File004. 離位置《テレポート》
カイリが潜む場所から池の対岸までおよそ百メートル。
矢を放った者にとっては大した距離ではないらしい。
相手を確認するために顔を出す勇気はカイリにはなかった。
身の危険を感じて逃げ出したいのは山々なのだが、情けないことに手足に力が入らない。
生まれて初めて“腰が抜ける”という状態を体験していた。
その時――。
「はぃりふるほーん、ふるるれーにぁ?」
すぐそばで若い女の声がした。
何を言っているのかはわからないが、歌うように軽やかな美しい声だ。
驚き、戸惑うカイリ。
ここが異世界だということは忘れていた。
「はるまりぃーにあ!」
興奮した嬉しそうな声とともに何かが足元から飛び上がり、カイリの顔に貼りついた。
心臓が止まるかと思うほどびっくりして立ちあがるカイリ。
そして思い出した。
矢で狙われる直前に、巨大な昆虫らしきものが足元に飛び込んできていたことを。
しかし昆虫にしては顔に当たる感触が柔らかかった。
少なくとも虫のささくれ立った脚ではない。
例えるなら綿が詰まったぬいぐるみ……いや、それよりも柔らかい。
しかも蜂蜜のような甘い香りが鼻腔をくすぐった。
そして唐突に。
ヒヤリとする冷たい感触がカイリの
「う、うわああああああ!」
驚いたカイリが叫ぶのと同時に“彼女”がカイリの顔から離れた。
そのまま二メートル前方の空中に浮いている“彼女”。
カイリより一つか二つくらい年上に見える女だった。
ただその身長は三十センチ程度しかなく、動いていなければ人形だと思っただろう。
周囲を見回しても他に誰もいないことから、先ほどの声の主は彼女らしいと判断した。
嬉しそうに見つめる黒い瞳を警戒しながら見つめ返すカイリ。
女の整った顔立ちは美しく、きめの細かい肌は吸い込まれそうなほどに白い。
目を引く
七分袖の白シャツと
そんな彼女の背中には、青みをおびた透明な翅が生えていた。
(……ここは童話の世界だったのか?)
人形サイズの彼女を一言で形容するなら“服を着た妖精”だった。
ここが異世界であることを思い出したカイリは、そういう生物がいることは受け入れようと思った。
しかし彼女の翅は動いておらず、当然羽音も聞こえない。
それでも宙に浮いている。
それを見ると「いくらなんでも非科学的すぎる」という思いが頭から離れない。
その翅は飾りかと問い詰めたくなる。
彼女が“魔法”でも使おうものなら、驚きを通り越してばかばかしくさえ感じるに違いなかった。
この世界でもある程度は自分の知る常識や物理法則が通用すると思っていたカイリ。
それは物事を理解し、次に何をするかを決める上で心の支えになっていた。
しかし目の前にいる妖精の存在は、常識も物理法則も無視しているように見える。
空想上の産物としか思えない彼女を目にして、払拭していたはずの考えが再び頭をもたげた。
(やはり俺は気が触れてしまったのか……)
太陽が動かない世界も、百メートル先から飛んできた矢も、宙に浮いている妖精も、すべてが狂ってしまった自分の脳が生み出した幻想なのだろうか。
自分の正気を改めて疑うカイリの前で、優しく微笑む妖精の目にうっすらと涙が浮かんでいた。
「お会いできて……嬉しいです、マスター……」
はっとするカイリ。
彼女の言葉を理解できていることに気がついた。
さっきまでは全くわからなかったはずだ。
(いったいどうなっているんだ……)
自分自身さえ信用できなくなっている状況で、何を信じればいいのかわからなくなっていた。
そして……。
シダーン!
混乱するカイリの近くで再び轟音が鳴り響いた。
ビリビリと伝わる振動。
やはり妄想とは思えない。
そして近くの木に突き刺さった二本目の矢は、先ほどの矢と何かが違って見えた。
その理由が刺さった角度であることに気づく。
水平方向に三十度くらいずれていた。
(池を回り込んで、近づいてきているのか……)
「逃げましょう、マスター」
妖精からの提案だった。
彼女はカイリよりもずっと落ち着いているように見える。
「逃げるって……どこへ?」
「マスターの屋敷へ、です」
即答だった。
妖精の目を見つめるカイリ。
この妖精を信用していいのかどうかわからない。
そもそも狙われているのはこの妖精であって、カイリも狙われるとは限らないのではないだろうか。
そうは言っても、姿が見えない者からの射撃にすっかり怯えていることも確かだった。
この場から逃げ出せるものなら、逃げ出したい。
そしてこの森からも脱出できるのであれば、それはこの三日間におけるカイリの悲願でもあった。
そこまで考えて大きく息を吐くカイリ。
「俺の名は滝谷海里です。……あなたの名前は?」
悠長なカイリの質問にイライラする様子もなく、妖精はゆっくりと頭を下げた。
「申し遅れました。私はフェアリ族のテクニティファ・マティ・マヌファと申します。マティとお呼びください。この世界に召喚されたマスターに仕えることが私の役目です」
自分を見つめる真剣な眼差しにカイリは好感を抱いた。
非常識も含めたうえでメリットとデメリット、リスクとリターンを天秤にかけたカイリの心はすでに決まっていたのだが、彼女の真摯な態度がそれを後押しした。
「わかりました。詳しい話は後で聞かせてください」
カイリの言葉にほっとした表情を浮かべるマティ。
そして池とは反対側に走り出そうとするカイリを引きとめた。
「お待ちください、マスター。マスターを見つけたのですから、もうこの樹海に用はありません」
「…………?」
マティが何を言いたいのかカイリにはわからなかった。
宙に浮いたまま、右の手のひらを胸に当てて目を閉じるマティ。
そこへ三本目の矢が飛来し、別の木の幹が大きな音を響かせる。
カイリは、マティが何かをつぶやいていることに気がついた。
――
――
――
四本目、五本目の矢が立て続けにマティとカイリをかすめ、近くの幹に突き刺さる。
それでもマティは言葉を途切れさせなかった。
――
――
――
マティのつぶやきはまるで魔法の呪文のようだとカイリは思った。
この妖精は本当に魔法を使うのかもしれない、とも。
そしてマティは最後の言葉を口にした。
「〈
何本もの矢が降り注ぐ中、宙に浮くマティの下にある地面が白く光るのをカイリは見た。
水面に落ちた
光の円が通り過ぎた地面では、無数の光点が星空のように瞬いて消えた。
驚くカイリが理解する前に、マティとカイリの身体が
やがて光が消えると、そこに二人の姿はなかった。
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