Sakura in Wonderland⑥

 私の二人目ドッペルゲンガーは、自律行動しないもう一人の私だ。


 自分の右手で物を掴むのと同じく、自分の足で前に進むのと同じく、もう一つの体を動かす。

 

 この世の誰もが、自分の右手を動かしながらもう一つの右手を動かす経験を持たない。それは私も同じで、だから、発現した能力を扱うのには長い時間が必要だった。


 能力が発現した時の事は今でも痛烈に憶えている。もう一つの視界が現れて脳内に流入する感覚は、眼球がひっくり返る程不快なものだった。右目と左目で見る世界に、僅かなずれがあるなんてレベルではない。全く違うと言って差し支えない景色が意識に衝突する瞬間は、今でも辛いと思う時がある。


 だから、その負担が一気に五倍ともなれば、私がへこたれるのも当然の話だ。


「うえっ……気持ち悪い……」


「大丈夫? 二人目ドッペルゲンガーの展開って、随分負担が大きいのね」


「視覚とかは共有だからな。想像出来ないだろ? もう一つの目を持つ感覚」


 当たり前の事を聞きながら、私は展開した二人目ドッペルゲンガーを消滅させる。脳内に流入していた感覚の嵐が過ぎ去って、視界がクリアに広がる。


「あー……気持ち悪かった……最悪だった……」


「情けないわね。自ら分身を作り過ぎて倒れるなんて。どんな名刀も、扱えなければナマクラだわ」


「いやいや、待ってよ。私、こんな事出来ないんだって」


「え?」


 緋鎖乃が言う様な間抜けな真似、私がする訳がない。

 自ら作り過ぎたドッペルゲンガーの負担で倒れるなんて、兄貴に指差しで笑われる。


「どういう事? 東雲鎖子は、五体のドッペルゲンガーを展開出来る様になった訳でしょ? 素晴らしい事じゃない」


「いいや。私にそんな事は出来ない。私の限界は二人目までだ。名前の通り、ドッペルゲンガーは二人目の私。私の限界はそこまでで、それ三人目の経験なんてない」


「……こいつ、戦いの中で成長してやがる! ってやつ?」


「お前漫画とか読むんだな」


「鎖子は私をなんだと思っているのよ? 健全な十四歳の少女が、少年漫画を愛読しているのが不思議?」


「お前のイメージに合わないだけだ。緋鎖乃は蟹工船って感じ」


「私、社会主義や共産主義を背景にした作品はあまり好きじゃないわ」


「いや、読んだ事ないから知らないけど」


 私が言うと、緋鎖乃は呆れた様に目を見開いた。


「で、なんなんだこの私の能力異常は。能力が発動しない、発動が遅れる、効果が薄い。それなら在り得ない話じゃない。能力の発動を阻害したり無効化する能力は珍しくない。けど……」


「これは増幅だものね。それも、異常な程の、ね」


 私と緋鎖乃は、ミサに振り返る。

 それが合図となって、ミサが口を開く。


「さっき、この世界はアゼル・ドジソンの不思議な世界だと話しましたよね? 全ての願いが叶う世界だと」


 そういえばそんな言葉を言いかけていた気がすると、適当に相槌を打つ。

 私はミサの言葉を待ったが、察しの良い十四歳が割って入る。


「……まさか、そんな。いよいよそれじゃあオカシイわ。出鱈目にも程がある。だって、自身の理想とする世界を作り上げる異空間生成としての練度も十二分に持っている上で、神話生物達を自由に生み出す独創性……それだけでアゼル・ドジソンは世界レベルだと言えるのに……この世界には、そんな付加価値があるの?」


「なんだよ緋鎖乃、私は全然分からないぞ」


「緋鎖乃さんのお察しの通りだと思います。アゼル・ドジソンの世界は、願いの叶う世界。アゼル・ドジソンの願いを叶えると共に、この世界に踏み込んだ私達の願いも叶えます。ただ、私達は既に普通の世界で願いを叶えていますから、それを増幅する、という形にはなりますが」


 私達は、単一の強大で痛烈な願いを顕現させて世界から逸脱する。

 叶った願いは我が物顔で私達の横に座る。この世界に、当たり前に存在していたかの様に鎮座する。


 それを当たり前にしていく作業を行う事で、私達は能力を磨いていく。この世界は願いで出来ている。そうであると願うからそうなる。こうであると願い続けるからこうなっていく。当たり前で当然の機構。気が遠くなる程のそれを繰り返して、私達は逸脱していく。




 この世界から、外れていく。





 その過程を吹き飛ばして、アゼルの世界は私を引き上げた。私を、逸脱させた。


「私達は私達の事を数値化は出来ないけれど……単純に考えて五倍。ドッペルゲンガーの限界が一体、それが五体顕現したのだから、五倍なのでしょうね。私達は今、五倍強いのよ」


