第6話 2日目/夕
居住区に数多あるマンションの前で一台のタクシーが止まる。
荷物を持った芳乃と身軽なヨルが降りるとタクシーはそっけなく走り去っていく。
芳乃は両手に野菜や肉、インスタント食品の詰まったエコバックを持っている。
遅い朝食の後、二人は会話をひとしきり終えて食料品売場へ向かった。
途中、洋服店や日用品売り場に赴いたが、結局買ったのは芳乃がヨルに薦めた歯ブラシだけであった。
食料品売場ではヨルの好みに合わせて魚や野菜などを買い込んだが、それらはあまり長持ちするものでもないため、インスタント食品や保存食もあわせて買い込んだせいでかなりの量になっていた。
「さ、ヨルちゃん。部屋に行こ。これでも私、一応料理できるんだからね」
芳乃はそう言ってマンションへ入ろうとするが、ヨルは一点を見つめて動こうとしない。
そこは路地裏の入り口の一つ。ヨルはそちらに歩みを進め始める。
そこから漂う嫌な臭いと血の匂いに芳乃は気付いていた。しかし、自分にはどうしようも出来ないソレを芳乃は意識しない癖が染み付いていた。
だが、黒い死の隣人である少女は違う。
彼女は言っていた。『死神の数が足りないために、依頼されて人間を狩っているのだ』と。『彼を生き返らせた時、彼にとって優しい世界であって欲しい』と。
そんな彼女がこんな不吉な臭いを発する事件を放ってはおかないだろう。芳乃は優しい朗らかな休日が血の匂いで汚されることに薄くも重い怒りを覚える。
色のグラデーションの掛かった空を重々しい雲が覆っていく。
ヨルは路地裏の闇に吸い込まれるように進んでいった。逡巡した末に、彼女は黒い少女を荷物を携えたまま後を追うことにした。
芳乃はすぐにヨルを見失ってしまったが、今の彼女はあの日の夜のように禍々しい臭いを発しているため追いかけるのは非常に容易だった。
臭いを追って進んでいくと、人の気配とヨルと血の臭いを感じた芳乃は、近くに積まれてある古びれたダンボールに身を潜めて様子を伺う。
視線の先にあったのは木材の多用した飲食店の名残がある廃墟。
この都市では知らないものも多いが、路地裏の治安が悪くなる前は、そこで飲食店やバーを小さく営むビルのオーナーが少なからずいたのだ。
ビルの1階と2階を使用した広いもので入り口近くは吹き抜けとなっていて開放感のある造りだ。
この閉塞感のある狭い裏路地に対する細やかな抵抗を感じさせる。
しかし、そのデザインも今やこの街に集まる悪漢たちの巣と成り果てている。
そんな忘れ去られた空間には7~8人の男女が思い思いに陣取っていた。
彼らの近くには死臭を放つ準備を始めた縛られた人間が血溜まりに転がっている。
黒いワンピース姿でその中心に佇むヨルはまさしく異様だった。
「おいっ!嬢ちゃん、何しに来たんだぁ?散歩するにはあぶねぇぞ?」
男たちは訝しげな様子で黒い少女を威圧し、女たちはそれを囃し立てる。だが、黒い少女は動じない。まるで喚き立てるアリを前にした巨象のようだ。
「……まて、こいつは噂の『セイギノミカタさん』じゃねぇのか」
薄暗がりになっていた奥から低い声が響く。
そこからは身長2mを超えていそうな筋骨隆々の剃った頭にタトゥーを入れた男が露出の高い服を着た女を一人侍らしながら進み出てきた。
「え、こんなガキがですか?こっちで仕事している奴を無差別を殺しまくっているっていう……」
「ああ、考えてみろ。あの年ぐらいのガキが俺らみたいにガラの悪いオトナに囲まれて、あんな落ち着いた態度でいられるか?それにっ」
タトゥーの男はそう言って持っていた缶ビールをヨルに向かって投げつけた。最小限の動きによる投擲でありながら、その勢いはプロのスポーツ選手さながら。
まだ中身が余っていたのか液体をまき散らす缶を、ヨルもまた最小限の動きで避ける。
「はん、あの動き。ありゃまともじゃないな。お前ら、殺す気でやれ!俺らの仲間を殺しまくってるやつだ!」
