万務公安課の華麗ではない職務

赤巻たると

第1話 逝ってらっしゃい



「はいあんた、精神病ね」

「……は? 精神病?」


 2071年3月2日。

 同期の新任女医・伊丹(いたみ)は、一片の澱みなく、僕に病状を告げた。

 質の悪い冗談かと思い、それとなく表情を伺ってみる。

 しかし、いつもの無駄に整った面は健在である。どうやら冗談ではないようだ。


 エリート達が集うこの職場には、職員用医局というものが備え付けられている。

 経験の浅い特公採用の医師が、日夜公務員の精神衛生を管理しているのだ。

 人件費を考えると、予算の使い所が明らかに間違っているように思えるが、特に誰も文句を言わない。


 目の前にいる女は伊丹。

 弱冠18歳にして特別公務員試験を首席で合格した変態だ。

 特例で医師免許を与えられ、早くも医師の新米として活躍している。


 しかし、そんな伊丹の用意してくれた部屋は、僕には合わなかった。

 新品の壁と、眩い電灯が、僕の危機意識を煽る。

 それに、伊丹が仕切りにため息をついている辺り、嫌な予感しかしない。


「自己解離性症候群――簡単に言えば、欝みたいなものだね」


 言い澱みなく、伊丹は飄々と告げた。

 いきなり複雑な病名を告げられてもな。

 本当にそんな病があるのかも、僕の貧弱な知識では判断しかねる。

 医学なんてもう、止血法すら分からない程だ。


「いや、あの……自覚ないんだけど。

 というか、僕が精神病って何かの間違いじゃないのか?」


 仕事をしていれば、精神負荷が掛かるのは当然である。

 現に、僕は未だにこの激務環境に慣れることが出来ず、最近は仕事が手につかなくて困っている。

しかし、だからといって精神病はないだろう精神病は。

 まず断定に足る根拠が不十分だ。


何しろ僕はこの19年間、外面に大怪我はすれど、内面に疾患を持った覚えはないのである。図太いとも言う。


「知ってるよ。あんたが精神病なら世の中精神疾患者だらけだっての」

「精神科医が暴言とはな」

「何言ってるんだ。私は人権ある者に対しては優しいよ」

「それ遠回しに僕が人外って言ってるようなもんだからな」

「えっ、あんた人権持ってたの!?」

「……大真面目に驚くなや!」


 ケロリと、顔色ひとつ変えずに尊厳を脅かすことを仰る。

 しかも訴訟級の毒舌付きだ。

 お得な2本仕立てといったところか。

 いらねえよそんなサービス


「つーか、僕が精神病っていうんなら、何か証拠的なもの見せてくれよ。

 実験結果でもなんでもいいからさ」

「ない」

「な、ない?」

「うん。だってあんた、別に精神病になんて罹ってないもん」


 こちらの心中も知らずして、伊丹は肯定の意を示した。

 先程と言ってることが180°正反対なわけだが。

 ちょっと混乱してきた。


 もう情緒不安定ってレベルじゃないよ。

 支離滅裂の体現者かお前は。

 頭の中に味噌を注ぎ足してやりたい衝動に駆られるが、そこは我慢。

 女性に暴力を振るえば、即刻クビになってしまう。

 公務員への風当たりは強いのだ。


  真意を探ろうと顔色を窺ってみるが、逆にこちらの顔を睨め回してきた。

 非常に不愉快である


「…………」


「理解できない? でもまあ、別にしなくていいけどさ。

 精神疾患を負った公務員がどこに配属されるか分かっていれば、今の意味不明な診断も理解できると思うからさ。

 でもまあ、妹のコネで特公に合格したあんたじゃ、分からないかもね」


 最後に凄く失礼なことを言われたが、周知の事実だから反論できない。

 本当は違うのだが、周りが騒ぎ立てると、その虚偽の事象は真実と化す。

 いつの間にか僕は、この特公本部内で『妹のコネで特公試験に合格した男』と認知されるようになった。


 国立大学の首席連中を弾く難易度を誇る特別公務員試験に、僕のような凡人が合格するはずがない。

 不正を働いたに違いない。

 きっと、国の幹部である僕の妹が関係があるに違いない。


暴論もいいところだが、正直言って潔白の証明なんて出来ないから、勝手に言わせている。

元々好かれるような愛想は持っていないから、誰も反論してくれなかったな。

しかし、風当たり云々を考慮するなら、こいつも十分にモラルがないと思うんだけどな。


 傷口に塩塊を叩きつけるが口調。

 精神科医師がメンタルへし折ってどうするんだよ。


「その噂、まさか信じてるんじゃないんだろうな」

「まさか。そういう手を使ってほくそ笑んでる奴は、私に似ていて大嫌いだからね。

 あんたを相手に話してあげてるって点で、それくらい気付いて欲しいな」

「なんという傲慢……」

「で、どうなの? まさか、精神疾患者や再起不能者がこの特公ではどういう扱いになるか知らないってわけじゃないだろう?