「何回五倍って言うんだよ……そんな単純なもんか?」


「他に増幅量を測る基準がないんだもの。それに、分かり易いじゃない」


「まあそれでいいよ……五倍、五倍かあ……そういえば、アゼルに飛びかかる時の私、いつもより速かった気がする」


「そうだったかしら? 直ぐ倒れ込んだから分からないわ」


「鈍いなあ緋鎖乃は……あ、待て……って事は……」


 ちらりと横目で見たミサは、顔を硬直させて頬を膨らませていた。それは肯定以外のなにものでもない。


「ミサ、お前、弱いんだな」


「ストレートに言わないで下さいよオバさん!!!」


「この世界で能力が増幅されるのならば……ミサ、貴方、本来はドッペルゲンガーを出すのがやっとってところかしら?」


「うぅ……緋鎖乃さん鋭いです……ご名答です……その程度です……」


「ああ、だから貴方、此処に来る前に能力を見せたくなかったのね」


「そういう事です……」


 眉間に皺を寄せて、苦虫を噛み潰した様な表情のミサ。分かる。弱い自分を恥じらう気持ちは、私にはよく分かる。


「能力増幅……あまり聞いた事がない能力だな」


「あら、鎖子でもそうなの? だとすれば、いよいよもってアゼル・ドジソンという個人は脅威ね。一体全体どれほど能力を詰め込めば気が済むの? 生成した異空間に能力を付与する事は珍しくない筈だけど、この規模……異常じゃないかしら?」


「ああ、異常だね。異常だよ。少なくとも私の知っている範囲の能力者で、此処までやる奴は居ない。けど、同時に不思議に思う事もある」


「なによ?」


「対峙する事で確信した。私はあいつに届かなかったけれど、神獣に跨る奴に私が対面したのは、確信したからだ。あいつ、そんな大層な能力を持ってる癖に、そこまで強くないぞ」


「私も思ったわ。アゼル・ドジソンは怖くない。ペガサスに跨り槍を向けられて尚思うわ。まあ、戦闘能力に直結しない能力なんていくらでもあるから、なんとも言えないけれど……それでも、脅威は感じなかったわ。それこそ、私や鎖子はおろか、ミサ、貴方で十分に勝てると思うのだけれど。それとも、貴方のお友達のリリコは、余程のお荷物なの?」


「……いいえ、そんな事ありません。それに、多分、二人でなら、あいつに勝てます」


「それじゃあ、どうして?」


「それは――」


「遅刻だ!!! 遅刻だ!!!!!」


 ミサを遮る耳障りな大声に振り向く。私達の背後に居たそれは、この不思議な世界の始まり。最初に見た、白い兎。


「遅刻だ! 遅刻してしまう!!」


 懐中時計を片手に騒ぎ立てる姿は、自宅の玄関での光景と同じ。


「あー、あの兎じゃんか。って事は、桜も近くに居るのかな?」


「鎖子、そんな暢気な事を言っている場合ではないわ」


「なんで?」


「この兎、いつ此処に来たの? いつ、私達の背後に立ったの? なんの気配もなかったわ」


 言われて、確かに、と。

 ファンシーな白を眺める目線を切り替える。視線を適当に泳がせて妹を探すのを止め、白い兎を睨む。


「遅刻だ!」


「遅刻だ!!」


「遅刻してしまう!!」


「……あ?」


 多分それは、本来とても可愛らしい光景なのだろう。

 私が睨む白い兎の影から、更に二羽、兎が顔を出す。最初の一羽と同じ様に、懐中時計を持って、遅刻を憂えている。


「鎖子、増えたわ」


「増えたな」


「二人とも、気を付けて下さい」


「あん?」


 私と緋鎖乃の間を割って、ミサが重心を低くする。


「私とリリコが、アゼルに勝てなかった理由。こいつらです。この世界で出会った生物は、強くなった私とリリコにとっては敵ではなりませんでした。けれど、こいつらだけは別格なんです……例え私がドッペルゲンガーを十人出せたとしても……一匹だって打倒出来ない」


 ミサは、表情を強張らせる。


「遅刻だ!」


「遅刻だ!!!」


「遅刻してしまう!!!」


「王の結婚式はもう直ぐだ!!」


「遅刻する訳にはいかない!!!!」


「だから、こいつらが邪魔だ!!!!!」


「早く殺してしまわないと、遅刻してしまう!!!」


 更に、四羽。どこからともなく現れた兎が、喚き散らす。


「ぞろぞろと……こいつら、そんなに強いのか?」


「私とリリコはただの一匹相手ですら逃げる事しか出来なかった……私は、こいつ等から逃げて穴に飛び込んだんです」


「じゃあお前のお友達は平気なのか?」


「リリコは逃げる事と死なない事が大得意です! 心配ありません! 今は……私達の心配をしないと……」


「だ、そうだ。緋鎖乃、どう思う?」


 緊迫するミサに反して、私に緊張感はない。

 だって、そうだ。私がこの世界に一緒に飛び込んだのは、この女なのだから。


「ミサ、兎の数え方は一羽。間違え易いから、気を付けて」


「え……? あ、はい! じゃなくて、緋鎖乃さん、今はそんな事――」


 ミサが言い終る前だった。


 ゆっくりと兎の元へと歩き出した緋鎖乃が、刀を抜く。



 亀が歩く様に、燦燦と照り付ける太陽光を反射する刀身を抜き出す。それが僅かに燃えるのが見えたけど、私が知覚出来たのは、そこまでだった。



「五倍強いだなんて、夢の様だわ。今の私は半人前ではないわ。きっと……桜にだって勝てる」


 鍔鳴りが響いて、納刀された事が分かる。そうして、終結した。


「ああ、そういえば……名乗るのを忘れていたわ、兎さん達。折角鎖子に教えて貰ったのに……私ったら、こういうところが半人前なのね」




 実戦に出ていない、半人前を名乗る少女は、間違いなく最強だった。




「遠からん者は音にも聞け、近くば寄って目にも見よ。我こそは、細矛千足国が振る一刀、冷然院が次女、冷然院火鬼緋鎖乃である……って、もう聞こえてないのよね?」



 緋鎖乃の先に居た七羽の兎は、幾つかの肉片に斬り刻まれてしまった。

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