巨体の男の号令とともに他の男たちはそれぞれに凶器を手にし、奥からも何人かの男たちが駆け出てくる。
ある者はポケットに忍ばせたナイフ。ある者はバットや鉄パイプ。また、拳銃を手にするものも2人。しかし、その動きはどこか緩慢で疑いと侮りが滲んでいた。
頭にタトゥーを彫ったの巨躯の男を除いて。
「ふふっ」
黒い少女が長い髪を艶やかにかき上げて嘲笑う。まるで夜の淑女のように。
「今日はね、機嫌が良いの。遊んであげる。うまく行けば何人か生きて帰れるかもね」
ヨルがそう言うと彼女の纏っていた可憐な造形の服がとろけ出し別の形を作る。それは少女には似合わないタイトなスーツとなり、一筋の黒いドロが長い髪を結いポニーテールの形を取らせた。
その服に着替えた瞬間、彼女は一番近くにいた男との距離を一瞬につめる。そして、股間へ脚を振り上げ、みぞおちに右手を埋めた。
不意を疲れた哀れな被害者は軽く吹き飛ばされ泡を吹いて倒れこんだ。
あまりにも唐突で圧倒的な瞬間に場が凍りつく。
「ほら、おいで」
構える彼女は言った。その言葉は嘲笑そのものだ。
「……っ!ぶち殺せっ!」
タトゥーの巨躯の男の雄叫びが戦意に反する思考を吹き飛ばして男たちに火をつける。その場に居た女達はそそくさと影に隠れるように姿を消した。
彼らの闘争はあまりにも一方的だった。
黒い少女が一方的に彼らを傷めつけたのか?否。
彼女は男たちの殺意に対し、躱すこと、反らすことしかしなかった。そして襲いかかる男たちは黒い少女に誘導されるようにお互いがお互いに傷つけ合った。
少女めがけてバットを振り下ろせば仲間に当たり、銃を打てば避けられ少女の後ろにいたものが撃たれる。
ナイフで刺そうとすれば、その手は軌道を変えられ仲間の体に沈む。
20分もすると立っているのは半分もいなかった。
「おい」
今まで彼らの闘争を見ていた巨躯の男が声をかける。
「お前ら、もういい。下がれ」
圧倒的な差を感じていた男たちは素直にヨルに目を離すこと無く後ずさりながら距離を開ける。
巨躯の男が黒い少女の前に立ちふさがる。
「久々にヤバそうなケンカが出来そうな相手が見つかったぜ……。おい、お前、名前はなんて言うんだ?」
「今は、ヨルと呼ばれているわ」
「ヨルか。俺はオーガスタだ。……サシだ。ヨル、一対一でやろうぜ。俺を愉しませてくれ」
巨躯の男はそう言うと軽く前傾姿勢をとり、両の腕を前に出し構える。その手には金属の控えめな凶器。
ヨルとオーガスタは互いの視線を絡ませ、闇夜の凛とした空気をさらに張り詰めさせていく。
先に動いたのは巨躯の男。彼の構えから鋭く重い鉄拳が放たれる。
ヨルは大きく後ろに下がると、オーガスタに向き直る。
しかし、巨躯は追うようにすでに間合いを縮め、もう一撃を浴びせる。
ヨルはそれを紙一重で躱しその腕をくぐると、筋肉が主張するその腹部に掌打を放つ。
オーガスタは少しばかり顔を歪め、後ずさるがすぐさま体勢を立て直しヨルに襲いかかる。
またしてもヨルは難なく躱し、頑強な巨体に今度は靴跡を残した。
そんなやりとりが何度か交わされると、オーガスタの体は青あざにいたるところに目立ち始め、脂汗が目立ち始めた。
「……あなた、頑丈ね。本当に。人間か疑いたくなるぐらい」
「そういうお前は本当に人間じゃねぇな……。動きといい、一撃の重さといい。本当はどこかのチームのヤツか、どこかの国の工作員か何かと思っていたんだがな」
「ええ、私は人間ではないわ」
「はっ、最後の相手が化け物とはな。悪くないな」
そう言ってオーガスタは構え直す。その眼には純粋な闘志が燃えているのを感じる。
「……次で終わりにしましょう」
そう言って少女は腰を落とし、右半身を前に出し、漆黒の革のようなグローブに包んだ手を方の高さまで上げる。
「流石に、飽きてきたもの」
ヨルがそう言い切るか否かのタイミングでオーガスタの渾身の一撃が少女の顔面目掛け放たれる。それは常人であれば撲殺即死の一撃。
