湖の屋敷にて(その一)
「母さま。湖の風がそろそろ冷たくなってきました。室内に戻りましょう」
バルコニーにある椅子に腰掛け、大きな人形のヴィクトールを膝に抱いて眠っていた母アリアを、ウルリッヒは優しくゆり起こす。星降りの湖アルフェンカから流れる夜風は冷たいのでここで眠ったままでは体調を悪くしてしまうだろう。
傍には、母の看護師兼メイドであるレリーチェが控えている。このメイドは母アリアには絶対服従で、たとえ身体に悪いことだとわかっていても、母の意に反することであれば、母を起こして室内に戻らせたりはしないのだ。まったく、一体何のための看護師の心得なのか。
「……ん、だぁれ?」
母の言葉は、まるで舌足らずの子供のような口調。
その幼い口調と言葉の内容が、ウルリッヒの傷だらけの心をさらに抉る。
「……アリア母さま。母さまの息子のウルリッヒですよ」
「……息子、私に息子なんて、いたのかしら?」
「いますよ」
「そうなの……?」
「そうですよ、さぁ、室内に戻りましょう。もうすぐ父さまも帰ってきます。父さまは母さまに出迎えられるのが好きですから、きっと喜びますよ」
しかし母アリアはさほど興味がなさそうに、ただ膝に抱いた人形ヴィクトールを見つめている。
「……わたし、今はそれよりもヴィクトールと遊びたいわ。レリーチェ、ヴィクトールのお洋服と靴はどこにやったかしら?」
「それでしたら室内のテーブルにございますよ、奥様」
それを聞くと、結わずにおろしたままの銀色の髪――いや白い髪をふわふわ風になびかせて、アリアはさっさと部屋の中に入ってしまう。
「……っ!」
ウルリッヒは苦い顔で、その母の背中を見たあと、思わずレリーチェの緑色の瞳を睨んでしまう。……八つ当たりだとわかっているのに。
しかしメイドのレリーチェはそんな視線を向けられてもなお、にっこりと微笑んでみせた。
「ウルリッヒ様も室内へ入られませ。今、温かいお茶でも淹れさせましょう」
「……そう、だな。そうしよう」
この湖畔の別荘における母アリアの部屋は、ベッドやクローゼットなどの家具のサイズを除けば、まるで子供部屋のような内装をしていた。
カーテンや壁紙は小さな女の子が喜びそうなセンスだったし、あちこちにクマやウサギ、ネコやイヌのぬいぐるみが散乱していたし、本棚に並ぶ本といえばごくごく子供向けの物語ばかり。
「ねぇ、そこのあなた、ヴィクトールのお靴を別のに変えたいから、手伝って?」
「……はい、母さま」
ベッドの上でヴィクトールのドール服や靴や靴下や帽子を目一杯ちらかして、母アリアは遊んでいた。
ベッドサイドの椅子に腰掛けて、ウルリッヒはそれを苦々しい顔で見守り、時に乞われれば人形の着せ替えを手伝う。
と、アリアが首を小さくかしげて問う。ふわふわの白い髪が、ゆれた。
「あなたはさっきからどうしてそんなに苦しそうなお顔をしているの? どこか痛いのかしら? それならレリーチェがお薬を出してくれるわよ」
「……どこも、痛くなどありませんよ。大丈夫です……大丈夫ですから」
「そう……なの?」
「大丈夫ですよ……いつものことです、母さま」
「奥様、ウルリッヒ様。ただいま旦那様とテオドル様がお帰りになりました」
「シグルドだわ!」
アリアは靴が片方脱げた状態のヴィクトールを抱きかかえ、部屋を飛び出そうとする、が……その前に向こうから扉は開いた。
現れたのは、かつては美男子として貴婦人たちの胸をときめかせたであろうグレーの髪をもつ偉丈夫。それに中肉中背で茶色の髪をした朴訥そうな若者だ。
「おかえりなさい、シグルド!」
「ただいま、アリア」
シグルドと呼ばれた偉丈夫とアリアが抱き合って帰宅を喜び合う。
そのアリアにおずおずと声をかけたのは茶色の髪の若者だ。
「た……ただいま戻りました、母上」
だが、それを聞いて真っ先に反応したのは、呼びかけられたアリアではなく、ウルリッヒだった。
「お前……! お前が母さまをそう呼ぶな! よそ者のくせに!」
憎悪にも近い瞳で茶色の髪の若者を睨むウルリッヒ。
だが。
「止しなさい。彼は――テオドルは家族の一員で、このマギシェン家を継承するべき人物だよ。お前がそのようなことをいうものではない」
ウルリッヒに、冷たい視線と言葉を投げつけたのは、他の誰でもない父親であるはずのシグルドであった。
「父上、しかし……」
「お前はどうあっても、マギシェン家を継げないのだよ。そんなことをしているよりも、お前にはもっと他にやるべきことが――」
「ボ、ボクは、ボクは母上の為を思って、それに……それに……」
ウルリッヒはすでに、今にも泣き出しそうな声と顔であったが、父シグルドの視線は容赦なく冷たく、蛇のように一切の感情がないそれだった。
「部屋に下がりなさい。今日はもう顔を見せないでよろしい」
「……はい、父さま……おやすみなさい……母さまも、おやすみなさい」
とぼとぼと、力なくアリアの部屋を出ていくウルリッヒの華奢な背を、テオドルが心配そうにずっとずっと、見つめていた。
「大丈夫でしょうか……。シグルド父上……今日のは、さすがにあんまりだったのでは……」
「……あの強情には、あれだけ言っても無駄というものだよ」
そうは言いながらも、シグルドの声には苦いものが混じっていた。やはり父親なのだ。……実の母親であるはずのアリアはといえば、さっきからドールのヴィクトールの脱げかけた靴下をつまらなそうにいじっているだけが。
「シグルド様、テオドル様。ウルリッヒ様が屋敷の外に出てしまわれましたが……いかがいたしましょう……」
少しして、従僕たちがおろおろとそんな報告をシグルド達に届けてきた。
だが、それに対するシグルドの返答はただ怒りをぶつけるものだった。
「私の前でその名を出すでない!!」
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