 ご存知でないなら、本当にコネ疑惑が浮上しちゃうけど」


 精神疾患。そして、即刻配属。

 穏やかでない2つの単語を結びつけてみる。

 すると直ぐ様、特別公務員条規第7条が脳裏に浮かんできた。

 散々見識を馬鹿にされてきたが、流石にそれくらいは暗記している。


しかし、思い出すと同時に、背筋に液体窒素を波波と流し込んだかのような寒気が走った。

 脳の芯から指の先までが凍りつく。

 認めたくない事実が、ついに到来したらしい。


 端的に言えば、ギロチンの到着。

 分かり難く言えば、体力魔力が壊滅的な時に魔王が来るみたいな。

 しかも現実では、魔王が体力回復なんて律儀なことをしてくれないから困る。


裏返りそうになる声と、流れ落ちる冷や汗を食い止め、僕は伊丹に確認した


「……まさか、左遷か?」

「ピンポーン。『万務公安課』への辞令が出てるよ。

 無能と異常者のコロニー、国家の捨て駒、予算泥棒。

 一つもいい形容詞が当てはまらない所。

 しかしまあ、左遷が横行してる特公内でも、まさかいきなりそんな所に飛ばされる奴なんて、今までいたかなー。伊丹お姉さん分かんないや」


 クラッカーでも鳴らしかねないの上機嫌っぷりを見せ、眼の前の女は柏手を叩いた。

採点者なら花丸を付けた上で図書券を同封といったところか。


 加えて皮肉的な視線をこちらに寄越してくる。

 その眼光に慈悲や憐憫といった感情は皆無だ。

 つくづく、人の不幸は蜜の味を地で行っているような女である。


 間違えてペンを指に刺して入院すればいいのに。

 そして摘出手術で体内にメスを取り残されてしまえ。

 逸る怒りを諌め、僕は穏便に聞き返すことにした。

 人を舐め態度だが、一々気にしていると頭が禿げ上がってしまう。


「……さ、流石に嘘だよな?」

「嘘じゃないよ。人事部があんたを無能だと判断したんだろ。

 辞令先が万務公安課、通称『病み床』な辺り、全く期待されてないね」


 『病み床』

 精神疾患や、何らかの理由により満足に働けない人材が回される部署の中でも、底辺のボトムに位置する劣悪機関である。

 病み床というのは当然正式名称ではないが、色んな意味で常軌を逸した人間が集まっていることから、揶揄してそのように呼ばれる。


 基本的に、民衆の御用聞きを主軸に据えて公務に励む部署である。

 大量の税金と、探偵業を廃止に追い込むため作られたとしか思えない内部構造が、国民の怒りを買っている。


 殉職率一位の超過酷な部署。

 加えて働く人材も奇天烈な連中ばかり。

 それが病み床と言われる所以である。


「そ、そんな……」

「決定は覆らないと思うよ。

 私があんたを健常と診断しても、他の医師があんたを異常って言うと思うから。

 そして万務公安課へさようなら」

「……そ、そうか。……でも、でもさ」

「あー、もう。そんな目で私を見るな。

 私はただ、上からこの診断書を出せって言われただけなんだから。知らない知らない」


 耳で両手を塞いであーあー発声する伊丹。

 一体僕がどんな目をしていたというのだ。

 自分で自分の眼球なんて観察出来ないから、分からない。


「……そうか、必死に働いてたのに、それでも飛ばされるのか」

「……だからこそだってのに」


 僕が溜息を吐くと同時に、伊丹が何かしらを口にした。

