ!?」


 あの時とは立場が逆転した。

 妹を庇って吹っ飛ばされた時とは反対、5メートル以上はあろうかという巨体がボクの細腕に打ち倒され、叩き付けた地面で大きくバウンドし、そのまま無様に転がったのだ。


 人どころか灰色熊ですら体が四散しそうな一撃だったが、ボクには分かる。

 あの程度の攻撃で、ギガーテがどうにかなる存在ではない事が。


「あ、あ、あ……」


 転がったギガーテを油断なく見つめていたボクの耳に、再び届く妹の声。ただし今度のは悲鳴ではなく、呆気に取られた自失のそれ。


「ち……そこのキミ、早くここから逃げて」


 目を合わせず、目を向ける事すらせず、背中越しにボクは言い放つ。


「え、え、あ、あの……?」

「いいから、早く!」

「っ、は、はいっ」


 半ば怒鳴るようにして追い立てる。身を竦ませた千里はフラフラしながらもここから立ち去っていった。

 これでいい、今のボクは、もう千里の兄じゃないんだから。

 それに。


「誰か助けて、って言ってた、よね」


 誰か。

 助けておにいちゃん、ではなく誰かと言っていた。

 ついさっきまで一緒に居た、そして千里を庇った兄の存在など忘れてしまったような、縋る者のいない悲鳴。

 それが何を意味するか。

 兄が頼りにならないから眼中に無かったか、から頼るはずもなかったのか。


「ウォォォオオオオン!!」

「……悲しむのは、こいつをやっつけてからにしよう」


 雄叫びを上げて立ち上がる巨人の威容に気を引き締める。先の一撃は妹からギガーテを引き離すのが目的ではあったけど、思った通りダメージを負った様子は見られない。


『腰の神剣を使ってくだサイ!』

「うん、分かってる」


 フクロウから念話が届く。

 神剣パラディオン、女神の遣いから託された巨人を断つ刃。

 包丁以上の刃物といえばノコギリくらいしか使った事のないボクの手に馴染む神サマの剣。

 当然だ、今のボクはその神サマの力で形作られたのだから。


 剣を抜き放つ。ボクの体には少し大きめの剣、しかし感触は腕の延長、それ以上の同調を以って女神の威光を構える。


「いくよ、ギガーテ!」


 異形の巨人がボクを迎え撃とうと右腕を振り上げ、力任せに叩き付けて来る。あの時のボクはギガーテの圧倒的な威圧感に屈し、怒涛の勢いに飲まれて身動きひとつ出来なかった。

