妹たちの謳歌
いより
こいがたきいもうと
今日はどういうわけか、珍しく早くに目が覚めた。何か理由があった気もするが、寝ぼけた頭で思い出せるわけもなく、そこは気にしないでちょっと早めに家を出た。
登校途中、後数分で学園というところで、遠くから聖歌隊の歌声が聞こえてきた。僕は立ち止まって、その旋律に耳を傾けた。恐らく学園の敷地内にある、聖堂から響いてくるのだろう。僕には何を歌っているかも分からないし、歌詞でさえも聞き取ることはできなかったけど、その高音の歌声が純粋に荘厳な響を持たせていることは分かった。
僕は止まった足を再び動かし始める。
もはやこんなことも日常的でしかなかった。初めて学園に来た頃は、聖歌隊とか聖堂とかそういった神聖なものとは縁遠い人間だったこともあり、この歌を聴くだけでも鳥肌が立つくらいの違和感を覚えた。
非日常的。
それは異常とも言い換えることができるものだった。
でも、いつしか異常は日常へと昇華する。
と言うか。
つまり慣れただけなのだ。
「……聖歌、ね」
聖歌という単語から連想される、一人の少女。
僕と同じクラスであり、僕の隣の席に座る彼女。
ラフラン・ミハイロヴナ・ミハイロヴァ。
知る人が聞けばすぐに分かるように、彼女はロシア人だ。正確には日本人とロシア人とのハーフ。絹糸のように細く銀色に輝く髪を腰まで伸ばしている。その髪色は非常に非日常的で、いつも太陽の光を反射して煌いていた。そのくせ、顔は日本人のように小顔であり、丸顔であり、あたかも日本人形であるかのように彫りのない澄んだ顔をしている。
日常と非日常が混在する。
それが彼女に対する、僕の感想だった。
彼女は不可思議な人間で、いつも聖歌隊のガウンと三角ストールを羽織って学園に登校していた。学園は私服登校が許されているにも関わらずだ。なんでいつもその服装でいるのか、ふと疑問になって僕は彼女に聞いてみた。答えは《可愛いから》だそうだ。感性が僕とは違った。
と言うか。
可愛いからといって、聖歌隊でもないのに聖歌隊の衣装を着るのはどうだろうか。
彼女は、聖歌隊に属しているわけではないのだ。
「……やっぱりよく分からないな」
僕は歩き続けた。
ふと、僕のものではない足音が聞こえてきた。
タッタッタッタ――
後ろから近づいてくる。
「兄ちゃんっ」
そう僕を呼ぶ声がして、僕はかったるそうに振り返った。振り返ったと同時、視界に入った少女が飛ぶ。片方の脚を振り上げて、叫んだ。
「死ねえっ!」
「あまいっ!」
僕は右腕で少女の蹴り上げた右足を外に弾く。と同時に膝頭を右腕で掴み、強引に少女を持ち上げた。
軽い。蹴りの衝撃が軽いことからも予想できていたが、体重は思った以上に軽かった。まるで、人形を持ち上げているかのようだ。
僕は少女の姿を見おろすように顔を向けた。
向日葵色をした艶やか髪を頭の両側で一つずつ結ぶ。小さな顔に似合わない大きな瞳は日本人のそれとは違い、絢爛な青玉の輝きを携えている。サイズが合ってないのか一見するとだらしなく見えてしまうくらいにぶかぶかした聖歌隊のガウンで身を包み、それに合わせた三角ストールを首に掛けていた。
と言うか。
妹の萌々だった。
「――きゃわあっ」
小さな鳴き声を出し、両手をぶんぶんと振り回し必死にバランスを取ろうとしていた。構わず僕は萌々を空に向かって引っ張る。萌々はこれから捌かれるマグロのように逆さにつるされる格好になった。ぶかぶかのガウンが地球の重力に引っ張られ、ずるずると下がっていった。
「ってちょっちょっ、待って待ってっ」
懸命にずり落ちるガウンを両手で掴む萌々。しかし時既に遅く、半分くらいずり落ちてしまい、僕の目の前に子供っぽい絹のパンツを露わにした。
「お前、ほんとにガキっぽいなぁ。なんだこの色気のないパンツ」
「ガキっていうな! と言うよりも何を冷静に見てんだよっ!?」
この変態、この悪魔、このロリコン、とか僕に罵声を浴びせながら、萌々は掴まれていない脚で容赦なく僕を蹴ってきた。
「いてっ、きたねっ。お前、土足で顔を蹴るなよっ」
はっきり言って、結構痛い。痛みのあまり、手を離してしまった。
「――き、」
叫ぶ間もなく、萌々は地面に叩き付けられた。
自然の摂理。
当然の道理。
因果応報で、
自業自得だ。
「いったいなあっ! いきなり手を離すとは何ごとだっ!?」
「お前が蹴るからだろ」
「兄ちゃんがパンツを舐め回すように見つめるからだろっ!」
「舐め回すように見つめる程には見てねえよっ! んな気持ち悪いことするか!」
