ふかづめ。
しけた。
第1話
一。
キイチのつめは、はやく伸びる。あたしが知っているおとこの中でいちばんはやく、伸びる。いくらふかく切っても、ものの一週間もすれば、しろくてほそいあの指先に、つんっ。と伸びて出る。
だからあたしはキイチの、つめを切る。
つめを切られるとき、キイチは、かたくなる。
「こわいの。」
とあたしが聞くと、
「ちょっとね。」
とキイチは答える。
「おとこなんだからこわがらないでよ。」
とあたしが言うと、
「おとこだってこわいものはこわいんだよ。」
とキイチは言い返す。
キイチはあたしの前だと、弱虫で、少し頼りない、おとこになる。そんなおとこは、キイチが、はじめてだった。
つめは、ひと指ずつ、切ってゆく。
指はつめたく、こわがっている。
ととのった甘皮のあたりが、紫色に、こわがっている。
左の親指、次に人差し指。と順に切ってゆく。
つめはやわらかい。つめ切りの先で挟むと、するりと落ちる。
「切れたよ。」
とあたし。
「うん。」
とキイチ。
指が、ふるえている。
「また切るよ。」
「うん。」
「もっと切るよ。」
「うん。」
「こわくいないでしょ。」
「ううん。」
つめは次々と、するりと落ちた。
中指は、最後に切る。
どうして中指を残しておくのかと、キイチに聞かれたことがある。
あたしは答えた。
「好きな、指だから。」
キイチは真っ赤な顔をして、黙ってしまった。
あたしの手の中のつめたい指は、やがてあたたかく、ゆるやかに、なった。
二。
キイチのことを話すと、シタ子はいつも、嫌な顔をする。
おんながおとこのつめを切っている。その図式が、シタ子は気に入らない。ダンソンジョヒだと、ジョセイベッシだと、シタ子は言う。いつも言う。
だからあたし、首を、横に振る。
あたしシタ子に首を振って、
「ちがうの。」
と言う。
「そんなんじゃないの。」
と言う。
だけどシタ子、わからない。
シタ子、溜息をつく。首を、横に振る。おおきく振る。
「わからない。そんなこと、あたしには…わからない。」
わからない。シタ子、わからない。あたしに指を差し出すとき、キイチがどんなにかたくなるのか。わからない。だからあたしの手の中の、キイチの指がどんなにつめたくて繊細なのか。わからない。そうしていると、あたしの胸がどれだけ高鳴るのか。わからない。やわらかい。シタ子よりもやわらかい、キイチのつめが、どんなふうに切れて、落ちてゆくのかも、わからない。だからあたしが、いつもふかづめにすることも、すごくふかづめにすることも、わからない。痛がるキイチを見て、あたしがよろんでいることも、わからない。だからシタ子、わからない。シタ子は、わからない。シタ子には、わからない。わからない。わから、ない。
シタ子は、キイチのことを話すと、嫌な顔をする。
だからあたし、いつもキイチことを話して、聞かせる。
三。
「やすり。」
と言うキイチの声は、ざらざらしている。どこが、とは言えないけれど、いつもとちがう。ざらざらしてる。
「もう一度言って。」
「やすり。」
「もう一度。」
「やすり。」
「もう一度。」
「やすり。」
キイチはあたしに言われれば、何でもする。何度でもする。だからすぐに覚える。うまくなる。
なのに何度言ってもキイチの「やすり。」は、ざらざらしている。
なめらかに、ならない。
「やすり。」
またキイチが言う。
「やすり。」
もう一度言う。
「やすり。」
いつもとちがう。
「やすり。」
ざらざらしてる。
「やすり。」
なめらかにならない。
「やすり。」
キイチの、
「やすり。」
四。
なめらかにする。
切ったままのつめは、ちくちくしている。つめ用のやすりを使って、なめらかにする。
やすりで撫でると、キイチはびくんっと、からだをふるわせる。
キイチが、かたくなる。
つめに、やすりを当てる。かるく挽くと、削れたつめが、はらはらと、落ちる。また挽くと、またはらはらと、落ちる。挽くごとに、つめは、さらにふかづめになってゆく。やがて指先からちりと、血が、にじみ出す。キイチはかたい。あたしはきつく、やすりを当てる。キイチのつめと、指を削る。なめらかにする。なめらかに、する。
なめらかになる頃、キイチの指は血塗れで、あたしの手は、血で、汚れている。
あたしは舐める。
ぺろぺろと舐める。きれいになるまで舐める。血は、つめたくてかわいている。きれいになると、キイチの指の血を、舐める。指の血は新鮮で、あたたかい。舌先を、つめと肉の間に、捻り込ませる。びくんっ。からだをふるわせ、キイチが呻く。
「痛いの。」
あたしは聞く。
「うん。」
キイチは頷く。
たまらなくなる。
指に、歯を立てる。
「痛いでしょ。」
「うん。」
血が、なめらかに、あふれ出す。
五。
聞いて、みたことがある。
「ほかのひとにはどんなことをされていたの。」
「ちがうこと。」
「どんなふうにちがうこと。」
「もっとちがうこと。」
「もっとちがうって、こんなこと。」
「ちがう。」
「じゃあどんなこと。」
「ちがうこと。」
「ちがうことをしたひとは、何人いたの。」
「しらない。」
「どうしてしらないの。」
「わからない。」
「これはしってる。」
「しってる。」
「そのひとはこんなことした。」
「しない。」
「そのひとはこんなこともした。」
「しない。」
「そのほかのひとはこんなこともした。」
「しない。」
「じゃああたしはどうしてするの。」
「わからない。」
「もっとされたいの。」
「わからない。」
「どうしてわからないの。」
「わからない。」
「なんにもわからないの。」
「ちがう。」
「じゃあなにがわかるの。」
「ちがうこと。」
「ちがうことして欲しいの。」
「わからない。」
「もっとちがうことして欲しいの。」
「わからない。」
「どうしてこんなことされたいの。」
「わからない。」
「あたしはどうしてこんなことをしているの。」
「わからない。」
わから、ない。
六。
知っている。
キイチの指は、あたしを知っている。あたしの指よりも、知っている。指は、なめらかに入ってくる。キイチは少し、痛そうな顔をする。あたしの中は酸性で、ふかづめの指を、溶かす。溶けてゆく。痛そうなキイチ。溶けた指は、さっきよりもなめらかに、ふかく、入ってくる。キイチは、指は、あたしの知らないあたしを掻き回し、入って、くる。
じくじくする。
あたしの中がじくじくと、する。
ふかづめ。 しけた。 @_shiketa
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