 しかし、小さすぎてよく聞き取れなかった。


「え、今なんて言った?」


 聞き返しても、伊丹は肩を竦めるだけだった。


「何でもないよ。まあ、努力してる姿が、上層部の気に触ったんだろ」

「そんなことで、部署を回されるのかよ」

「それが公務員だよ。それで、今私が人事部長に一報入れれば、その瞬間からあんたは万務公安課の職員ってわけだけど、どうする?」


 投げやりな問いで、結論を迫ってくる。

 しかし、個人的には万務公安課は是非とも敬遠したいのだけれども。

 ここが人生の分岐点となることは間違いないな。

 決断が、ここで僕の人生を分断しようとしている。


「……万務公安課かあ。行きたくない理由が多すぎて困る」

「そりゃそうだ。でも別に、そこへの配属が嫌なら、公務員を辞めるという手もあるよ。形だけとはいえ、元特公というバリューネームだけで、どこの会社にも就職できるだろ」


 ふむ。病み床に回されるくらいなら、いっそ辞めたほうがマシなのかもしれない。

 考えうる限り一番辛い部署だし。

 過労死と事故死で凄い人数が殉職してるし。

 この年で死ぬというのは、流石に物寂しい気がする。


 今死んでも葬式の参列者人数は右手の五指で事足りるほどだろう。

 何という哀しい通夜なんだ。

 友達の少なさの弊害が、そういう時に出そうな気がする。


  しかしまあ、まだ成人迎えてない少年をそんな部署に回そうとするかな。

 現にしてるんだから閉口せざるをえないけどさ、正直辟易する。

「…………」

「考えるのが長ーい。それで、結局どうするの?

 まあ当然辞めるよな。あんな精神病患者の集合体へ行くくらいなら、民間のほうがマシだろうしね」


 しかし、ここで辞めたら紅葉(妹)の面目が丸つぶれである。

 身内が仕事から逃げ出して退職するなど、良い笑いの種である。

 そんなことをすれば、後で紅葉に何と言われるか分かったものではない


「辞めたら、怒るんだろうな……」

「ああ、紅葉ちゃんのことか」

「ん、知ってるのか?」

「何言ってるんだか。あんたが弁当忘れてた時、学校まで届けに来たことがあったじゃないか。しかも何回も」

「そういえば、そんな事もあったっけな」


 記憶力が決して良くない僕のことだから、正直言って覚えていない。

 昨日の晩御飯を思い出せる人を尊敬するレベルだ。

とりあえず、まず一つ言えるのは、辞職の代償が殴打だけでは済まないということだ。

 紅葉は、淑女を養成するお嬢様学校を出ているくせに、僕に対してだけは異常に厳しい。

 紅茶のティーカップを持たせて啜らせたら誰も匹敵することのない愛くるしさと慎み深さなんだけどな。


 いかんせん、僕と二人きりになった時の紅葉は獣そのものだ。

 あれは怖い。

 今回のことが耳に入ったら、多分蹴りを入れても収まらないだろうな。

 何か最近機嫌悪いみたいだし。


 下手をすれば殺されるかもしれない。

 言いすぎかもしれないが、あいつが一度理性を喪失したら、正直言ってもう僕にはお手上げなのだ。

 進めば労働地獄、退けば虐待地獄。


 前門の虎後門の狼という故事はこうやって作られたんだろうなあと、染み染み感じてしまう。


「狼と虎を動物園でしか見たことがないあんたが、それを語るのは軽挙妄動だね」


 ……ん、まさか読まれた?

