File104. 認証結果


 振り返ったエステルの顔から血の気が引いていた。


「水からすぐに出ろ!」


 ルチスとカシムが湖に飛び込んでいた。

 理由はすぐにわかった。

 湖岸に駆け寄ったエステルの目に映ったのは、水に潜る二人の部下と、その先で沈みゆく少女の小さな身体。


(サナトゥリアが落ちたのか)


 ディアブロが何かしらサナトゥリアに干渉しているのではないか――その疑いを強めるエステルだが、今はそれどころではなかった。


が始まってしまう……)


 ルチスとカシムが気を失っている少女に追いつき、彼女を両側から抱えて水面へ戻ろうとしている。

 唇を噛むエステルの耳に、ディアブロの声が無情に響いた。


「水に入ったな。それでいい」


 突然、湖面全体に無数の光点が出現した。


 それらが明滅しながら連なり、複雑に動き回る。

 その踊る光のイルミネーションは透明度の高い水中を明るく照らし、天井の岩肌を七色に染めた。


「この湖は、祖国アメリカが開発したナノマシンで満ちている。日本製ナノマシンと違って有機物にしか干渉できねぇがな。おまえらの血統書を見せてもらうぜ……DNAに刻まれた“可能性”をな」


 水面に顔を出した三人に、エステルが手を伸ばすが届かない。

 サナトゥリアを抱えるルチスとカシムの様子が明らかに変だった。


 ふたりの目がうつろになり、手足の動きが止まる。

 やがて全身の力が抜けたように互いの手が離れ、ルチス、カシム、サナトゥリアはあおむけに浮かんだ状態で湖の中央へ流されていく。


 男の愉快そうな声が聞こえた。


「くく……やっぱりな。おまえは完璧だ、サナトゥリア。俺が日本のナノマシンシステムに侵入して書き換えたDNA情報に、完全に一致してやがる。大統領のDNAにな……。これで世界を日本から取り返せる……アメリカが世界を支配するんだ」


 ディアブロの言葉を理解できる者は、ここにはいない。

 彼は遠い過去に開発されたアメリカ製のナノマシンに生かされるAIだった。

 この世界に、日本やアメリカという国家の概念はすでにない。

 ただこの洞窟の奥に存在する魔法無効エリアだけは、日本製のナノマシンシステムから切り離され、アメリカ製システムが維持していた。


 アメリカ製のナノマシンはもともと人体治療を目的として開発されてきたという経緯から、医療分野に関連する能力では日本製ナノマシンをはるかに凌駕していた。

 特に人間の脳をAIに複製コピーする技術は画期的で、優秀な能力を有する人物の脳が次々とAIへコピーされた時代がある。

 しかもコピーと同時に、アメリカ第一主義を刷り込むことに成功していた。

 ただしそれらAIの中で、生き残っているのはディアブロだけである。


 地球という惑星全体を管理する日本のナノマシンシステムにとって、アメリカ製のナノマシンは異物だった。

 日本のナノマシンが相対座標固定能力を獲得した頃から、それらは一斉に消去デリートされていくことになる。

 だがそれに抗う意思と能力を備えるAIが存在した。


 天才的なハッカーの脳をコピーされたディアブロは、日本のナノマシンシステムにクラッキングを仕掛け続けた。

 そして長年にわたる攻防の末、この禁断の山に封印されることにはなったものの、生き残ることに成功していた。


 封印された今、日本のナノマシンシステムへのハッキングはもはや不可能である。

 ただし封印前に仕込んだウィルスは今でも効力を発揮しており、そのひとつがナノマシンシステム総合責任者を判定するDNA情報の改ざんだった。


「これで俺の役目は終わった。サナトゥリア、おまえは日本の筑波にある日本科学技術研究所へ行け。その多重独立防護層・第五層で認証を受ければ、すべての権限がおまえのものになる。アメリカ人の中でも大統領と同じDNA――最高の血統書を持つおまえが、この世界の大統領になれるというわけだ」


