Folder13. 螺旋の血統書
File097. 老人と少女
鳥がさえずり、清流のせせらぎが心地よく響く山奥。
人里から遠く離れた巨木の森に、質素な小屋があった。
一本の巨木を利用するその造りに、エルフ族の建築様式がかろうじて見て取れるものの、小屋の中と外を隔てる扉はボロボロで、傾いた
防犯の役には立ちそうにない扉だが、森の獣がうっかり入り込むのを防ぐには十分だった。
その扉を勢いよく開き、血相を変えた少女が飛び込んできた。
「じーちゃん……!」
幼い少女の切羽詰まった大声。
大粒の涙がポロポロとこぼれ落ちている。
床のマットレスで横になっていた老人が身を起こした。
「どうしたんやぁ、サナ」
「痛い! 痛い!」
パニック状態の少女が抱え込む右手を、老人が持ち上げる。
少女の右の人差し指が赤く、普段の二倍の大きさに膨れ上がっていた。
「あぁ、あの藪に入ったらあかん言うたやろぉ? もう何年も前からオオタカバチが奥に巣ぅこさえとるからなぁ」
呆れる様子の老人だが、少女に向ける眼差しは優しい。
「堪忍や、堪忍やぁ……」
涙が止まらない少女とそれをなだめる老人は、ふたりとも耳が長くとがったエルフ族だ。
「サナは賢い子やけど好奇心強いとこあるからなぁ。いつかは入るやろ思うとったわ」
そして老人の口から流れ出る流暢な呪文が空気を震わせた。
――
――
――
――
――
「〈
老人の手の中で、幼いサナトゥリアの腫れた指が白く輝く。
「ええかぁ、サナ。オオタカバチに一回刺されただけなら痛いだけで済む。けど、二回刺されたら……生命落とすで」
“
「これでええ。けど、
青ざめた顔でコクコクと頷く少女。
それを見て微笑んだ老人の顔が寂しげに変わる。
「
***
入口近くの屋根にできた隙間から、ゆっくりと空を漂う雲と、それを追い越す上層の雲が見える。
東の山に“
質素な小屋の床に敷かれたふたつの汚れたマットレスの、大きい方に老人が、小さい方に少女が寝ていた。
近くで鳴く虫の音のひとつが止まったとき、サナトゥリアが言葉を発した。
「……ねぇ、じーちゃん」
「……なんやぁ?」
少女の真剣な声に何かを感じ取った老人が、いつもの調子で答える。
しばらくの沈黙の後、サナトゥリアがゆっくりと自分の思いを言葉にした。
「うち、里に行ってみたいん。じーちゃん以外の人にも
「…………」
黙ったままの老人の方へ、少女が身体を向ける。
「行ってみたいんや!」
「……だめや」
ピシャリと放たれた言葉。
それでも少女は駄々をこねるように何度も行きたいと叫び、老人はそれを無視し続けた。
そしてついに泣き出す少女。
やがて少女が泣き止むと、ようやく老人が言葉をもらした。
「……サナは六歳やったか?」
「うん」
「おまえに話すんは、まだ早い思うけどなぁ」
厳しくもなく優しくもない淡々とした口調で続ける老人。
「これから少しずつ話したる」
それから毎晩のように老人が少しずつ語る話を、少女はおとぎ話として聞いた。
それは長い長い血筋の物語――。
「その家系はなぁ、代々、神殿護衛隊と森林防衛隊のどっちにも優秀な魔道士を輩出する優秀な魔法一家やったん」
その一族がエルフの歴史に残してきた数々の偉業や武勲は数え切れない。
同じような話が続くことで、いずれサナトゥリアが飽きるだろうと老人は思っていた。
だが時には眠そうになりながらも、少女は老人の話に耳を傾け続けた。
そしてある晩のこと、サナトゥリアが唐突に老人の話を遮った。
「待って、じーちゃん。その一家が優秀いうんは、もうわかった。そん話と、うちが里に行ったらあかんこと、何の関係があるん?」
老人はいずれ話すつもりでいながら、その核心に触れることを自分が避けていたのだと自覚した。
少しの間をおいて、老人は再び口を開いた。
「その家では赤子ん頃からの英才教育で、誰もが成人する十五歳までに
「うん」
「けどなぁ、その家系にはときどき特殊な赤子が生まれたんよ」
この日、老人は幼いサナトゥリアにすべてを話そうと覚悟を決めた。
彼女がオオタカバチに刺された日からまだ二か月しか
老人の年齢は三百歳を超えていた。
統計が取られたわけではないが、エルフ族の平均寿命は三百年と言われている。
あと数年もたてば、いつ“お迎え”が来てもおかしくないと感じていた。
サナトゥリアが幼い頃から、生きるために必要な様々なことを老人は教えている。
この二か月の間には初めて魔法を教え、その覚えの早さに驚かされてもいた。
彼女はすでに四つの
だが残りの
(サナが成人迎えるまでには話そう思うとったが……頃合いかもしれんなぁ)
「……次々と魔導士隊への入隊が決まっていく兄弟姉妹ん中で、
サナトゥリアが黙って耳を澄ませている。
「
それはけして世間に知られてはならない特徴だった。
なぜならその特徴は、エルフ族の間で“悪魔憑き”と呼ばれ忌み嫌われる存在であることの証明だからだ。
だからその家では赤ん坊が生まれると、その特徴が発現しているかどうかをまず確かめた。
「どこでもええ。まぁ大抵の場合は髪やな。赤子の髪に〈
髪が切れたり焦げたりすれば問題ない
だが、もし無傷であったなら――。
「そん子は“悪魔憑き”や」
あらゆる攻撃魔法を無効化する特殊体質。
それが“悪魔憑き”であり、それが明るみに出ればその子自身はもちろん、その家族さえもが日陰者として暮らしていくしかなくなる。
“悪魔憑き”はそれほどに恐ろしい差別の対象だった。
「ふつうは悪魔憑きが生まれることなんて稀や。エルフ族全体で見ても千年に一人、生まれるかどうか。そう言われとる。けどな、その家系は違ったんよ。ほとんど一世代おきに一人生まれるん」
だからこそ赤ん坊が生まれると、悪魔憑きかどうかをテストする慣習ができあがっていた。
一般の家庭であればそのような慣習はない。
我が子が千年に一人の“悪魔憑き”だと想像する親など、まずいないからだ。
ある日突然気づくのが通例であり、そうなれば不幸しか生まれない。
「“悪魔憑き”のテストはその家系にとって必要やったん。それ以上の不幸を生まんために。“悪魔憑き”として生まれた赤子を、こっそり“禁断の山”に捨てることも――や」
幼いサナトゥリアは静かにその話を聞いていた。
(今は、わからんでええ。いずれ大きなったら気づくやろ――なんでうちらが、山ん中に住んどるんか。なんで誰も、こん山に入ってこんのか、な)
――その時には、もう自分はこの世にいないかもしれない。
そんな老人の思考を、幼い声が遮った。
「……そやからな、じーちゃん。そん話とうちが里に行ったらあかんこと、何の関係があるん?」
「ん? ああ、続きはまた今度話したる。今夜はもう寝えや。明日は朝から山菜採り行く言うてたやろ」
「えー、しゃあないやん。じーちゃん、最近昼も寝てるし」
「ああ、じーちゃん、サナのおかげで助かっとる。サナさまさまやぁ」
「うー……」
しばらく寝付けない様子のサナトゥリアだったが、やがて静かな寝息をたてはじめた。
そして老人も眠りについた。
この日――。
多くの人々が眠りにつくこの時間帯に、人知れず山を登る三つの人影があった。
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