ぐるぐる

千里温男

第1話

父の高明が思いがけナク交通事故で急死したので、明夫はとりあえず1週間の休暇をとった。

通夜も葬儀も終わって客たちがすっかり帰ってしまうと、妻と応援に来てくれた義妹と義母が部屋を片付け始めた。

明夫はキッチンで3歳の娘のお守りをしてやる。

後片付けが終わると、妻と義妹と義母が明夫と子どもなどいないかのように雑談を始めた。

だんだんと声が大きくなり笑い声さえ立てる。

なんという連中だ、不謹慎だと不愉快になってきた。

女たちの主を主とも思わない我がもの顔にうんざり、とても一緒にいる気にならない。

こんなことなら、葬儀が終わり次第さっさと出勤してしまえばよかったと思った。

もう明日から出勤しようかなどと思う。

娘がむずかるので、近くの河川敷へ散歩に連れて行くことにした。

河川敷に行くと娘は大はしゃぎ、手を振り切って駈け出そうとする。

手は放さずに、それでも娘の行きたがる方へ行かせてやる。

「きゃっきゃっ」と声をだしてはしゃぐのがとてもかわいらしい。

ああ、これが生命というものかと思う。

しばらくしてからベンチに並んでかけさせて休ませる。

娘が体をすり寄せて

「だっこ」と甘えてくる。

胸にぎゅっと抱きしめると、顔をうずめるようにしてじっとしている。

小さな体の予想外の弾力がとてもいとおしい。

この幸せがいつまでも続くようにと祈る。

家に帰ると、女たちの猛烈なおしゃべりは終わっていたが、なんと義妹も義母も今夜は泊まっていくと言う。

どうやら、ここで、思う存分、羽を伸ばすつもりらしい。

仕方がないので、顔だけはにこにこと女たちの雑談に加わるふりをする。

心のうちをさとられないように、娘をあやしながら、適当に相槌をうっている。

そうしていると、玄関チャイムが鳴った。

妻が面倒臭そうに思い尻をあげて行く。

しばらくすると、妻が大きな声で明夫を呼ぶ。

明夫が玄関に行ってみると、ひとりの老婆が妻と対峙するかのように立っている。

白髪で腰が少し曲がっているが、皺の顔が妙に艶々しているのも、薄っぺらな唇が赤いのも妖怪のようになまめかしい。

どこかで見たような気がする。

「お父さんのお母さんだと言っているんだけれど…。」と、妻が迷惑を貼り付けたような顔で言う。

「はい、高明の母おやですじゃ。死んだと聞いたもんで、線香をあげに来ましたんじゃがのう。」と、妙にはきはき言う。

それで明夫は思い出した。

まだ母が生きていたのだから中学生の頃だったろう、3~4回この家に来たことがある老婆だ。

来る度に1~2日泊まっていったはずだ。

富田八重という名で、祖父の妻で、父が幼い時に離婚して家を出て行った人だと、母から聞いている。

父は、自分を捨てた人だと、恨んでいたとも聞いている。

母は老婆に、うわべだけは優しく応対し、帰るときには、みやげといくらかの小遣いを持たせてやっていた。

しかし、母の様子は、明夫にはよそよそしく感じた。

「じゃあ、お婆ちゃんは富田八重さんですか?」と、明夫が尋ねると、老婆は

「はい、八重ですじゃ、どうぞ、線香をあげさせてやってくださりませ」と答えた。

明夫は、いくらか懐かしく思いながら、父の祭壇の前に八重を案内した。

八重は慣れた手つきで線香をあげ、数珠を持ってお経を唱えだした。

お経はいつまでも止まない。

仕方がない、夕食を出すことにした。

明夫が

「お婆ちゃん、晩ご飯の用意ができましたから…」と言うと、八重はすっと立ち上がった。

食事の後、妻が

「タクシーを呼びましょうか」と帰りを促すように言うと、

八重は

「初七日までお世話になるつもりですがの。嫁にそう言うて出て来ましたのじゃがの」と言う。

妻は卒倒しそうになり、明夫ははなはだ困惑した。

翌日、朝早くから、八重は祭壇の前でお経をよみ、朝食が済むと、またお経を始め、昼食後も夕食後もお経をあげるのであった。

そのお経がぶつぶつと小声なので、はっきりとは聞き取れないのだが、明夫には所々

『なんか食いたい、うまいもん食いたい…』と聞こえてしょうがないのである。

明夫が祖父や父のことを尋ねると、八重は

「爺さんが殴る蹴るのひどい人でのう、それで我慢できずに家をでましたのじゃ」と言うばかりで、すぐにお経をはじめてしまうのである。

明夫は4日目には出勤した。

会社にいる方がずっと楽である。

しかし、妻はどんどん機嫌が悪くなっていく。

「あの人、食べることとテレビを見ることとお経をあげることしかしないのよ。私が話しかけたり買い物に誘ったりすると、すぐにお経を始めるのよ。全然、動こうとしないんだから」