 でも今は違う。


「そんなのっ、見えてるよっ!!」


 寸前で体を躱し、軽くジャンプ。

 そうしたボクの目の前には、攻撃のために前屈姿勢になった巨人の顔。


「でやっ!!」


 銀光一閃、巨人の両目を薙ぐ。


「グオオオオオオォォォl!!!」


 視界を奪われ、何も見えないままに掴みかかってくるギガーテ。力強さこそあるが標的の見えていないデタラメだ、まるで脅威に感じない。


「しゅっ!」


 横に抜け、すれ違い様にわき腹を強くなぎ払う。目を切り裂いた時と同様、血の代わりに噴出する黒い粒子が宙を舞う。

 しかし損傷部から飛び散ったそれらは、まるで時間を巻き戻したようにギガーテの体内へと取り込まれる。

 その間、3拍程度。ギガーテに負わせた傷はそれだけの時を数えて修復を完了していた。


「あれが不死性って奴?」

『そうデス。ニンゲンの要素を持ってるアナタの攻撃なので、少し治るのが遅いデスが』

「あれで遅いの!?」

『デスので、もっと大技を仕掛けてくだサイ。動きを封じて大技で仕留める。分かりマス?』

「了解!」


 前のめりに奔る。

 ボクの体を弾丸のようにして加速する。既にギガーテの両目は完治しており、視界は戻っている。

 けれど奴は追い切れない。鈍重なギガーテの知覚を超えて電光疾駆、間合いを支配する。


「グアオゥ!?」

「遅い!」


 振り上げた一撃が大樹のような右足を深く刻む。神剣の切れ味は空を素通りするかの如く、手応えを返す事すらなく易々と巨人の足を切り裂いていく。


「グオオオオオオ!!!」


 半ばから断ち切られた巨人の根。自重を支える力を失い、バランスを崩したギガーテの巨体が大きく傾ぐ。


「今!」


 好機を見て取ったボクは跳躍する。

 巨人と距離を置くため。

 大技の効果範囲から自身を逃すためだ。


「“プシュケー”、出力最大……!」


 ボクの体に金色の輝きが渦巻く、青い輝きが煌く。

 これは女神の光。

 力を借りた女神アテナの光輝、ボクの存在を源泉とし、呼び水として興した聖なる“プシュケー”。


 放出するボクの力に神サマの剣が同調、力の波動が剣本体に秘められた“プシュケー”を膨張させ、巨大な刃を顕現させる。


 神剣パラディオン。

 女神アテナの親友にして軍神と比肩した戦士、パラスを象った似姿の剣。

 アテナの力と共鳴し、放たれる絶技は。


「グラウ──」


 戦神を称える言葉、『輝く瞳を持つ者』の意。

 気合を込めてボクは吼える。


「コーピス!!!」


 天剣より降り注ぐ、光の瀑布。

 眩い輝きは赤黒い世界を照らし、闇の帳を引き裂き、力の奔流は元凶たる巨神へと襲い掛かる。

 幾重にも並び立つ光の束刃に飲み込まれ、切り刻まれ、打ち据えられた古の異邦神は


「────ッ!!」


 声にならない絶叫を上げ、白銀の爆光にその姿を消した。


******


 光の柱が霧散した後、巨神の肉体は跡形も無く消滅していた。


「……いや、違う」


 目を凝らし、ボクは巨神を打ち倒した場所にそれを見出す。

 大きさは人の頭くらいだろうか、暗紫色に明滅する黒い物体。不気味な輝きを僅かに放つそれが鎮座していたのだ。


 グラウコーピス、女神の天なる絶剣を受けて原型を留める物体。

 それが生命の鼓動を点らせているとなると、ボクにも凡その見当がついた。


「ギガーテの、心臓?」


 フクロウから聞いていた。ギガーテは不死の存在であり、神々も力を減じた上で封印するしかなかったらしいと。


「じゃあ、これ、どうすれば」


 困惑するボクの目の前で、ギガーテの心臓を中心に再び黒い粒子が集まり始める。この現象はギガーテとの戦いの最中に何度も見た、巨人がボクから受けたダメージを回復する際に何度も。


「この状態から復活するっていうの!?」


 想像を超えたタフネスぶりに一歩下がり、再び剣を構える。

 しかし、その心配は無かった。


「任せるデス!」


 結界に走る一条の白い光。

 再生しつつある心臓の間近に舞い降りる神の遣い。


「ここまで弱ってれば封印出来るのデス、『オリーブの封印』!!」


 未だ脈打ち、再生を図る巨人の心臓を緑の輝きが包む。

 悪魔の心臓を取り囲んだのは無数の双葉。早回しフィルムのように成長していく蔓が心臓を包み込み、明滅する輝きすら漏らさぬ程に埋め尽くした後、地中へと吸い込まれるように姿を消していく。


 『オリーブの封印』、女神アテナの神性を顕す植物による封印。

 心臓の封印を以って、この場からギガーテは完全に消滅した。


「なんとか上手くいったデス」


 いつの間にかボクの頭の上に乗り、安堵の声を漏らすフクロウ。


「ヘイゼルデス、ヘ・イ・ゼ・ル」

「それでヘイゼル、ギガーテはやっつけちゃったけど、この変な空間からはどうすれば出られるの?」

「ギガーテが封印された時点で空間の“プシュケー”は正常に戻りマスから、そろそろみんな目を覚ます形で解放されるデス」

「そっか、良かった」


 神の遣いが戦闘終了を保証してくれたのを聞き、ボクは妹が走り去った方角を顧みる。上手く逃げられたのか、誰も居ない大通りの一角に千里の面影を追って──やめておく。

 それは未練だ、ボクは千里を救う事を選んで関係性を諦めたのだから。


「ワタシ達は先に出るデス、アナタに色々説明しなければなりまセンし」

「……うん」


 この場から立ち去る口実の提案、今はその言葉がありがたい。


「『ヘルメスの小路』」


 ヘイゼルの生み出した光の穴を通り、ボク達は悪夢の世界から帰還した。


******


 光の道の果てになったのは、ボクと妹が出かけていた繁華街の大通り。

 その場にいた人達は残らずギガーテの結界『巨神殿』に囚われたせいか、不自然なまでに人通りの無い空間が広がっている。


 無人となった街中にひとり立つ銀の鎧を着た少女という構図。

 これはちょっとシュールだな、と思う。


「あと2分もしないうちにみんな戻ってくるデス」

「そっか。じゃあその前に移動しないとね」


 事情を知らない他人からすれば、今のボクはただのコスプレ少女だ。目立ちたくないし、それに。


「千里と出会ったら、どんな顔をすればいいのか分からないし」

「デスね。では路地裏にでも入って『天換』を解いてくだサイ」


 ……うん?


「……ああ、鎧を解くって事だね。この格好じゃ目立ちすぎるし」

「まあ鎧も解けますケド」


 ……うん???


「その姿形だと、妹サンもアナタがお兄さんだと分からないでしょうしネ」


 何か齟齬がある。

 ボクとヘイゼルの間では、何かが噛み合っていない。

 いやいや、会話のズレの示すところに見当はついた、ついたんだけど。

 もし違ったら、それはとてもがっかりする内容だったので、フクロウにそれを尋ねるのには数秒の時間とかなりの勇気を要した。


「あの……ひょっとして、ボク、男に戻れるの?」

「? 戻れますヨ、今なら」


 うなだれる。脱力する。

 勇ましい銀の鎧を着たボクが両手を地面につき、膝立ち姿勢になって全力でつっぷす。


「ど、どうしたデス?」

「いや、だって、相当の覚悟でボクは『ボクでなくなる事』を決めたんだよ!? それが普通に戻れるって聞いたから」


 安堵のあまりに力の抜けたボクは笑った。気の抜けた、しまりの無い笑顔をしたと思う。


 けれど。


「……ハイ、戻れマス」


 女神の遣い、白いフクロウはボクの杞憂を完全には否定しなかった。

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