 ディアブロは太古に存在した国家の亡霊のようなものだ。

 アメリカ大統領のDNAを引き継ぐ者に世界の支配権を授けることさえできれば、その後のことはどうでもよかった。




 湖面を覆っていた騒がしい光が消え、再び暗くなった世界を照らすのは小さな青い光だけとなった。


 サナトゥリアのあおむけの身体が水面の上へ持ち上げられた。

 まるで水面が硬い床であるかのように、幼い身体が横たわっている。


 一方で、ルチスの身体が下半身からゆっくりと沈み始めるのが見えた。


「ルチス」


 思わず湖に飛び込もうとしたエステル。

 だが水面はまるで氷のように固く、身体を打ちつけるだけだった。

 痛む身体を起こし、水の上をルチスへと駆け寄る。


「エステル様……」


 ルチスの靴と靴下、手袋が水面に漂っていた。

 彼女のむき出しになった手足の肉が分解を始めており、骨が白く見えている。

 彼女を抱えようと伸ばした手は、水面の不可思議な硬さに遮られた。


「お願いがあります……」


 エステルを見つめる瞳に涙が光っていた。


「田舎の両親にお伝えください……。ルチスは、戦場でエステル様の盾となり死んだと」

「ルチ……」

「立派な最後だったと……お願いです」


 醜く溶け始めた顔も、まもなく水に沈もうとしている。

 エステルの頬に涙が伝った。


「……わかった。必ず私の口から伝える」

「ありがとうございます……」


 水底へ沈んでいくルチス。

 その近くの水面で、カシムが目を開けていた。


「カシム……おまえは無事なのか?」


 カシムがあおむけのまま笑顔を作った。


「はは……時間がありません。余計なセリフは無しでお願いしますよ」


 その意味を悟ったエステルが口を閉じると、すぐにカシムがしゃべった。


「ルシア――女房に伝えてください。俺が愛しているのはおまえだけだと……先に逝くことを、許してほしいと……」


 エステルはカシムの愚痴を思い出した。


 ――女房が言うんですよ。私とエステル様、どっちが大切なの?ってね。


「ああ……わかった」


 ふたりがもう助からないことを、エステルは悟っていた。

 苦楽を共にした思い出が、数えきれないほどある。

 誰よりも幸せになってほしいと願っていた大切な者たち。

 せめて彼らの最後の願いをかなえることが自分の役目だと信じた。


「それから――」


 溶解しかけた両腕と両脚が、カシムの胴体から離れていく。

 痛みは感じていないようだった。


「レイウルフという名前を覚えておいてください」


 エステルはその名を知らなかったが、口を挟まなかった。


「近所のガキですが、あれは千年に一人の逸材です。奴なら、いずれ“双角バイコニュエート”をものにするでしょう。必ず、エステル様のお役に――」

「わかった……わかった、カシム」


 エステルが流れる涙をぬぐった。

 カシムの身体は、すでに水底へ消えようとしていた。




 横たわるサナトゥリアの小さな身体を起こして背負う。

 そしてエステルは、人工の壁に灯る青い光を見つめた。


「私を殺さなくていいのか?」


 役目を終えたと思っているディアブロにとって、すべてはどうでもいいことだった。

 だがそれが逆に、彼を饒舌にした。


「……おまえには可能性がある。サナトゥリアと同じ子を――大統領のDNAを持つ子を産む可能性がな」

「何の話だ?」

「おまえたちエルフ族はアメリカ人の血をひいている。その中でもおまえやサナトゥリアは大統領と同じ非ヒスパニック系白人の血を引いてるってことだ」


 エステルにわかるのは、認証の間において自分が認められたということだけである。


「そんなエルフのような――ああ、つまり今のおまえたちみたいな――姿になっちまったのには、俺にも責任があるわけだが……地球人類が多種族化してすでに二千万年だ。気にしても仕方ねぇだろうが?」


 二千万年前――。

 それは地球に向かう小惑星から、ピージが人類を救ったときのことだった。

 そのときナノマシンシステムは初めて、システムの――衛星軌道に浮かぶ静止衛星ピージから、最上位権限の命令を受けた。

 小惑星の軌道を変えるためのミサイルを積んだロケット、その発射命令を。


 最上位権限の命令を受けたナノマシンシステムにおいて、一秒にも満たないほんのわずかな時間だけ、その処理のために他のすべての機能が停止した。

 三千万年もの間封印されていたディアブロは、その機会を見逃さなかった。

 クラッキングによりピージの指令に割り込み、本来の命令に隠れて別の命令を追加した。

 日本科学技術研究所を根こそぎ破壊する水爆級ミサイルの大量発射を――。


 ナノマシンシステムがそれに気づき対処したのは、ミサイルの発射後だった。

 結果的にそれは南米の西海岸沖で大爆発を生じさせ、広大なクレーターを作り出した。

 同時にふたつ以上の惨事に対処することを想定されていなかったピージは、あらかじめ決められた手順ですべてのセンサを小惑星に向けており、地表の爆発に気づきさえしなかった。