「そりゃあ、あの年だから、動くのは億劫だと思うよ」

「でも、あの人をおいて買い物には行けないでしょう」

「あの年だよ、何も悪さはしないだろう」

「何のんきなこと言ってるの、お線香やろうそくに火をつけるのよ。目を離せるわけないじゃない」

これには明夫も困った。

けれども、娘の保育園への送り届けと買い物は、会社の行き帰りに自分がするから、初七日まで我慢してほしいと、妻を拝み倒して、何とか乗り切ろうとした。

ところが翌日、明夫が会社から帰ると、妻が玄関に飛び出して来て、

「大変、あの人、八重さんじゃないわよ」と、悲鳴のような声で話しだした。

「きょう富田さんのお宅へ電話したのよ。そうしたら、奥さんが『うちのお婆ちゃんなら、ここにいますよ』って言うじゃない」

「まあ、落ち着いて。居間で座って話そう」

ソファーに座るか座らないうちに、妻はまた話し出した。

富田家の奥さん、つまり八重の嫁は、八重には七重という双子の姉がいて、その七重が八重になりすましているのだと教えてくれたと言う。

「以前にも、八重さんになりすまして、つけで買い物をしまくったことがあるそうよ」

「そんなばかな。あのおばあちゃん85だと言っていたよ。ほんとうに双子だとしても、そんなに頭が回るかなあ」

そうは言ってみたものの、あの妖怪のようななまめかしさと、人をくったようなお経のことを考えると、そういうこともあるかも知れないとも思える。

それにしても、妻はなぜ富田家の電話番号を知っているのだろう。

「どうして、富田さんちの電話番号を知っているの?」

「あの人がケータイを持っているのを見たの。だから、ゆうべ、あの人がお風呂に入っている間にアドレス帳を見ちゃったの」

明夫はびっくりした。

これは油断できない、気をつけようと思った。

シカシ、それはおくびにも出さずに、

「で、まだいるの?」と訊いた。

「いるわよ。早く追い出してよ」

「追い出すと言ったって、乱暴はできないよ」

「富田さんに迎えに来てもらえばいいdしょ。そのくらい当たり前でしょ」

明夫は富田家ヘ電話する前に、八重に、

「お婆チャンは、ほんとうは七重さんでしょう?」と尋ねてみた。

そして、妻が富田家へ電話して、嫁から聞いたことを話して聞かせた。

すると、八重は

「あの嫁はいつもそういうことを言いますのじゃ。私を引き取りたくないのでのう」と、驚くべき返事をした。

明夫は意識が朦朧としてきた。

これは夢ではないだろうか、昔母が死んだことも、先日父が死んだことも、今こうしていることも、みんな夢のような気がしてきた。

「嘘よ。帰りたくないから、ソンナコト言ってるのよ。早く電話してちょうだい」と言う妻の声に、はっと我に返った。

富田家に電話すると、幸いに富田氏自身が出テ、

「それは迷惑ヲかけまして…。妻は少々欝気味で、時々、あらぬことを言いますので…。とにかく、これから母を迎えに行きますので…」と答えた。

明夫は何だかわけがわからなくなってきた。

それでも、妻に、富田氏が言ったことと、彼が八重を迎えに来ることを伝えて、お茶の用意をするよう頼んだ。

妻は、ほかのことには関心が無いらしく、

「すぐ来るって言ったのね」と、それだけを念を押した。

八重にも、息子が迎えに来ることを告げた。

八重は

「それはそれはたいへんお世話さまでしたのう。」と言ったが、皮肉のようにも聞こえないではなかった。

富田氏は車で八重を迎えニ来た。

彼はほぼ父と同年輩に見えた。

彼は頭を下げるでもなく、

「どうも…」と言い、

「これは、お寂し見舞でして…」と、大きいが平べったい包みを差し出した。

八重は息子に手を引かれてのろのろと車に乗り込んだが、明夫や妻を一度も振り向かなかった。

車が見えなくなってしまうと、妻は

「ああ、よかった!」と、体を伸ばしながら、ほんとうに嬉しそうな声を出した。

明夫は夜ベッドの中で、ぼんやりした頭で、妻や八重たちのことを考えた。

あの八重という人は一体どうなっているのだろう、女性はみんなあんなフウになってしまうのだろうか?

老婆によそよそしかった母、口やかましい妻、あつかましい義妹と義母、妖怪のような八重、わけのわからない嘘をついた富田の妻、そして、かわいい3歳の娘…

いくな何でも、娘はあんなふうにはなるまい…

だが、明夫の頭の中で、娘を真ん中に、妻や義妹や義母や八重や富田の妻たちがぐるぐる回り続けるのであった。

(おわり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ぐるぐる 千里温男 @itsme

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る