十五秒の空間

桜枝 巧

1.

 六時三十分。小さな、しかしはっきりとしたラの電子音が、エレベーターの到着を知らせた。八階です、と機械音声が場所を告げる。マンション内に一台しかない、窓の無いエレベーターの扉がゆっくりと開いていくと、いつも通り十三階に住む同い年の女の子が姿を見せた。


「おはよう、しょこら」


私とは違う有名私立高校の制服をまとったその子は、呼びかけられると読んでいた小説から顔を上げ、一度頷いた。すぐに視線を下へと移し、動きを止める。学生鞄が肩から落ちないよう気を遣いつつも、こげ茶色フレームの眼鏡の奥に潜む瞳は文庫本に向けられていた。


 下へ参ります、ドアが閉まります。無機質な音声が聞こえる。


 やはり、今日もか。しょこらの邪魔をしないよう中へ乗り込んだ私は、密かにその横顔を窺う。色素の薄い、しかしふっくらとした頬が二つ結びにした髪の束の間からのぞいている。管理人が暖房を強くしているせいだろう、今はそこに微かな赤みがさしていた。以前笑顔を作っていた桜の花の色をした唇は、今はしっかりと閉じられていた。


 エレベーターが小さな衝撃とともに降下し始める。床に穴が開いたようなこの奇妙な感覚は、あまり好きではない。二畳にも満たない空間を、古びた蛍光灯が無理に明るく照らす。階数表示のパネルも、その下に並べられた十五階までのボタンも、銀色の手すりも、長く使われてきた所為で疲れているように見えた。


 肩にかけた鞄の位置を直すと、吊るしたストラップが小さく揺れる。しょこらの目元がわずかに厳しくなった気がした。


 八階から一階まで、残り十五秒。


 しょこらと過ごせる時間は少ない。私が帰宅部であるのに対して、小学校から演劇を始め、今も有名な演劇部に所属するしょこらは帰ってくるのが遅い。しかも月曜と水曜以外は朝練習があり、一時間ほど登校が早くなる。二人が会えるのは、もうこのエレベーターだけ。


「……しょこら?」


 控えめに小学校時代からのニックネームを口にする。

二月に入ってから、ずっとこの調子だ。元々しょこらはそこまでおしゃべりな性格でもなかったが、私が挨拶をすれば笑顔で返してくれていたのだ。この態度の変化は何なのか。もたれかかったエレベーターの大鏡に、体温を奪われていくのを感じる。さて、どうしたものか。


  朝一つ思いついた言葉を、小さじ一杯分のためらいと共に口にする。


「『あたしのことは、しょこら、って呼んでね』……だっけ?」


一階です、という優しげな女性の声と共に、しょこらは顔を上げた。


「……何で急にっ」


 私の干からびたような声とは違う、大人びたソプラノが響く。


 小学校時代、私がこのマンションに引っ越してきて初めてしょこらと出会った時のことは、やはり恥ずかしい思い出の部類に入るらしい。耳まで赤くなるしょこらに、ランドセルを背負う彼女の姿が重なる。


 エレベーターの中での突拍子も無い自己紹介に呆然とした私に、

『本当は原口翔子、だよ。でも、しょこら、って呼んでね』

チョコレートが好きなの、としょこらはタンポポのように微笑んで言った。


 しかし私の戸惑った表情に気づくと、肩を震わせ顔を赤くして下を向いた。そして照れ隠しだろうか、ポケットから小さなチョコレートを取り出すと、私の口の中に放り込んだ。電池が切れたような、どこか諦めた声で、行こう、と言われたのを覚えている。


  私は作戦成功、とおどけた声を出す。声を荒げたしょこらは一度大きく目を見開いたが、小さく横に首を振り溜息をつくと本を鞄に仕舞った。ふっと彼女の顔の力が抜ける。最初に見た冷たさとも違う、彼女本来の柔らかくおとなしそうな印象を受ける目元になる。しかし次の瞬間には、演劇の舞台で見た、作られた華やかな笑顔を浮かべた。


「よしっ、今日も一日頑張りますか!」


 両手のこぶしを握ったしょこらはこちらをこっそりと窺った。あまりの豹変振りについていくことができなかった私に気がついて、慌てて手を下ろす。微妙な調子のずれに、しばらく二人とも黙り込んだ。

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