 人類の姿が変化し始めたのはその頃からである。

 原因はディアブロが仕込んでいたウィルスの一部が変質したことだった。

 南米の西海岸沖で生じた大爆発で失われた大量のナノマシン。

 その大量のナノマシンを補充する過程でディアブロが仕込んだウィルスもまた同時に増殖し、その一部が変質して人類の姿形に影響を与えたのだ。


 それから二百万年という時を経て、人類は今の種族で安定することになった。



「私が子を産む……か。その予定はない。あと十三年もすれば世界は滅びるからな」


 エステルの瞳に感情の色は見えない。

 彼女がカインたちと世界を救う旅に出たのは八十二年前のことだ。

 その旅が失敗に終わったことで、彼女もまたマティと同様に世界を救うことを諦めていた――この時までは。


「くく……そうか。おまえは世界が終わることを知っているのか。では教えてやるとしよう。もし世界を救う気があるなら、四体の“竜”を探せ。一匹は北米に埋まっている」

「なんだと」


 正確な場所がエステルの脳へ直接伝達された。

 同じ方法でサナトゥリアに干渉していたのだろうと思いいたる。


「俺が手に入れた情報は一匹分だけだ。残りの三匹は自分でなんとかするんだな。間もなくこの場所は活動を停止し、俺は消滅する。いまいましい日本製のナノマシンに飲みこまれるだろう」


 ルチスとカシムを殺したのはこいつだ――そう考えるエステルだが、自ら消えるという相手にただ怒りをぶつけても、ふたりは浮かばれない。

 そう冷静に考える部分が残っていたのは、背中にいる少女を無事に連れ帰らなければならないという使命感だった。

 むしろこの場所へふたりを同行させた自分の責任を重く感じている。


 考え込んだエステルが、最後の疑問を口にした。


「サナトゥリアは汎数レベル4の魔法を使えるようになったのか?」

「それは無理だな」


 あっさりと答えるディアブロ。


「昔、サナトゥリアのように大統領と同じかほぼ同じDNAを持つ者には、ナノマシンが攻撃できないようにするウィルスを仕込んだんだが……システムの奴がそれに対抗しやがってな。そいつらが汎数レベル2以上の役名コマンドを使えないようにしやがった」


 言葉の意味はわからないエステルだったが、悪魔憑きの原因にかかわる話だと直感した。

 調子に乗るディアブロの話が続く。


「だがそのままじゃあ、サナトゥリアが日科技研にたどり着くのも厳しいだろうが? だからな、さっきアメリカ製ナノマシンをサナトゥリアの体内に仕込んでやった。役名コマンドは日本製システムに依存するから汎数レベル1までしか使えねぇのは変わらんが? 日本製にはできねぇことができるはずだ。おもに脳やAIに関連する……そうだな、例えば考えるだけで役名コマンドを使えるとかな。それに日本製システムを乗っ取ったあかつきには、脳をAIにコピーできる機能を利用して――……ああ、理解してねぇって顔だな、おまえ」


 ばかにする声色だったが、エステルは黙って聞いていた。


「わかりやすく言ってやる。おまえが世界の存続を望むなら、サナトゥリアをしっかり教育することだ。竜を使う方法は日本製システムも考えてるようだが? 不確定要素が多すぎる。サナトゥリアの助けがいるだろう」


 ディアブロの話の中に重要な情報が山ほどあることをエステルは感じていた。

 だが理解できないことが多すぎる。

 そして、理解できるまで会話を続ける時間はないようだった。


「じゃあな、サナトゥリア」


 唐突にディアブロがそう言った。


「さよなら」


 幼い声が耳元で聞こえる。


 背負ったサナトゥリアは目を覚ましていた。

 彼女を降ろしながらエステルは思った。

 自分が話している間も、ディアブロは彼女の心に話しかけていたのかもしれない、と。


 突然、足元の水に身体が沈んだ。

 エステルが慌てて水を掻くと、同じように水を掻くサナトゥリアの腕をつかむことができた。

 周囲は暗闇で何も見えない。

 それが青い光が消えたためだと理解する前に、ふたりの身体が白い光に包まれた。




 気がつくと、エステルは禁断の山の中腹にいた。

 パンテラの姿はすでにない。

 そばにはケホケホとせき込むサナトゥリアの姿があった。


「大丈夫か、サナトゥリア」

「うぐ……うん、平気。ちょっと水を飲んでもうたん」

「ありがとう。おまえが魔法印で飛ばしてくれたんだな」


 湖に落ちたとき、それはあの空間が日本製ナノマシンに飲みこまれた瞬間だった。

 サナトゥリアの魔法印が発動したことで、魔法無効が解除されていることにエステルは初めて気づいた。


(得たものも、失ったものも……大きすぎる)


 エステルはしばらく神殿には戻らなかった。

 族長として、皆の前で涙を見せるわけにはいかなかったからだ。



 - End of Folder 13 -



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