15話  師匠と弟子⑨


 窓の外が暗闇に包まれ、細く頼りない月が空に浮かぶ頃になっても、ラクラは目を覚まさなかった。

 フローラを手伝い夕食の支度をし、三人でテーブルを囲み、食後のお茶を楽しんでいる今この時も、彼が寝ているであろう客室からは、物音一つ聞こえない。


 「あいつ、大丈夫か?」

 「大丈夫だと思うんですけど……」


 ノエルの言葉にそう返してみたものの、流石にリリアも心配になったのか、部屋を覗きに向かう。しばらくして戻ってきたリリアは、師匠の様子を聞かれると、


 「仮死状態より一歩手前、って感じですけど、ちゃんと眠ってましたよ」


 朗らかに笑いつつ、答えた。


 「それ、いいのか?」

 「いいんです。寝てる時は、いつもそうですから」

 「ふーん。いつもねぇ……」


 やはり、この師弟には釈然しゃくぜんとしないものを感じる。しかしノエルは、そんな思いをぐっと押し止めると、熱いお茶と共に飲み下した。


 「リリアちゃん、今日はうちに泊まっていって。ラクラさんも疲れているでしょうし、こんな遅くに離れ森まで帰るのは、大変でしょう?」


 フローラが、夫のティーカップに新しいお茶を注ぎながら提案をしてきた。ついでに、お茶菓子のおかわりも勧められたので、遠慮なく頂戴する。


 「ありがたいですけど、良いんですか? フローラさんも疲れてるだろうし、ご迷惑じゃ……」


 クルミとキャロットがふんだんに使われた、甘さ控えめのパウンドケーキを頬張るリリアに、


 「迷惑だなんて、そんな事無いわ。私なら大丈夫だから、ね?」


 と、フローラはしとやかな笑みを浮かべた。

 その姿を見て、リリアは内心でほっと息をつく。

 深層治癒術によって呼び起こされた真実は、フローラの心に色々なものを背負わせただろう。過去の選択、家族との記憶、自らの本心――それら全てを、彼女は受け入れる事にしたのだ。心が疲弊しかねないほどの、覚悟と共に。

 それでもなお、前を見据えて歩こうとするフローラは、美しかった。気丈な女性ひとだ、とリリアは思う。


 「じゃあ、今夜はお世話になります」

 「ええ。是非そうして頂戴」


 リリアとフローラは、にこやかに笑い合う。そんな中、ノエルは困ったように赤い髪を掻くと、隣の妻に向かって尋ねた。


 「泊まるのは全然構わねえが、ベッド空いてんのか?」

 「あら? 客室にもう一台空きが――あっ!!」


 言い掛けて、フローラはある事に気が付いた。


 「そういえば、あのベッドは……」

 「この間、マシューの奴に底をブチ抜かれて、修理に出したままだぜ」



 本来、マッカラム邸の客室は、ツインルームとなっているはずだった。だが先日、ノエルの傭兵仲間でマシューという巨体の大男が遊びに来た際、ベッドを一台壊されている。酔った勢いで、思い切りベッドに飛び込んだ結果らしい。(余談ではあるが、はやし立てたノエルと当事者のマシューは、フローラに滅茶苦茶怒られたそうだ)