しかし、少女は避けること無く、ただ一撃。迫り来る拳に向かって靭やかに放つ。
少女の黒い手袋のようなものに覆われた拳は、金属の凶器を砕き、鍛えられた拳を直撃した。
一瞬の硬直。
巨躯の男は仰向けに倒れこんだ。
そんな彼をヨルは眺めていると、自分が通ってきた道から音が聞こえ、そちらに注意を向ける。
そこには芳乃を羽交い締めにし、銃口をそのこめかみに当てている男がいた。
「っ!動くなよ、化け物。俺らを見逃せ。そこから動くなよ。さもないとこの女がどうなるかわかっているよな」
「……」
ヨルは無言で二人を見る。
芳乃は言葉を放つこと無く、唇を震わせた青白い顔でヨルを見つめている。
「別に」
「あ?」
「別に、どうなってもいい」
「な、何ぃ!だって、てめぇ、正義の味方気取りで俺らの仲間を殺してたんだろうがっ!なら、良くないだろ!」
「……私は私の都合で、狩ってただけ。誰かを助ける気なんて無い」
「ヨルちゃん!た、助けてよっ。帰ったら美味しい物作ってあげるから、何でもするからっ。だから、お願い……っ」
芳乃の懇願から沈黙が流れる。
ヨルは視線を高く上げて、荒い溜息をついて言った。
「……犬。私にやらせる気?」
彼女の言葉は誰も理解できなかった。そう、ヨルとソレ以外には。
刹那、その声に呼応するように男の拳銃を持つ手首が、高く強く持ち上げられた。そのあまりの握力の強さと鋭い何かが肉に沈む痛みにより、男は唯一の武器を取り落としてしまう。
その腕は人間のそれに比べ一回り大きく、青い毛で覆われナイフを思わせるような爪が生えている。
そして、その腕は芳乃から生えていた。彼女のなだらかな曲線を描く腕があるべき場所に。
「え、何、これ」
その腕は自身の主の動揺を無視して、その手首を掴んだまま自身の主を羽交い締めにしていた男を放り投げる。
男の体は空中に弧を描き、ヨルの隣に背中から落下すると、そのまま動かなくなった。
『わざわざ儂にやらせるとは。まったく……』
知らない声が聴こえる。それは音ではなかった。頭のなかに直接響く誰かの意思そのもの。
「これはあなたの仕事。私のじゃない」
ヨルはいつもの表情で答える。
『表に出たくない気持ちを汲んでほしいものだ』
芳乃の頭の中だけと思っていたが、どうやらヨルにも聞こえているようだ。
二人の会話は成立しており、そして彼らはすでに知り合いのようだった。
「あの、さ。何この腕、何なのこの声、何なの!何なのっ!!知ってるんなら、知ってるんなら教えてよっ!」
「……犬、説明」
黒い少女は気だるそうに近くの椅子に座った。
『まったく、偉そうなヤツじゃな。コレだからネコは……』
芳乃の異形の腕が次第に元の形に戻っていった。衣服の袖を裂いた腕はいつも通り見慣れたものに戻っている。
そして、それとほぼ同時に目の前にぼやけた大きな人影が浮かび上がった。
その影は次第に描写が細かくなっていき、浮かび上がったのは筋肉質な人間の体と犬の頭を組み合わせた青い毛皮の異形だった。
『お初にお目にかかる。儂は永綱。2000年ほど前に生み出された犬神だ。主より一族の守護を命ぜられている』
「い……ぬがみ?」
『そうだ。お主の祖。我が主は無名ではあるが力を持った陰陽師でな。逝く前に私に血を受け継ぐ者を守護していくように命ぜられた。それから儂はお主達の奥深くに潜み、気付かれぬよう命の危険を払ってきたのだ』
「……」
『主の鼻。凶、不吉、災いを嗅ぐ力も儂の力じゃ。しかし、お主は不意にしおったがの』
青い毛皮の影はため息混じりに、腕を組みながら非難する。
「……どうして」
『ん?』
「どうして、今まで隠してきたのに、今回は隠さないの?」
『お主があの黒猫に関わっているからだ。人間は我らの人外のことなど知らず人間の中で生きれば良いのに、お主はそれと関わり、共に住んでいる。もはや、隠す必要も無いと思うたのだ』
「本当にそれだけ……?」
