第8話 4日目/夜-1

街灯が道を照らす午後8時。

栗色の長い髪をふわふわと揺らして芳乃は同じような境遇の人々に混じって帰路についていた。

その手には細やかな花々が描かれた紙袋。そこからは甘い香りが微かに漂う。

紙袋の中身はこの街でも有名なお菓子屋のケーキだった。

この日の仕事は問題が特に無く、昨日の遅れすらも取り戻すことが出来た彼女は心持ち機嫌がよかった。

きっと今日の身体双方の調子の良さは昨晩の集会のよるものだろう。芳乃は昨晩、永綱に注意される午前二時頃まであの屋上で、全裸でありながらもヨルや猫たちとの戯れを楽しんでいた。魔法陣の上では寒さも疲れも眠さも感じず、むしろ体の中が満たされるような居心地の良さだった。芳乃は「この猫の集会には次も絶対に参加しよう」と心に決めるほどだった。

そんな上機嫌な彼女は頭のなかでお気に入りのナンバーを流していたが、ふと覚えのある臭いが鼻についた。

発生源は上。顎を上げ見渡しては見たがやはりビルの屋上ほどの距離になると、遠くを見ることの無くなった人間には視認することは出来ない。

そこで芳乃は昨日のことを思い出す。彼女の中の犬神は目が良い。さらに拡大も出来る。この自分の鼻のように借りる事はできないかと。

芳乃はお気に入りのメガネを外して、強くぼかしの入った視界で匂いの方向を向き、自身の精神の内側の硬い異物に意識を向けながら凝視していると、カチリとスイッチが落ちる音とともに視界が突如クリアになる。

「わっ、すごっ」

なんとなく試してみただけだった芳乃は思わず声を上げる。

一瞬、通行人の視線を集めてしまったようだが、それも気にせず新しい視界でビルの屋上を探る。

すると、一つ向こうのビルの屋上の縁に腰掛けるヨルの姿を見つけた。その横には昨日も感じた黒いモヤがあった。

芳乃は見上げたまま、しばし逡巡した彼女は意を決して黒い少女のいる屋上へとつながるビルへと向かう。

幸いそのビルはセキュリティがかかる時間でもなく、暗証番号が必要なドアの類ではなかったため中に入ることが出来た。

そのまま入口近くにあったエレベーターに乗り込み、最上階へと向かう。小さく低く唸るエレベーターの駆動音と共に地上から離れていく。そして最上階についた芳乃はエレベーターの正面に在ったMAPを元に屋上につながる扉へ向かう。

その扉に近づくと芳乃は足音を潜め、冷たい扉を少しばかり慎重に開けて耳を澄ます。

ヨルの声が聞こえる。そして、無機質で存在感の薄い聞き覚えのない声も聞こえてきた。

「今日はどんな奴が来るの」

「――古くから居るヤツが一匹の予定だ。お前も知っているかもな」

「ふぅん。なら、少し手強いかもね」

「――我々としてはお前が消えても、ヤツが消えてもどちらでも良いがな」

「私が生き残ったほうが、上の奴らにとって都合がいいと思うけど」

「――……」

「ところで、神界の捜索はどうなっているの?」

「――詳しくは知らないが、前回見つかった施設からは探しものはなかったとだけ聞いている」

「そう……。早く見つけることね。私のほうが先に生き返らせる方法を見つけたら、この契約は終わるのだから」

「――上には伝えておこう。」

「約束も違えないようにね。もし、この約束を破ったら、――――皆殺しにしてやる」

黒い少女の姿からは考えられないような威圧する雰囲気が荒れ狂う。まるで見えないナイフを全身に突きつけられているようだ。

「――怖いことを言うな。こちらの探しものが見つかれば人間一人の命を戻すことなんて、何の問題もないのだから安心しろ。……っと、そろそろ時間だ。せいぜい頑張るといい」

黒いモヤはそう告げると薄くなり、消えていく。

モヤが消え去ったのを見送ったヨルは、予備動作もなく軽々と屋上と外界を仕切るフェンスの上に飛び上がった。

顎を上げて月を見上げる彼女のマントが風に揺れる。いや、彼女のマントは風を無視して気ままに揺れていた。

芳乃は迷っていた。

彼女に声をかけて、彼女と同じ時間を過ごしたいと思っている。しかし、さっきの会話から、これから"普通"ではない事が起こるのを薄々感じ取っていた。

やはりここから立ち去るべきか。しかし、これから彼女は危ない目に合うのだろう。私の力――犬神の力――は役に立てないだろうか……?

