ワンダーランドの逆手順

中山登

序章

第1話

 それはペシミストの発光体とはわけが違った。様々な模様を描きあぐねており、再三忠告したにもかかわらず未だに展転としている有様だった。あえて言うなら、情動的症候群を患った猿に服して可逆性を不一致と誤認させる類の白い貝殻と同じだった。

 ともあれ、青年の彩りを奪ったのはそればかりでなく、女生徒、とりわけ髪の長いそれらにもあった。下半分の歪曲したピアノ。乳歯はぶらさがったまま、開けて閉めてを繰り返しているうちに夜も明け、また旅がらすのファウストさながらの蛮虐に及ぶ。

 友愛を示したはずのサイエンスも、ようやくその重い腰を上げ、事態の収束に力を入れた。しかし、各支社では既に取り返しのつかない状態になっており、その金魚鉢から次の金魚が我こそはと展望をその目にうつしている。むなびれからは新たな口が浮かび、食生活も変化した。青年の革靴がいくつかなくなったのはそれのせいだと指摘するものさえいた。左様、どうあっても我々は世界と適合することは出来ない。水面を穿つ鳥のように、嘴の先に漆でも塗ろうか。それか石炭を用意しろ。俺がまとめて喰ってやる。

「プレアデスか、反韻語法の復習といったところですか」

 青年のデスクを覗いた格子状の来客がそう言うと、容易く過去の問題が是正する。増大したホノミスを噛み砕いて口移しせねばなるまい。ほの明かりを残して明滅をやめた室内では物音すらそれに合わせて消えた。温もりだけが知覚できるすべてだと言わんばかりに……言わんばかりとは、誰の事をさしているのか……片割れの雷魚が電飾にまとわりつく。物語じみたものが出来上がってきた。もはや暗闇の隙間をほの明かりが埋めているのか、ほの明かりの周りを暗闇が覆っているのか判然としない。青年の肩は肥大し、それは翼を想像させたが、六方の詠唱により彼が気付くことはない。

「いえ、大したことじゃありません。ただのサビ残ですよ。あ、おすましのようでしたら、どうです、この後、一杯」

「寿司、もしくは河童のような手足をしている。しかし妖怪の類ではないですね。しわがれた声も苛酷な生き方によるもので、生来のものではないはずだ。貴方、一体何者です……?」

 苦しい。錠剤は砕けば粉末になるが、憂国はそうもいかない。山河はあるが待ったなし。累々と積まれていく書類に目がくらんだ。

「貯蓄は、どうなりました……?」とは、青年の声である。

「ワンダーランド。不死の国で貴方の望むすべてが見られますよ。これはその鍵です。差し上げましょう」

 そこで格子状の来客はアラサーの女性に見えた。その手にはキュウリだかナスだかわからないものが握られているが、いつの間にか青年の手にも同じものがあった。ふたつでひとつ、半呼吸法で肺に酸素を送る。分娩室では麺類をすする音……どこか近くのトンネルに身を隠さないとまずいことになる。差し当たって、青年は親指と人差し指で輪をつくった。赤と緑の茫漠とした砂漠がそこに見え、瞬きの間に青年は砂漠の上に立っていた。それまでの羊水は一切流され、砂の隙間にのまれていく。音楽は……たしかシューベルトだ。月齢を示している。樹木の類になりたがる人で溢れている砂漠は、およそ町といえるものにまで成長していた。安全な指を人壁に這わせる。見事だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る