File064. 与えられた罰
厚い雲が空を覆っていた。
南西の彼方に雲が途切れる境界があり、それが地平線との間に横に伸びる細い帯のような隙間を作っている。
そこから差し込む茜色をした薄っぺらい光のカーテンが、空の雲にぼんやりとした赤い光をにじませていた。
太陽が沈んだ後も空を染める残光だ。
地上は薄暗く、どちらかというと闇に近い。
ただそれでも大地の凹凸がわずかに見えるのは、その表面が白い雪で覆われていて
カイリたちはそれを、空中に停止した金属板の上から眺めていた。
ビャッコはあいかわらず口を閉ざしたままだが、リュシアスの指示を受けて“あの声”――泣き叫ぶような声――の主を求めて飛んできたはずである。
彼女が優しい態度と声になるのは、主人であるリュシアスと会話するときだけだ。
見渡す限り広がる赤みがかった雲と暗い雪に挟まれた世界。
その天と地を貫く壁のような山脈があり、南西からの光で暗赤色に照らされている。
「北アメリカ大陸の北部に、こんなに巨大な山脈ができていたのか……」
「カイリは、この地に来たことがある……いえ、そんなはずはありませんね」
カイリの言葉に反応したレイウルフが確信したように言った。
「……フェアリ族に伝わる予言書の知識――ですか」
「そうと言えば、そうかな」
世界の地理を習ったのは高校の授業でのことではあるが、この世界が五千万年後の地球であることを知ったのは予言書の記述によるものだ。
「この近くに、“あの声”で泣いていた人がいるんだよね? ビャッコ姉の
「それは痛そう」
スザクの独り言を聞いて、マティが自分の両耳を押さえた。
ここに来るまでの間、“あの声”は聞こえたり聞こえなかったりしていた。
今、外の音を聞くことができるのは
スザクとマティの会話はビャッコにも聞こえているはずだが、ベージュ色のスカートスーツ姿で立つ彼女は口を閉ざしたままだった。
「大丈夫ですわ、テクニティファ様。ここには立ち寄っただけですもの。ビャッコ姉さんが
ゲンブが発した言葉を低い声が遮った。
「――ビャッコ、
「はい、リュシアス」
驚いたゲンブが次の言葉を漏らす間もなく、金属板の上を穏やかな風の音が包んだ。
慌てて耳を押さえ直すマティを見てから、カイリはリュシアスに声をかけようとして――彼が山脈の
“あの声”は聞こえない。
「どうした、リュシアス?」
そう言いながら、耳をそばだてるドワーフ族の視線の先を目で追ったカイリは、そこに灯るたくさんの弱い光を見つけた。
「風の音しか聞こえませんね。そして、あれは――生活の光ですよ、カイリ。たくさんの窓が、雪の中に点在しています」
答えたのはレイウルフだ。
エルフ族は目がいいという話は、カイ・リューベンスフィアたちの日記の知識からカイリも知っていた。
目によるピントの調整範囲は加齢とともに狭くなっていくものだが、長寿のエルフ族の中でもレイウルフはかなり若いとカイリは聞いている。
リュシアスがレイウルフを振り返った。
ちなみにドワーフ族は視力がやや低い。
逆に聴力はドワーフ族のほうが高いという。
「生活の光……だと。ここに俺の先祖が暮らしていたのは千年以上前の話だ。残っているのは遺跡のようなものだろう。そこに住み着いた者たちがいるのか、あるいは……まさか」
「俺が調べようリュシアス」
そう言って〈
それをゲンブが止めた。
「待ってください、カイリさん。ここで
「それはそうだけど、俺たちの安全を優先するなら、なによりも情報を――」
「わたくしに任せてください」
そう言うと、ゲンブが金属板の端まで歩き、振り返った。
「わたくしが何系の竜か、お忘れではありませんよね?」
金属板の端はわずかに外気の影響を受けており、ゲンブの長い黒髪がひるがえった。
「情報収集といえば
「はい」
嬉しそうなゲンブの微笑みにドキリとするカイリ。
彼女が着ているのは白い小袖と緋袴からなる巫女装束に見えるが、もし高校の制服を着ていたなら、とびきり可愛い後輩にしか見えないだろう。
見おろす全員の視線の先で、彼女の姿が白い光に包まれ、胴の大きさが鉄道車両一両分ほどの竜が大きな翼を広げる。
といっても彼女の体色が黒いこともあり、その輪郭は暗い雪原に溶け込んでよく見えない。