 此奴、またしても精度を上げたのか。

 高校の時は、善司の心は読めても僕の心は読めなかったはずなのに。


 尚成長しているというのか、恐ろしい。

 その見事な飛躍ぶりを、胸の成長に回せればよかったのにな。


 ……あ、睨まれた。


 やっぱりこいつ、僕の思考を読んでるな。

 でも、いきなり蹴りが飛んでこない辺り、具体的に何を考えているのかまでは、察しがつかないのかもしれない。

しかしまあ、こいつがそんな鍛錬を積んだという話は聞かないんだけどなあ。


「……読心術をどこかで?」

「え……。まさか、精神科医が読心術も出来ずしてなれると思ってるのか?」


 非常識人を見るような眼で蔑まれた。

 何という視線と言動での波状攻撃。


「精神科って、凄い人達なんだな」

「……真に受けるなって。それに、私が出来るのは読心術じゃなくて、触心術だよ。

 酷く使い勝手が悪いから、読心術と一緒くたにされたら困るんだけどな」


 何だよ触心術って。寡聞にして聞いたことがない。

多少人の内心が分かるのなら、脳内で質問したら届くのだろうか。

 物は試しだ、やってみよう。


伊丹さんや。

 何故僕はこんな左遷などという受難に苦しまなければならないのでしょう。


「――愚直」


 すると、伊丹は一つ口の端から言葉を漏らした。

 抑揚と声量を抑えていたが、今度は聞き取れた。


「ん、愚直? それがどうした」

「特公が持ってはいけない三大性格の一つだよ。

 これはマニュアルになんて書いてないから、あんたは知らないだろうけどさ。

 理由なく飛ばされる奴らは、大抵この中のどれかに抵触してるんだ。

 三大性格――愚直・謙遜・道徳。

 見事にあんたは全てに引っかかってるからね。

 紅葉ちゃんもこの感情を内に秘めてるんだろうけど、上手く隠してる点、あの子は利口だよ。どこかの兄貴と違ってね」

「……どういう意味だよ」

「それが分からないようじゃ、公務員どころか人間として失格。

 万務公安課で答えを見つけてこい」


 質問に答えず、伊丹は会話を打ち切ってしまった。

 訊きたいことは、何一つ答えてくれない。

 すると、いきなり伊丹が携帯をいじり始めた。


 電話帳を開き、僕にチラつかせる。

 液晶には『権堂人事部長(早く逝ね)』と表示されていた。


 怖いよ。

 表示されてる人名の下に本心が羅列されてるよ。

 ひと通り僕の表情を窺った後、伊丹は携帯電話のボタンをプッシュした。


 無機質な呼び出し音が、淡いオレンジ色の壁に反響する。

 僕が怪訝な視線を向けているにもかかわらず、伊丹は電話を掛け、耳に押し当てた。


「あー、権堂部長? 例の人事ですが――世渡邦治(せとくにはる)特公本部労働課所属は、現職を辞して、是非とも万務公安課に出向したいと申してまーす」

「なっ、おい!?」


 まだ決断を下していないというのに、左遷を確定付ける文言を発しおった。

 僕は急いで撤回しようとしたが、伊丹の脚より飛来してきたスリッパが顔を直撃し、僕はタイルに沈んだ。


「そうそう。つまり左遷で万事解決ってことで――。

 ……はぁ? 何言ってんだ。それは妹。

 世渡って名前は二人いるんだよ。落ちこぼれとエリート!

 間違えたら首が飛ぶぞあんた」


 意地の悪いことを受話器に吐き散らす伊丹。

 歳の行った部長が聞き間違えているらしい。


「だーかーらー! 違うっつーの! 聞けジジイ!

