第一話 森の異形
鬱蒼とした森の奥深くに、陽光降り注ぐ野原があった。
天から眺め下ろすことで初めて、黒々とした森の中央に極彩の光景が広がっているのが分かる。そのために空を飛ぶ手段を失って久しい人々は、暗い昏い呪われた森の深奥に楽園のような光景が広がっていることを知らなかった。
そのような光に満ちた野原の中央に。
ひとつの枯木が無為に佇み続けていた。
家族を失い、護る者をすら失った彼が。
憤怒の炎の果てに燃え尽きた悲しき枯種が。
彼を想うが故の森の牢獄に、ずっと閉じ込められていた。
◇
野原には数多の花々が咲き乱れている。その種別に四季の境はなく、方々の土地の花の姿が多々見受けられる。世界中の花々がひとつ野原に集い、幻覚じみた光景を作っていた。
枯木は、極彩の揺れる絨毯上にいる。
足下には濃淡様々な花。異なる種類の花弁達が、一まとまりの
「────」
枯れ朽ちた喉からはもはや音を発せず。
水分の抜け切った瞳はもはや何も映さず。
皮膚には多くの亀裂が入り、もはや人の形ではあるが人の姿ではなくなってしまった。
ものいわぬ枯木となった彼は、世界の片隅に生じた平穏の中に過ごしていた。
この野原に来られる者はいない。枯木の住む場所へ誰かが訪れるのを森が拒むからだ。誰一人として森は通行を許可せず、その命を喰らう。
迷い子であろうとも、森は容赦なくその命を貪るだろう。
誰ひとりとして〈枯木の野原〉に辿り着けない。
森に認められない限りは。
森に認めさせない限りは。
◇
枯木は悠久の時を過ごしていた。
空を行き交う雲の流れと咲いて萎れる花々、頭上を飛ぶ鳥の影を眺めて気の遠くなるような時を刻んだ。これ以上朽ちることのないその身は、もう既に果てた人間の肉体である。
今は3035年。時の魔王──イガニモア・イヒヌカデイカ・ネヒカクスティマが、無価値のディアの寵愛を受けたその魔王が、十三の抑止を
◇
少女は父の言い伝えを破った。
『〈太陽のない森〉には絶対に入ってはならない』
お山の麓に広がる森は人を喰う、と村の大人たちは口々に言う。彼らは森を怖れていた。
〈太陽のない森〉
枝と葉が幾層にも絡まりあって太陽を遮断するために、そう名付けられた。少女の住む村の中だけで通用する地名である。ひょっとすると国が正式名称をつけているのかもしれないが、幼い少女は父が言うのと同じく〈太陽のない森〉とその森を呼んでいた。
「う……ぐ、っ……! っく、っ!」
そして今、少女はべそをかいていた。
父の言いつけを真っ向から破り、ものの見事に迷ったのである。
暗い暗い森の中、ここがどこかも分からないところで、少女は不安に心を押し潰されて嗚咽をあげていた。声を上げるのも恐ろしく、ひたすらに声を噛み殺してしゃくりあげた。
「おとーさん………………おかあさん……うえ……っ」
四方八方が薄暗く、前を見ても後ろを振り返っても左右に首を動かしても森である。方角は分からず、どこへ帰ればいいのかも定かではない。やみくもに歩いたが、森はなお一層の暗さを増すばかり。枝や葉で少女の肌は傷つき、うっすらと血が滲んでいる。転んだ拍子に手首を捻り、服は泥だらけ。見るも無残な姿で、少女は森を彷徨っていた。
──ガサリ、と。
少女の背後で音が鳴る。
茂みがガサガサと揺れる。
死が、明確な身体を携え少女に近寄ろうとしていた。
◇
泣くことも忘れ、少女は丸くなった目でその揺れを見る。
茂みを掻き分けて出てきたその姿を見────「あ……」少女はへたり込んだ。腰が抜けた。チクリと枝がささる。
恐怖心が暴風雨のように吹き荒れるが、まったく動くことができない。
「ら……い……」
人のような声と共に現れたそれは、真っ白な姿だった。
カバが真っ白になって、その頭部から人の頭が生えたような異形。
背中に小さな羽根が見える。小さすぎるため、空を飛ぶことは不可能だろう。差し詰め、出来損ないの天使と云ったところだろうか。
「あああああぁぁぁん」
全てを喰らわんとばかりに開けられた大口は、少女の身体ならば一口で半分は軽いだろう。口の端から汚らしい涎をポタポタと落しつつ、その異形はのそのそと少女に近付く。
「う────ああああああああああッ!」
弾けたように少女は駆け出した。
逃げた。
後ろを振り返らず、ただ無心で走る。捕まれば必死なのは瞭然。
足がもつれてこけようとも、枝にぶつかり痛みを感じても、少女は背後に迫る白い異形から逃れたい一心でひた走った。
ガチガチと震える歯を噛みしめ、ボロボロと零れる涙を拭こうともせず。
景色はめまぐるしく変わる。
どれも似たような光景がすぎゆく。
全て薄暗い森の一部。切れ目は見えない。
息があがり、いよいよ身体の方に限界が見え始めた折──突如、視界が開けた。
◇
枯木は瞬時に察知した。
──入って来た者がいる。
身体の上に小鳥たちがとまり、枯木のための歌を歌っていたところであった。
枯木はその異物たちの場所へ緩やかな動作で首を動かす。
野原の入り口に一人の少女が倒れている。
そして、森の切れ目から、一体の白い異形が顔を──「ッ!」枯木の姿が消える。突如足場がなくなったため小鳥は地面に落下してしまった。ぽてんと落ちて、きょとんとした顔。
もの言えぬ枯木は、記憶すら枯れ果てた彼草は、しかしそれでもその怨嗟を忘れていない。その激怒を、激昂を、憤慨を、激憤を、憎悪を、憤怒を……!
憎き、憎き憎き憎き憎き憎き憎き天使共────ッ!!
瞬く間に少女と天使の間に割り込み、枯木は錆まみれの大太刀を
動きを刹那に止めた枯木の、その隙をついて、異形はその大口を開き、枯木をまるごと飲み込まんと突撃を始めた。しかし、枯木は意を決したふうにその濁った瞳に悲愴な意志を宿し、再び大太刀を白き異形に向かい──一閃。
「て……しいあ、あ…………ら…………い」
異形は縦に両断され、うめき声をあげ、夥しい血雨を降らして果てる。
枯木はその異形の、人間のような頭部の方へ細枝のような指を突き刺し、グジュグジュと中身を掻く。
目的のものを探り当てたため、枯木は指を引き抜く。手には血塗れになった石のような物体を握っている。そして、
「……!」
ほんの一、二秒、その石を眺めたのち。
手に力を込め、握り壊した。
ちらと、枯木は少女の姿を見る。失神している。
緊張の糸が切れたのか、はたまたもはやこれまでと諦めたのか。
血の雨に打たれたその姿は重傷人のソレである。幸いなことに少女自身の怪我はかすり傷や切り傷で済んでいる。
「……」
恐怖から解放され色々と緩んでしまったのだろう。少女は悲惨な状況になっていた。異形の血でべとつき、薄手の服もところどころ破れ、白磁のような肌がはだけている。
太陽に照らされるふんわりとした草の上、少女は不愉快そうに身をよじらせた。身体を取り巻く様々な体液を不快に思っているらしい。水で洗い流すと彼女もゆっくりと安眠できることだろう。
──どうしたものか。
数秒を黙考に費やし、枯木は水を汲んでくることに決めた。
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