5.

「ちょいと、ソラ」

「……ん?」

 手を止め、左を向く。音が途切れた。

 生ぬるい風と夏独特の虫の声が二人を包み込む。

 闇色の瞳が僕を見つめる。

 ああ、きれいだ。

「なぁに、サクラ」

 問いかけると、彼女は少し困ったような表情を見せてから、

「それ、シューマン。小犬のワルツ」

と言った。

 背筋が凍りついた。え、あ、と言葉に鳴っていない声が漏れる。

 失敗した。

 どうしよう。

 どうしよう。

 一旦深呼吸をする。吸って、はいて。少し湿った空気が、肺を満たす。

 精一杯の笑顔を作って、やっと口を開いた。

「あー……そうだったね。ごめんごめん。暗がりでよく分からないままに弾いちゃったんだ」

 もぅ、とサクラは口をふくらませた。暗がりの中で、白い肌が少しだけ桜色に染まる。

 それから、

「……いいよいいよ。ソラが楽譜間違えるの、初めてだったからちょっとびっくりしちゃっただけ。弘法筆の誤りってやつ? シューマン、続けて」

 と冗談交じりに言う。

 気を使わせてしまった。罪悪感とともに、ピアノに向き直る。

 それでは、と気取ったように口元を無理やり上げてから、そっと鍵盤に指を置く。

 たどたどしく這わせ、音をなぞっていく。

 必死に和音を見つめる僕に、彼女はそっと呟く。

「ソラ君、私ね、君とずっとここにいたい。ずっと、ピアノで戯れていたい……ずっと……」

 すっ、と静かに時間が止まる。

 夢を見るように瞼を閉じる彼女の台詞を、僕は遮った。

「そろそろ、二人とも帰らなきゃ。ほら、勝手に家を出てきたことも、勝手に学校にしのびこんでいることもばれちゃうよ」

 サクラの表情が少し固まる。しかし、次の瞬間には元の笑顔に戻っていた。

 小さじ一杯分くらいの寂しさを残した笑顔に。

 時間が再び、動き出す。

 そうだね、と言って、サクラはランドセルを背負い直した。

 結局最後まで曲を弾き終えないまま、僕はピアノのカバーをかけた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る