だが、あのケチで関わり合いのないことに消極的なあの犬が協力してくれるだろうか。

芳乃が悩んでいると、突然不吉な臭いが周り広がった。初めてヨルと出会った時に嗅いだあまりにも不吉過ぎる臭い。死を振りまく災悪の薫り。

細く開いた扉の隙間から屋上を覗くと、そこには黒いマントと鋭角的で逆三角形のシルエットの骸骨の仮面をつけ、大きい鎌を両手にもった不気味なほど細身で背の高い何かがいた。

その姿は歪ではあるが人間が知る死神そのものだった。

「久しぶりだな。クロネコ」

月明かりを浴びる少女に異形が声をかける。

「カマキリ……。貴方はもっと持つと思っていたのだけれど」

ヨルは右足を視点にくるりとまわり、背の高い死神を見下ろす。

「何のことかわからないが、議会の意向により消させてもらうぞ。いくつかの死神を屠ってきたと聞いているが、雑魚といっしょにしない方がいい」

「こき使われて大変ね。死神辞めてこっちにくればいいのに。楽しいわよ。まぁ、私も死神の頃はそんな"楽しい"なんて感情もなかったけど」

「……その通りだ。人間のような感情など俺たちには存在しないし、必要が無い。俺は俺の任務をこなすだけだ」

「そ……」

月光を背に受けてフェンスの上で佇む暗闇の少女。その少女の影に隠れるように立っている背の細い死神。

2つの異形の間に沈黙の風が吹く。

先に動いたのは死神。

ヨルの立っていたフェンスが死神の一振りで千々に切り刻まれる。

しかしヨルはふわりと中を舞ってそれを躱す。彼女は自身のマントを大きく翼の様に開くと、そこからナイフのような黒いモノを無数に生み出し死神に向けて放出する。

死神はそのナイフを動きもせず弾き落とす。大きな鎌で弾き落としているように見えたが、その形が次第に両腕から生えた鎌のようなものへと変貌していた。

「貴方も……元の姿を取り戻したのね」

コンクリートの地面にふわりと降り立ったヨルが言う。

「……そうだ。腕だけじゃないぞ。全身をすっかり"生きていた頃"の形にすることが出来る!見るがいい!!」

死神の黒い体が歪に、大きく、細く変貌していく。

1分足らずでその形は3m程の高さを持つ巨大な黒い蟷螂となっていた。

「ふふふふ、気分が良い。この姿は気分が良い!!そして、強い!この姿で元死神達、死すべき人間たちをどれだけ切り刻んで来たことか!」

自慢気に吠える黒いカマキリの仮面にうっすらとヒビが入っていく。

「狩りに身を置き、闘争本能にひたりすぎたせいで、元の姿を取り戻してしまったのね。……だから、か」

「何をブツブツ言っている?楽しませてくれっ!全力で戦える機会なんて数えるほどなのだからな!」

刹那、カマキリはヨルが居た場所を切りつけるが、彼女は後方へ大きく飛び上がり、フェンスを踏み台にして他のビルの屋上へと飛び去る。

「逃げるかっ!?」

ぼってりと膨れた腹部から羽を広げ、カマキリもヨルを追っていった。

芳乃は2つの異形が自分のいる屋上から立ち去ってから、身を潜めていたドアからそっと姿を出す。

彼女たちが飛び去っていった方角へ進み、フェンス越しに目を凝らす。

通常ならば見通すことの出来ない闇と距離。芳乃は自分の中の人外の力を使って見つめる。

近くには居ないようだった。更に遠くを見渡そうとした瞬間、視界が大きく動く。

「え、何」

『呆けるな!!アレの同類だ!』

芳乃は鼻を効かせ、目を凝らす。

いる。さっきのカマキリに比べてずっと弱い、が何かがいる。

さっきまで自分が居たところに視線を移す。

そこには黒い体に白い骨の仮面を被ったモノがいる。先ほどのモノとは異なり背が低く少し丸みを帯びたシルエットの死神だった。

その足元には芳乃がヨルとともに食べようと思って買ったケーキの紙袋が横たわる。

しかし、そこには芳乃にとってもっと大切なモノが在った。

「ふひひひ、いけないよぉ。人間がこんなところにきちゃさぁ」

(何故そこにあるのだろう)

「アニキの応援に来たんだけれどさ、もうずっと向こうに行っちまってどうしようもなさそうだからさぁ。俺と遊んでくれないかぁ?人間」

芳乃は両手を首の後ろに持っていく。

(何故ここには何も無いのだろう)

「さっきから黙ってるけどさぁ、怖いの?怖くて口も聞けないのかな?さっきのを躱したんだしさ。少しは楽しませてくれるだろ?」

白い仮面の奥から汚水のように言葉が溢れ出る。

『弱いものほど、身の程を弁えぬな。体を借りるぞ。少し教育してやろう。……ん?!』

永綱は芳乃から体の主導権を奪おうとするが、上手くいかない。

何故か?思い当たる節といえば芳乃に自分の"目"を何度か使われたぐらいだろうか。原因について究明している時間はなかった。敵はすぐそこに立っている。

『おい!芳乃!何をしているのか知らないが体を貸せ!!殺されてしまうぞ!!』

「……」

芳乃はただ前髪に隠れた瞳で見据えていた。

目の前の―――敵を。

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