 リリアが師匠の様子を覗いた際も、ベッドは一台しか見えなかった。不自然な部屋の広さに違和感を覚えつつも、特に気にしてはいなかったのだが。


 「どうしましょう……!!」


 珍しく焦りを見せたフローラが、夫に詰め寄る。

 ノエルは妻を落ち着かせるように肩を叩くと、


 「確か、毛布は余ってるよな? 俺がリビングで寝るから、フローラとリリアは寝室に行けよ。それでいいだろ」


 そう言って、早速毛布を準備しようと席を立った。

 リリアは、そんなノエルを慌てて引き止めると、必死な様子で首を横に振る。深煎りアーモンド色の髪が、忙しなく左右になびく。


 「ダメです!!ノエルさんは、フローラさんに付いててあげないと!!」

 「だからって、お前をここに寝かせるワケにもいかねえよ。それこそダメだろ」

 「そうよ、リリアちゃん。一緒に寝室で寝ましょう?」

 「いえ、本当に大丈夫です。もう少ししたら、師匠が起きるかもしれないし。そしたら、交換してもらいますので。それに――」


 リリアは一度言葉を切ると、心配そうに顔を見合わせる二人に微笑んだ。


 「ここで、待っててあげたいんです。師匠のこと」






 頼りないテーブルランプが、部屋の輪郭をぼんやりと映し出す。

 焦げ付くようなノイズ音と共に灯りが揺れる。羽虫が火に飛び込んだのだろう、とリリアは考えた。

 毛布を頭から被って、薪ストーブの前で暖を取ってはいるものの、流石に夜は冷え込む。

 こんな夜更けに、部屋を煌々こうこうとさせているのも悪い気がして、灯火はほとんど落としてしまった。人気ひとけが去ったリビングは、その薄暗さも相俟あいまって余計に寒さを際立たせている。

 結局、リリアの一言に押し切られる形で、ノエルとフローラは寝室で眠る事となった。

 ノエルは、どこかムズ痒そうな表情を浮かべながらも、すんなりと承諾してくれた。フローラは、就寝の時間になっても不安げな様子で、


 「リリアちゃん、寒い時はストーブの薪を足してね。我慢できない程だったら、寝室に来ても構わないから。それと、お湯は少し沸かせば、まだ使えるはずだから……」


 などと言っていたが、夫に背中を押され、渋々と寝室へ消えて行った。

 その姿を見て、リリアは、逆に気を遣わせてしまったかもしれない、といささか申し訳ない気分になった。

 少し前まで、夫婦の寝室からは、時折小さな笑い声が漏れていた。だが、今はそれも聞こえない。二人は、もう眠りに付いたのだろう。

 僅かな音でもいやに響いてしまうので、リリアは息を潜めながら、そっと毛布を被り直した。こうして静寂の中にいると、まるで世界から切り離されたかのように感じる。

 膝を抱えると、少しだけ温もりが増した。

 しばらくの間、リリアはそうしてうずくまっていたが、


 「――あれ? まだ起きていたのかい、リリア……」


 待ちわびた声が聞こえて、ゆっくりと顔を上げる。

 

 「おはようございます、師匠」

 

 視線の先には、ラクラがいた。

 ノロノロとした頼り無い足取りで客室から出てくると、気だるそうに欠伸あくびなど漏らしている。

 ラクラは、ぼんやりとした瞳に弟子の姿を映すと、


 「おはよう……って、まだ夜じゃないか」

 「じゃあ、ございます?」

 「言葉として変じゃないかなぁ、それ……」


 冴えない表情で、そんな事を言った。

 日の光を受けても輝く事の無い銀髪は、にじみ出る疲労感によって、更に枯れて見える。

 寝起きでボサボサになった頭を掻きつつ、ラクラは弟子のもとへと歩み寄り、腰を下ろした。その一連の動作は、焦れったくなるほど鈍い。


 「師匠、すっかりお爺ちゃんぶりが板についてきましたね」


 隣を見ると、ラクラは眠そうに目をしばたたかせている。まだ頭も冴えていない様子で、リリアの言葉にうめくような声を返してきた。


 「お茶、淹れましょうか?」

 「うん……」

 「お腹は空いてませんか? パウンドケーキが残ってますよ」

 「……パンが食べたい。リリアの作ったジャムで……」

 「今は無理ですよー。我侭ワガママ言わないで下さい」

 「じゃあ、お茶だけでいいや……」


 モソモソと呟く師匠に向かい、リリアは溜め息をつく。だが、自分が作ったものを食べたい、と言われて、悪い気はしなかった。

 二人分のお茶を淹れて再びストーブ前に戻ると、ラクラはちゃっかりと置いていった毛布を被っていた。リリアは視線だけでそれを非難するが、師匠は痛くも痒くもないといった表情で、お茶をすする。

