原発都市アイロニア

冷泉 小鳥

第1話 市長就任!

 俺は、柔らかな市長の椅子へと身体を沈めながら、コーヒーを飲んでいた。市長室からは、俺が生まれ育った懐かしい街並み、そして海が見える。


 俺の実家は名家だった。俺の父は現場の人だった。死ぬ直前まで漁師として働き、くも膜下出血で死んだ。葬式の日の、父の表情は安らかなものだった。


 父は真面目に働いていたが、実家は貧しかった。収入の大半は、広大な屋敷や土地の維持費や資産税として消え、生活は貧しかった。俺は実家の食事で肉を見たことがほとんどない。もし肉があるとすれば、それは硬くて食べにくい、親鶏の煮込み程度だった。


 母は農家として土地を耕していたが、この辺りの土地は高低差が激しいためトラクターやコンバインが使いにくく、コスト面では勝機はなかった。「地産地消」スローガンを掲げて地元の生産者直売所に売り込むのが、手一杯だった。


 俺は、鞄から分厚い書類の束を取り出した。これらの書類の内には、俺に与えられた密命が記されている。密命と言っても、違法ではないが、長年原発反対派の市長が勝利し続けた土地においては、スキャンダルになりかねないものだ。そう、俺は原発を建設するために、この街に帰ってきた。


 俺は原子力技術者ではない。俺はこの町に、中学生の時まで住んでいた。この頃は、まだ大合併の波が押し寄せることもなく、現アイロニア市はアイロニア町のままだった。そうは言っても、何か実態が変わった訳ではなく、ただ合併で無理矢理「市」という称号を手に入れただけだ。市長室の窓から見える景色は、市や町ではなく、「村」と表現した方がより正しいイメージを得られる。行政的な表現と実情が乖離するのは、よくあることだ。


「市長、ケーキをお持ちしました」

 俺の秘書の柏木 綾奈(あやな)がケーキを持ってきてくれた。昔誕生日やクリスマスなどの時によく食べていたケーキ屋の、ビターなほろ苦い味わいが特徴のチョコレートケーキだ。このケーキ屋は、何度かテレビで紹介され、その度に旅行客が訪れる程度には人気だった。最近は、通販でロールケーキを全国販売して、かなりの利益を上げているそうだ。シャッターが目立つアイロニア商店街の、唯一の希望の光だ。


 俺が綾奈と出会ったのは、大学時代のサークルだ。初めは挨拶を交わす程度の関係から始まり、いつの間にか親しくなった。周りの連中は、俺と綾奈が付き合っている、と勘違いしていたが、実際の俺たちの関係は、恋人、というフレーズで連想するような甘酸っぱい物ではなく、もっと硬質でビジネスライクなものだった。


 綾奈は大学時代、「雪の女王」と呼ばれていた。ロングの黒髪にストレートパーマの髪型は、見る者に硬質な印象を与えた。性格もクールで、俺以外の人間に笑顔を見せることはほとんどなかった。なぜ俺に対してだけ笑ってくれたのかは、未だに分からない。恐らくは、綾奈本人も理由を知らないからだ。感情というものは、本人の意志と無関係に働くものだからだ。


 俺は故郷を救いたかった。綾奈は社会をより良いものにすることを望んでいた。抽象論で苦しんでいた綾奈に、「俺の故郷を救う」という具体的な目標を与えた。その後、俺は官庁に行き、綾奈は大手商社で働いていたが、綾奈は途中で性差別が理由で仕事を辞め、俺と再会した時にはスーパーでレジ打ちをしていた。綾奈のように、美しく才能溢れる人間がスーパーのレジ打ちで消耗していくのは重大な社会的損失なので、俺は綾奈を秘書として雇った。


 俺は小学生時代の、ある店のことを思い出していた。ケーキ屋の左隣の店のことだ。その店は、時代遅れのお土産屋で、修学旅行客に売れそうな木刀などを数多く取り揃えていた。しかし、当然アイロニアに修学旅行客など来るはずもなく、店頭に出されている商品が売れる気配はなかった。店主の気難しげな表情、絵葉書の上に積もった埃、賞味期限切れのクッキー。それらのものが、悲しげに空間を埋めていた。