「嘘だっ! いつもみたいにはあはあ言いながら目から血しぶきあげてただろっ!?」
「そんなことしてねえよっ! ってかできねえよっ!?」
それを言うなら、目を血走らせてだ。
どちらにせよ、そんなことはしたことがない。
犬のように歯をむき出しにして威嚇する萌々を見おろして思う。なんでこいつはいつもこうなのだろう? 僕にこうやってちょっかいを出すのは、まあいいさ。でも、もう少し年相応に大人しくなってくれないだろうか。兄として、ただただ不安になる。
こいつ、一生このままじゃないだろうな。
「ほら、いつまでも地面に座ってんじゃねえよ」
「……誰が座らせたんだよ」
ふて腐れた声を出しながら、萌々は身体を反らしすぐに戻した。両手を使わず、その反動だけで器用にとんっと音をたてて立ち上がる。羨ましいくらいの運動神経だった。
いや、やろうと思えば僕もできることだ。
多分。
「もう、ガウンが汚れちゃったじゃん……」
萌々はふわふわと微風に舞うガウンを叩くように払った。
「僕のせいじゃねえ。そもそもなんで僕に跳び蹴りをかましてきたんだよ?」
「兄ちゃんのせいで寝坊しちゃったからだよ」
「僕のせい?」
「今日は兄ちゃんの番だろっ?」
「……あ」
そういえばそうだった。今日は僕が萌々を起こす番だった。だから今日は早く起きたのか。完全に忘れていた。
二日おきに起こす番を交代するというのは、今更だが失敗だったと思う。二日おきにすると中途半端で返って自分の番がいつなのか分かりにくいからだ。これは、僕が萌々を時々起こし忘れることからも明白で、萌々が僕をしょっちゅう起こし忘れることからも明らかだった。
……あれれ、なんだか損した気分だ。
「すまん。忘れてた」
僕は申し訳なさそうな振りをして謝った。
「今日は聖歌隊の練習があるから、って念を押したのに」
恨めしさを目で表しながら、萌々が呟くように声を絞った。
「だから今日はガウンを着てるんだな」
「そうだよ。まぁ、もう間に合わないけどね」
気がつくと、先ほどまで響いていた聖歌隊の歌声は聞こえてこなかった。すでに、練習が終わってしまったのだろう。うん、ちょっと萌々には悪いことをしたな。
「兄ちゃんの馬鹿っ! この借りはいつか返せよっ」
「その言葉は微妙に間違ってるからな。まぁ、いずれ償いはするよ」
「いずれと言わず、今からしろっ」
「何をだよ?」
「ラフラン先輩に会わせろっ」
目をぎらぎらと光らせ射貫くように見つめてくる萌々。その言葉が出てくるのは予想はできたが、防ぐことはできなかった。
まあ、今回は間違いなく僕が悪いわけだし。
仕方ない。
「それはいいんだが。……でもさ、僕に頼む必要もないんじゃないか? 自分から会いに行けばいいだろう?」
「そんなアレンジなことができるかっ!」
「別に普通のことだからな。アレンジはしてないからな」
破廉恥だ。
「なんだよお前、まだ恥ずかしいとか言ってんのかよ。何回か会ったじゃねえか」
「む、むむ無理だ」
自分一人でラフランと会うことを想像したのだろうか、萌々は色白な頬を桃色に染めて歯を食いしばった。
こいつは本物だ。
本当に、萌々はラフランに恋をしている。
潤んだ瞳を瞬かせる萌々を見ると、そう確信できた。
「やっぱり無理だ……。恋敵である兄ちゃんに頼むのは癪だが、私にはそうするしかないんだっ」
「僕はラフランにそんな気を起こしたことはないけどな」
なんで兄妹で恋敵にならなければいけないんだよ。嫌すぎるだろ、その兄妹。
「そんな馬鹿なっ!? だって兄ちゃんはラフラン先輩の隣の席だろ?」
「隣の席だったら惚れるとか、僕は思春期の中学生か?」
馬鹿なんだろうか、こいつは。
馬鹿なんだろうな、こいつは。
「ああもう、この話は後でな。そろそろ学校に行かないと遅刻するぞ」
この話は正直長くなりそうだったので、僕は強硬にそう主張して、学校に身体を向けた。
歩き出すと後ろから、「あっ、話はまだ終わってないだろっ」とまるで定型文な言葉が聞こえてきた。
無視。
これは意地悪ではない。
本当に僕らは遅刻をしそうなんだ。
聖歌隊の練習は始業の十分前だったはずだ。いつ終わったのかは定かではないが、間違いなくそろそろ始業の時間だった。
「兄ちゃん。放課後、兄ちゃんの教室に行くからな」
「……分かったよ」
僕は振り向かずにそう言った。
理不尽な約束だった。
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