 いつまで経っても毛布を手放そうとしないラクラに、弟子は業を煮やした。


 「……か弱い乙女から、毛布を奪うだなんて」


 そう言うと、リリアは一気に距離を詰め、やや強引に師匠の懐へと潜り込んだ。そのまま腰に手を回し、力任せに揺さぶる。


 「わ、分かった。毛布は半分ずつ使おう……!!」


 弟子の猛攻に、ラクラは降参の意を示した。

 懐に入り込んだリリアを隣に座らせると、毛布の半分を背中に掛けてやる。


 「横取りしたのは、師匠なのにー……」


 そうは言いつつも、リリアは大人しく寄り添った。

 しばしの間、師弟は温もりを共有しながら、取り留めの無い話をする。ふと気が付けば、夜は更に深まり寒さを増していた。

 会話が途切れたところで、リリアは欠伸あくびを漏らす。

 

 「もう寝なさい。僕はリビングにいるから」


 ラクラは弟子の頭を軽く撫でると、立ち上がろうとして――止めた。こちらを見上げるリリアの顔が、何故か曇っているのを感じたから。


 「どうした?」


 尋ねると、無言のまま腕にしがみ付かれた。それを振り解く事はせず、ラクラはひたすら弟子の言葉を待った。

 やがて、静寂の中に、


 「師匠……。私、師匠の弟子ですよね?」


 ポツリと、小さな声が響く。


 「そのつもりで、君を傍に置いてるんだけどな」

 「……それなら、教えてください」


 何を、とは聞かなかった。

 普段は何を考えているかよく分からない弟子だが、こんな表情を見せる時ばかりは、心を簡単に読ませたりする。

 ラクラには、彼女が知りたがっている事が何か、聞かずとも分かっていた。


 「何故、君に深層治癒術を見せなかったか……って事だよね」

 「……私一人が見てたところで、師匠は術をしくじったりしないもの。でも、今日だけじゃないです。師匠は、あまり私に魔術を見せようとしない。どうしてですか?」


 白魔術師にとって重要なものは、魔力や術を構成する能力もる事ながら、その膨大ぼうだいな知識にある。

 ある程度の魔力があれば、比較的簡単に初級術を扱えるようになる黒魔術と比べ、白魔術は見習いであっても覚える知識の量が半端ではない。病や怪我の症状、それに対処する薬草、それぞれに合った調合法。初歩とされる薬の精製だけでも、かなり多くの事を知っておかなければならない。

 だが、知識が重要だという事を踏まえても、ラクラは魔術を

 魔術師が力を成長させるには、術を見て、構成を盗み、それを自ら練り上げ昇華する。そうした事が不可欠なのだ。魔術書を読むだけで術を理解するのは、よっぽどの手馴れか、規格外の天才だけである。

 リリアは、白魔術師として半人前だった。薬の調合や、初級の治癒術(ささくれを治す程度のものだ)が扱えても、それ以上の事は出来ない。

 成長したいと思っても、導いてくれるはずの師匠が術を見せないのでは、どうしようもない。


 「そうかなぁ。結構、色々な術を見せてる気がするけど……」

 「色々な術なら見てますし、その凄さだって理解してるつもりです。でも、私が知りたいのは治癒術なんです。ピーマンの畑を一面毒の沼地に変えたり、ザクロの実に人面疽じんめんそを浮かばせたりするものじゃありません」