 その店がいつ閉店して、永続するシャッターへと変わったのかは覚えていない。俺が知っているのは、その後の店主が海岸線で、寂しげに釣りをしている姿だけだ。


「ありがとう」

 10年の月日を経ても、チョコレートケーキは昔と変わらず美味であった。思い出補正で味が膨らんでいるかもしれない、と心配していたが、杞憂だったようだ。ただ、心なしかケーキの大きさが小さくなったような気がする。そして、このケーキは8等分ではなく、9等分くらいはされていそうな微妙な角度を保っている。……まあいい。きっと、材料費が高騰して、元の大きさを維持することができなかったのだろう。このケーキ屋の店主は、ケーキにおいて重要なのは大きさではなく、味だということをよく理解している。


「これで、本当に良かったの?」

 これで、というのが原発建設を指しているのは明らかだった。

「ああ。この一地方都市に大金を注ぎ込ませる手段は、原発建設しかない。この時代遅れになってしまった街を救うためには、金はいくらあっても足りないくらいだ。好都合なことに、アイロニア市の原発反対運動は根強い。その分だけ、原発建設のために必要な資金はより大きくなり、その資金をアイロニア市発展のために使用することができる」


「でも、私の友達が、『原発は危険だ』と言ってたわ」

「多分、その友達も反原発派なんだろうな。あいにく、俺は法学部卒だから原子力技術は専門外だが、科学者達は概ね『原発は安全だ』と言っている。俺は科学者たちを信じることにするよ」

「でも、もし事故が起こったらどうするの?」

「どうしようもないね。その時は俺の故郷はおしまいだ」


 綾奈は、何かを言おうとして飲み込んだ。

「まあ、きっと大丈夫だよ。ここはチェルノブイリじゃないし、俺が建設させる予定の原発も、チェルノブイリとは違う型だ」

「……ちょっと、外で風を浴びてくるわ」


 そう言い残して、綾奈は去っていった。まあ、俺だって綾奈の言いたいことは分かる。俺の元に多額の原発マネーが届く意味。確かに、ここアイロニア市は原発建設に適した海岸線を持っている。しかし、原発を田舎にのみ建設する理由には、ただ地価の安さや地盤の固さだけではなく、原発事故の恐怖も含まれているように見えるのは確かだ。


 俺は、原発事故の恐怖が妄想である方に賭けた。賽はもう投げられた。後は、俺の判断が正しいことを祈るしかない。


 俺は再び、アイロニア市の街並みを眺めていた。昔ながらの建物が立ち並ぶ、古ぼけた風景。若者が都会へと流出し、今では中高年くらいしか残っていない。小中学校の生徒数は着実に減少し、廃校も囁かれている。アイロニア市内にあるのは、中の畳程度の普通科高校と、水産高校が1つずつあるだけだ。


 俺の市政スローガンは、「エネルギー都市宣言」「環境都市宣言」だった。この「エネルギー」とは原発のみを意味しているのではない。俺の手元にある書類には、原発だけでなくメガソーラーや風力発電も売り込むように、と記されている。資料によると、我らがアイロニア市は、原子力発電にとってだけでなく、風力発電やメガソーラー設置にも向く、発電産業にとっての理想の地だそうだ。


 幸い、メガソーラーに関しては特に反対運動もなく、地方議員や地元住民に対する根回しも終了している。風力発電に関しては、景観絡みの批判が散発される程度で、大した反発はない。風力発電の設置予定地が使い道のない公有地なのが大きな理由だろう。まずは反発されないことからコツコツと。原発建設の話題を持ち出すのは、もっと地元住民の支持を得てからだ……。


 俺は、書類の束へとサインする作業に戻った。手始めに、目玉政策として実行されるのは、アイロニア市内に広がる豊かな自然を開発し、国立公園として観光客を誘致する企画だ。この国立公園案は、既に前市長の手によって半ばほど進んでいたが、市長の反原発政策のおかげでなかなか承認されなかったものだった。国立公園最大の障害が消えた今では、物事は全てスムーズに進行するに違いなかった。


 


 



 

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