『そうじゃな。あとはお主自身も人外の要素も持っていることを自覚すべきと思うてな』
「人外?私が……人間じゃない……?」
『あくまで要素だ。儂の力なくば、お主は普通の人間だ。お主があの黒猫に関わり続ける以上、お主は他の人外達に会うことになるだろう。きゃつらの大半は人間よりも強く、見下し、食い物にしているものも少なくない。しかし、お主に人外の要素があると知れば、そう安易に手を出してこぬ。儂は主の今後のためにも知っておくべきと思ったのだ』
永綱の話を聞いたを芳乃はヨルに目線を映らせる。
「……この人の言ってること、本当?ヨルちゃん」
浮かぶ影の後方でイスに座りながら黒い少女に芳乃は尋ねる。彼女は呑気にも悪漢たちの食べ残したツマミを食していた。
永綱は今まで力を貸し守ってきた自分よりも、最近出会った黒猫を頼る芳乃に眉間の皺を寄せる。
「この街に私達以外の人外はいるし、何度か声をかけられたこともあるわ。……アイツらが貴女に対してどうするかはわからないけど」
「……」
『そういうことだ。儂は基本的に寝ておる。今まで通りお主の生活に介入することも基本的にないから安心せい』
「……そう、わかったわ。いや、まだ、そのよくわからないけど。とにかく、貴方は私を守ってくれて、私の生活に関わらないってことよね」
『概ねはな。お主は極力、今までどおりの生活を送るようにせい。そうすれば何も変わらぬ。』
永綱は芳乃に言い聞かせるように言った。
「でも、ちょっと待って。じゃあ、なんで昨日は何もしてくれなかったのよっ」
『したぞ。お主を眠らせた後にな』
その言葉で芳乃は改めてその夜の記憶が中途半端であることに気付く。
ヨルがあの悪漢達を人外の業で死に至らしめ、彼女が冷たい瞳で自分に近づいてきた。そこで芳乃の記憶はぷっつりと途絶えている。
彼女は自分が気絶したものと思っていたが、この狗神に眠らされていたのだ。
「あの後……?でも、その前から助けてくれても!」
『生き物は痛い目を見て習うものだ。ああいう道を選ばないように痛い目にあってもらうべきと思ってな』
「なっ……!でも、本当に怖かったんだから!」
『しかし、自業自得だろう?普通ならお主はとっくに酷い奴隷以下の扱いを受けているだろうな。あれだけで済んだのだ。お主は幸せな方よ。贅沢は言うな』
永綱は"やれやれ"と言った体で芳乃に言い聞かせる。その言葉は至って正しく、反論の余地はなかった。
「……私を眠らせた後は……?」
『此奴に礼を言って、お主を運んでもらった』
青い犬神の映像が後方で間食を嗜んでいる少女に目を向ける。
「嘘つき。……しばらく睨み合ったわ」
『そのどうでも良いその部分を省いただけだ。儂とてお主ほどの者が居るなど露ほども思っていなかったからな。警戒ぐらいはする』
「よく言うわ。それはこちらの台詞」
そう言った二人の異形は視線を絡ませる。そこにはお世辞にも睦まじさというものは含まれていなかった。
その膠着から先に動いたのは永綱。
『さて、儂はもう寝るぞ。こう、見えるようにするのも力を使うでな』
そう言うと青い体の犬の頭を持った巨体はゆらぎ、薄まり、消えていった。
「……」
芳乃は永綱という自分の中の他人がいた空を呆然と眺めている。
「ねぇ」
「え、な、何?ヨルちゃん」
落ち着きのある静かな声が芳乃の思考を引き寄せる。
「先に帰ってて。私は後始末していくから」
「後始末?……うん、わかった」
芳乃は感情の無い笑みで答え、買ってきた食材を取りに行く。
その足取りは重みを感じさせない。
「窓は開けておいて。そこから私は入るから」
「わかった……」
「それと」
黒い少女の中途半端な言葉が二人の視線を結びつけた。
「料理期待してる。誰かに作ってもらうのって久しぶりだから」
そう言ったヨルの口元はほんの僅かだが穏やかな表情をしていた。
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