 「木イチゴを大量にらせた時は、大喜びだったじゃないか……」

 「木イチゴなら、ジャムにして保存できます。人面ザクロなんて、どう調理したってグロいだけですよ」


 ともかく――と、リリアは強い口調で脱線しかけた話を戻す。


 「次に使う時は、治癒術をちゃんと見せてください。私、立派な白魔術師になりたいんです」

 「君は、十分立派にやってるだろう?」


 そう言って肩をすくめる師匠に、リリアは、


 「それとも……やっぱり、私には魔術の才能が無いんですか?」


 と、瞳を伏せて項垂うなだれた。

 ラクラは一瞬声を詰まらせて、腕に絡み付く弟子を見つめる。いつだって明るく、陽気の塊のようなリリアに、このような表情をされるのは苦手だった。

 いでいた心が、ざわざわと波立っていくのを感じる。


 「そんな事はないだろう。白魔術の才能が無かったら、薬さえロクに作れない。僕のようにね」


 弟子の顔を覗き込んで、ラクラは笑って見せた。


 「でも、師匠には治癒術が使えるじゃないですか」

 「僕は、魔力に物を言わせて行使してるだけだ。才能というのは、リリアこそが持っているものだよ」


 慰めの言葉に聞こえるかもしれないが、それは事実だった。

 リリアは、白魔術師にとって大切な『感覚センス』を持っている。知識と並んで必要だとされる、隠された要素だ。


 「本当ですか?」

 「僕が嘘を言うわけないだろう」

 「結構、言ってますよ」

 「それは……弟子とのスキンシップだと思って欲しいな」

 

 バツの悪そうな師匠の声に、弟子は小さく笑った。顔を上げると、何故か安堵あんどした様子のラクラと目が合う。いつものように、冴えない眼差しだった。

 リリアの中にくすぶっていた釈然としない気持ちが、不思議と和らいでいく。誤魔化された気がしなくもないが、今回は、師匠の言葉を信じる事にした。


 「じゃあ、今度は見せて下さい」

 「……まあ、その時はね」

 「いつか、深層治癒術も見せて下さいね」

 「いつか、ね」


 禁術を使う機会が、そうそう訪れてはたまらない、と胸中で呟きながら、ラクラは寄り掛かってくるリリアの髪を撫でた。


 いつか――。

 その約束を果たす日がすぐに来る事など、この時の師弟には知るよしも無い。






 翌朝、ノエルとフローラに別れを告げた師弟は、離れ森へ帰る為に街道を歩く。

 穏やかな風が気持ち良い、よく晴れた空の下。清々しさとは正反対の面持ちで、弟子はうなった。


 「師匠、馬車に乗りましょうよー。今ならまだ間に合いますよー」


 指差した先には、あの乗合い馬車があった。古い停留所のかたわらで、のんびり休憩などしている。弟子の数十歩後ろでは、


 「嫌だ。寝不足で馬車に乗ったら吐く。絶対吐く」


 と、げっそりと顔で首を振る、師匠の姿があった。


 「また情けない事言う。寝不足なのは、私も一緒なんですからねー!!」


 弟子はそう言うと、地団駄を踏んで抗議した。


 「っていうか、師匠のせいで寝不足なんですよ!! 朝方、私をベッドから落として、自分はちゃっかり寝てるなんて!!」

 「だってあの家のリビング、やたら冷えるし……」

 「だからって、私を布団から追い出さないで下さい!! 震えて目を覚ましたら、いつの間にか毛布一枚被らされて、床に転がってた私の衝撃なんて……師匠はこれっぽっちも分からないでしょう!?」

 「いーや。分かる。その後すぐに、同じ事をされた」


 師弟は、そんな会話をしながら、道のど真ん中で向かい合う。

 そこへ、


 「おーい。乗らないなら出発するぞー」


 と、乗合い馬車の御者が声を掛けてきた。


 「あー!!乗ります乗りますっ!!」


 弟子はそれに手を振って答えると、ゆっくり歩みを進める師匠のもとへ駆け寄り、背中を押した。


 「さあ、しっかり歩いて師匠」

 「うわっ……ちょ、押さないでくれ。馬車には乗りたくない!! あれは悪魔の車だ……!!」

 「また訳分からない事言って。さっさと行きますよ、ほら!!」


 弟子は師匠を押しつつ、師匠は弟子に押されつつ、青空の下を歩いていく。土の上に、チグハグな足跡を残しながら。

 二人を微笑ましく眺めた御者は、くわえたパイプをゆっくりとくゆらせて、


 「平和だなぁ」


 と呟いた。

 握った手綱の先で、馬が呆れたように鼻を鳴らした。

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