 万務公安課に行くのはせ・と・く・に・は・る。

 性別男の方。……そう、そうだよ。同じこと何回も聞くな」


 散々罵声を浴びせて、伊丹は通話をブツリと切った。

 あーもう、とイライラしながら頭を掻きむしっている。


「……信じらんねえ。痴呆が更に進んでやがる。いい加減あの爺さんも首切られろよ」


 ブツブツと呪詛の念を示し、伊丹は地に伏せる僕を睨め下げてきた。

 しかし本当、こいつは機嫌が悪いととことん口調が荒くなるな。

 元々荒っぽいだけに、怒った時はチンピラ級だ。


「てかあんた、学生時代と何一つ変わってないな。

 困難が到来しても、逃げると云う良策を排して、立ち向かうと云う愚策を選ぶ。

 内心は道化を気取っていても、危機に瀕すれば直ぐにボロが出る。

 公務員には向いているかもしれないけど、特公とは正反対の性格だよ」


 その様に念を押し、返答を急いてきた。

 僕は諦めたように、肩の横に手をやり、降参の意を示した。

 俗に言う、やれやれのポーズだ。


「不適格、か」

「そ、ご愁傷様。

 でもまあ、万務公安課には『少女狂い』が居るから、多分危険はないだろ。

 あいつは、全能力値がカンストしてるからな。奴もあの精神病さえなければ、特公のエースだったろうに」

「ああ、善司のことか」


 あの病的なまでに少女を追いかけるイタリアンハーフね。

 今日も元気に鏡子に迫っていることだろう。

 外で見つかったら捕まりそうな画だけど、本人たちは必死なんだよな。


「懐かしいよな。あいつは特公試験で、私と最後まで首席を争ったんだ。

 でも、奴は一番人気の特公医療課には志願せずに、万務公安課に志願した。

 私と城崎とあんた、高校時代はよく学長に目をつけられてたっけ」


 遠い目をして伊丹は呟きの輪を形成する。

 このままだとウロボロス状態になりそうなので、早々に合いの手で流れを打ち切った。


「懐古は暇な時にしてくれ。その時は善司も連れてくるからさ」


 すると、伊丹は途端に苦い表情を浮かべた。

 隣においてあるコーヒーの所為でないことは確かだ。


「やめろ。あいつの精神に触れたら私まで狂いそうだ」


 さらりと波紋を呼びそうな言及をする伊丹。

 善司が聞いたとしても、別に怒るような発言じゃないが、流石に目に余るぞ今のは。

 慣れているとはいえ、一応は釘を刺しておく。


「酷いな。精神疾患で差別するなよ」

「してないよ。精神科医はそんな事で差別なんかしない。

 あいつの場合は、友人として差別してるんだ」


 変わらないだろうと思ったが、堂々巡りの問答になりそうなので僕の方から話題を放棄した。


 まったく、人を評価する時はいつも刺々しいな。

 絶対友達居ないタイプだろ。

 そういえば高校時代、こいつは女子のグループに全然入ってなかったな。

 可哀想に、バカ三人衆の人徳の無さは就職してからも健在ってわけか。


「今度開かれる伊丹家社交界には総勢400人が来席するんだけどね」

「聞こえているっ!?」


 やめろよ触心術は。

 まともに心中で悪口も言えなくなるよ。

 僕が俯いて心を閉ざしていると、伊丹がローラーの付いた椅子で僕に近寄り、頭を撫でてきた。

 指を櫛のようにして、僕の髪の隙間を通してくる。


「な、なんだよ」


 同年齢の異性にこういうことをされると、気恥ずかしくて我慢できそうにない。

 たまらず、ふいっ、っと頭を横に振り、伊丹の手を払い落とした。

 心残り気に伊丹は自分の手を見つめ、それから僕に笑顔を向けてきた。


「向こう行って落ち着いたら、一報くれよな。いい暇つぶしになるからさ」


 その台詞が言いたいなら、別に頭を撫でる必要はなかっただろうに。

 一つ文句を叩き付けようと思ったが、伊丹の眼が小動物のそれにも似た色彩を浮かべていたので、悪態は突けなかった。

どうしていきなりそんな眼をするんだか。


「分かった。まあ、配属されたからには、全力を尽くすよ。

 知り合いが居るってだけで、肩の力も抜けて良い感じに仕事も捗るだろうしさ。

 それに、労働課と違って向こうには若い女性がいっぱい居るからな。

 目の保養にも最適だと思う」


 強がってみせると、伊丹は急に興味をなくしたようにペンをいじり始めた。

 キャップを指で摘み、タバコの禁断症状よろしく机をつついている。

  エリートの思考は良く分からない。


 善司は別だけど。

 あいつは煩悩の塊というか権化だから、僕の思案と非常に周波が合いやすい。

 よくよく考えると嫌だな。


 ぞんざいな手つきで出された契約書にサインをした。印鑑もポンと押す。


「それじゃ、行くよ」


 僕は椅子から緩やかに腰を離した。

 すると、急に絡みつくような視線を感じた。

 言うまでもなく、伊丹のモノだ。

 軽い悪戯心がある時に発する、怪光線といってもいい。

 

  人の内面を見透かしておいて、それを口に出そうとはしない。

 正直この女は苦手なのだ。

 ひんやりと冷えに冷えたドアノブに手を添え、捻る。

 鈍い音がして、徐々に扉が開き始めた。


 背後で、嫌にシニカルに、伊丹が挨拶を投げかけてきた。

 どんな表情をしているかは予想できるので、正直懊悩としてしまう。


「それじゃ、気をつけて逝ってらっしゃい」

「……行ってくる」


 僕は振り向かなった。

 強い逆風が、第一歩を踏み出すのを躊躇わせたが、僕は迷わず歩を進めた。

 停止した時間が、今ようやく動き出そうとしていた。



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万務公安課の華麗ではない職務 赤巻たると @akamakitaruto

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