黒竜はそのまま地上に到達したのだろう。
地表で円を描くように舞う雪煙が
「もう、ゲンブってば、はりきり過ぎだよぅ」
そうつぶやくスザクの声が聞こえた。
***
カイリたちがドワーフ族の故郷にたどり着いた日の八日前。
失われたビャッコの左脚とレイウルフの右手の指を、カイリが再生させた日の遅い時間。
リュシアスは自分とビャッコに与えられた部屋で、雪色の髪と肌をもつ美しい女が、床に土下座しているのを見た。
「やめろ、ビャッコ。おまえのそんな姿を、俺が見たいと思うのか?」
「リュシアス」
顔をあげてリュシアスを見上げるビャッコの顔は、いまにも泣きだしそうだった。
「私は……リュシアス、あなたを……世界を
「それは俺の望むものではないと言ったはずだ」
「わかっています。ですがそれでも、あなたのどんな望みでもかなえられる存在であることが、私の誇りだったのです」
あの男――カイリには勝てない、とビャッコは言った。
たとえ策を弄し、卑怯な手を使ったとしても、だ。
「みじめです。もしあの男があなたに無礼を働いたとしても、私にはあの男をあなたの前に
再び顔を伏せたビャッコの声は涙で震えていた。
「この罪な竜を、どうか罰してください」
百秒ほどの時間を、リュシアスは黙っていた。
何を言っても、ビャッコは譲らないだろう。
彼女は許しを請うてさえいない。
そうすることさえ、おこがましいと思っているのだ。
(俺は、おまえのためなら、この生命さえ投げ出せるというのに……)
その瞳に悲しみを湛え、目をつむって息を漏らすリュシアス。
「……罰は俺が決めてよいのだな?」
「はい。もしお望みであれば……あなたの前に二度と……二度と姿を見せないこと……も……」
ビャッコの全身が震えている。
それが、彼女が自身で思いつく最も重い罰なのだと、リュシアスは知った。
「わかった。今から罰を言い渡す」
「はい」
神妙な声のビャッコだが、その心は死よりも恐ろしい最悪の罰――二度とリュシアスのそばにいられなくなること――を想像し、美しい四肢が恐怖に震えている。
リュシアスの声が、静かな部屋に低く響いた。
「……見つけろ。それを報告し、必ず実行するのだ」
「……え?」
顔を伏せたまま固まるビャッコ。
わけもわからず言葉の続きを待つ。
「……俺のこととは関係なく、おまえがしたいことを」
ビャッコの聡明な頭脳でも、その意味をすぐには呑み込めないでいた。
(リュシアスのこととは関係なく、私がしたいことを見つけて、それを報告し、必ず実行する――)
「それはリュシアス、でも、それでは罰に――」
「逆だ、ビャッコ」
リュシアスは言った。
「おまえが望む罰とは、おまえが嫌がることか、俺が喜ぶこと。そうだな?」
「はい」
「なら、ここではっきりさせよう。おまえが嫌がる大抵のことは、俺が喜ぶことではないのだ。俺が嫌がる大抵のことが、おまえの喜ぶことではないように。おまえが俺に臨むおまえの罰とは、そういう矛盾したものだ」
「………………」
じっとしたままのビャッコが、ようやく言葉を発した。
身体の震えは止まっていた。
「私が愚かでした、リュシアス。もし私があなたからあなたの罰を求められたとしたら、きっと同じ答えにたどり着いたでしょう」
そしてゆっくりと立ち上がる。
ふたりが向かい合わせに立つと、身長の違いからビャッコがリュシアスを見おろす形になる。
だが今のふたりにとって、それは些細なことだ。
「あなたから与えられた罰が、私が嫌がることで、あなたが喜ぶことだと理解しました」
「そうだ」
ビャッコは理解した。
自分が真の意味で、リュシアスに愛されていることを。
そうでなければ与えられるはずのない罰を、自分が言い渡されたことを。
それは「愛している」と何百回言われようとたどり着けない確信を、彼女に与えていた。
「リュシアス、私もあなたに知ってほしい。私があなたを、どれほど愛しているのかを。そのためなら、何でもします」
「ビャッコ。どんな種族よりも長いおまえの生の中で、俺が死ぬまでの間だけでよい――俺のそばにいてくれ。それが俺の望みだ」
「はい」
それ以上の会話は必要なかった。
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